第42話 噂を売る令嬢
翌朝、王都の菓子屋は私の噂でよく売れていた。砂糖漬けの果実より、悪役令嬢の醜聞のほうが口に甘いらしい。
ヴァルトローゼ王都邸の門前では、下働きの少年たちが新聞売りの声を真似ていた。聖女を奪い、騎士を惑わせ、魔導令嬢を囲った公爵令嬢。どの言葉にも、本人の意思が一行もない。
「記事の買い手は、まだ王宮だけとは限りません」
馬車の中でユーリアが告げた。彼女の視線は窓の外へ向いたまま、手だけが私の膝に載せた帳面を押さえている。昨夜ミレイユから渡された薄い帳面は、表紙だけ見れば香料の納品控えだった。
「ローゼン商会は噂も品物として扱うのね」
「品物なら流れを追えます」
それは慰めではなく、事実の形をした励ましだった。私は頷き、別邸ではなく商会本店へ向かった。
本店は朝から忙しい。荷車、帳場、香料袋、両替商の使い。すべてが動いているのに、奥の帳簿室だけは息を止めたように静かだった。
ミレイユは帳簿室の中央で、袖口をきっちり留めて待っていた。今日は昨日より笑顔が薄い。そのぶん、目がはっきりしている。
「ようこそ。噂を買うお客様は裏口から入れるのですけれど、あなたは正面から来ると思っていましたわ」
「隠れて買えば、あなたをまた商品棚へ戻すことになるでしょう」
彼女は一瞬だけ返事に詰まり、すぐに扇を開いた。
「お上手。ではこちらをご覧くださいませ」
帳簿には、菓子屋、仕立屋、貸馬車屋、新聞刷り職人への小口の支払いが並んでいた。誰かが直接悪口を命じたわけではない。けれど同じ日、同じ時刻、同じ言い回しの噂が街中で咲くように金が撒かれている。
欄外に、青いインクで短い符丁があった。王冠の略印。王宮の資金であることを隠すには雑すぎる。むしろ、気づく者へ見せるために残したようだった。
「脅しね」
「ええ。ローゼン商会へ、どちらにつくか決めろという意味ですわ。父は王宮へつくつもりです。私は、まだ決めていません」
「本当に?」
問い返すと、ミレイユは扇の陰で苦笑した。
「意地悪ですわね。決めていないと言えば、あなたが止めてくださるかと思いました」
「止める前に聞くわ。あなたはどこへ行きたいの」
帳簿室の窓は高い。朝の光は入るが、外の通りは見えない。ミレイユはその窓を見上げ、少しだけ肩を落とした。
「自分の店を持ちたい。父の商会の娘ではなく、誰かの妻の会計係でもなく、私の名前で仕入れて、私の判断で売りたい」
「なら、それを記録しましょう」
私は鞄から白紙を取り出した。契約書ではない。本人の希望を書き残すための紙だ。セシリアにも、アイリスにも、ノエルにも必要だった。言葉を奪われる前に、自分の言葉を先に置く。
ミレイユはペンを持ったまま、すぐには書かなかった。商売の数字なら迷わない指が、たった一行の望みの前で止まる。
「書けば、父に見つかります」
「写しは私が預かる。原本はあなたが選んで」
「あなたは、どうしてそこまで他人の選択にこだわりますの」
胸の奥で、卒業舞踏会の光が一瞬だけ揺れた。王太子に選ばれる人生しか知らなかった私。悪役令嬢として退場する未来しかないと思っていた私。
「私も、選ぶことを取り戻している途中だから」
ミレイユはペン先を紙へ下ろした。線は少し震え、それから驚くほど端正な文字になった。私、ミレイユ・ローゼンは、自分の商会を持つことを望む。
その下に、彼女はもう一文を足した。誰かの財産として嫁ぐことを望まない。
* * *
帳簿の最後のページを開いた時、ユーリアの指が止まった。
「レティシア様」
欄外に、私の名があった。支払い先ではない。担保欄。ローゼン商会が王宮側へ従わない場合、ヴァルトローゼ令嬢の危険性を追加証言として差し出す、と。
ミレイユの顔から血の気が引いた。
「父が、ここまで」
「あなたのせいではないわ」
「でも、私がこの帳簿を渡したせいで、あなたの名が」
「私の名はもう十分に汚れている。これ以上は、洗い方を選べるだけましよ」
軽口にしたつもりだったのに、ミレイユは笑わなかった。彼女は帳簿を閉じ、両手で私へ差し出す。
「買ってください。噂ではなく、証拠として」
「代価は」
「明日、私の返事を聞きに来てください。金冠で買えない返事を」
廊下の向こうで、誰かが帳簿室の鍵を回した。内側からではない。私たちは顔を見合わせる。
ミレイユは初めて、商人の笑みではなく挑むような笑みを浮かべた。
「閉じ込められましたわね」
鍵の音がしたあと、ミレイユはすぐに机の引き出しを開けた。中から取り出したのは、菓子の包み紙と、街角で配られた小さな噂札だった。悪役令嬢が薔薇の屋敷で少女たちを囲う。聖女候補は泣いている。女騎士は操られ、魔導令嬢は研究を奪われた。どれも事実を一滴だけ混ぜて、毒を甘くした文章だ。
「腹が立ちます?」
「ええ」
「羨ましいですわ」
ミレイユは噂札を揃えながら言った。
「私は昔から、腹を立てるより先に売り方を考えてしまうのです。どの言葉なら広がるか、誰に渡せば値が上がるか。嫌な癖でしょう」
「生きるために覚えた癖を、嫌いにならなくていいわ」
彼女の手が止まる。
「でも、その癖で人を傷つけました」
「なら、今度は同じ技術で守ればいい。噂は刃にも盾にもなる」
そう言いながら、私はセシリアのことを思い出した。祈りは命令にも癒やしにもなる。アイリスの剣も、ノエルの魔法も、使う者の意思で意味が変わる。ミレイユの商才だけが汚れているはずがない。
彼女はゆっくり噂札を裏返し、余白に小さな印を書き込んだ。
「なら、盾の作り方を教えます。噂を止めるには否定だけでは足りません。別の話題を流すのです。たとえば、レティシア様が少女たちを閉じ込めている、ではなく、彼女たちがそれぞれの証言を準備している、と」
「それは本当のことね」
「本当のことは、案外よく売れますわ。出し方さえ間違えなければ」
閉じ込められた部屋で、彼女は初めて自分の武器をこちらへ向けずに差し出した。私はその瞬間、彼女の商談が救難信号から同盟の申し出へ変わったのを感じた。
扉の外で鍵を掛けた者は、しばらく動かなかった。中の会話を聞いているのだろう。ミレイユは声量を少しだけ上げ、わざと噂札の読み上げを始めた。
「悪役令嬢は聖女を泣かせた。悪役令嬢は騎士を奪った。悪役令嬢は魔導令嬢を眠らせた。ひどい文章ですわ。売れるのが腹立たしい」
「売れるのね」
「売れます。だからこそ、次はもっと面白い真実を流します。少女たちは奪われたのではなく、自分の席を選んでいる。ね、こちらのほうが続きが気になるでしょう」
彼女は閉じ込められているのに、もう出口の先へ噂を走らせていた。私はその強さに救われる。助けるつもりで来た相手から、戦い方を教わっているのだ。
「ちょうどいいわ。噂の売り方を、内側から見せてもらいましょう」
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