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第41話 赤い封蝋の別邸

 攻略対象の婚約者を奪う。


 そう決めてから、三度目の扉は金の匂いがした。


 ローゼン商会の別邸は、王都の中心から少し外れた香料街にあった。馬車の窓を開けると、乾いた薔薇の花弁と胡椒の匂いが混じって入り、貴族の応接室より先に市場の息づかいを感じさせた。


 私は膝の上で手袋の指先を整えた。王宮から届いた危険人物告発準備書の写しは、いまも鞄の底にある。けれど今日は、こちらから弁明に行く日ではない。噂を売買する令嬢が、赤い封蝋で私を呼び出した日だった。


 門番は名乗りを聞く前に扉を開けた。招かれている。そう分かるほど準備が整っていることが、かえって気に入らなかった。


 応接室の長卓には茶器が二組、契約書が一束、そして小さな砂時計が置かれていた。砂時計だけが横倒しにされている。時間を測らない商談など、商談ではなく罠だ。


 赤茶の髪の令嬢が窓辺から振り向いた。年上らしい華やかな笑み。だが、瞳の奥には値踏みではなく眠れなかった者の赤みがあった。


「ようこそ、レティシア様。王都で一番高く売れる醜聞の持ち主を、こうしてお迎えできるなんて光栄ですわ」


「私の醜聞に値がついたのなら、買い手の名を聞きたいわ」


「早い方は嫌いではありません。でも、早すぎる方は損をなさる」


 ミレイユ・ローゼン。商会令嬢。原作では、宰相子息マティアスに嫁ぎ、王宮の金庫番として才能を使い潰される女性だった。画面の中の彼女は最後まで笑っていた。だからこそ、前世の私はその笑顔を信じてしまった。


 いま目の前にいる彼女の指先は、茶杯の縁を押さえたまま動かない。笑顔だけでは隠しきれない緊張が、香料より濃く漂っていた。


「呼び出した理由は二つですわ。一つは、あなたの名で王宮が噂を買っていること。もう一つは、私自身が売り物にされかけていること」


 彼女は卓上の契約書を滑らせた。封蝋は鮮やかな赤。ローゼン商会の印に、宰相家の細い星冠印が重ねられている。婚約の仮契約にしては、商圏、倉庫、債権、護衛雇用権まで並んでいた。人の縁談ではなく、店の買収書類だ。


「あなたの署名は」


「まだありません。父は空白のままでも話を進められると思っています。マティアス様は、本人の同意は最後に整えればいいと」


 整える。その言葉だけで、手首の内側が熱を持った。破約の薔薇は、まだ発動していない。それでも、本人の拒絶を塗り潰す書類を前にすると、傷が記憶のように疼く。


「私に何を望むの、ミレイユ様」


「まずは噂を買ってください。王宮の買い筋、教会の回し金、あなたを危険人物へ仕立てるための支払い記録。全部ではありませんが、入口くらいはお見せできます」


「情報料は」


「私の逃げ道」


 笑みが深くなる。けれど声はかすかに掠れた。彼女は助けてと一言で言わない。商人の娘として、請求書の形にしなければ手を伸ばせないのだ。


 セシリアなら痛みを飲み込んで祈った。アイリスなら剣の柄へ手を置いた。ノエルなら観察記録に逃げた。ミレイユは、値札を貼ることで震えを隠す。誰も同じではない。だから同じ救い方では足りない。


「逃げ道は買えないわ。けれど、あなたが選ぶ場所を守る契約なら結べる」


 ミレイユの睫毛がわずかに揺れた。


「契約、ですの?」


「ええ。あなたを商品として扱わない契約。代価は、あなたが自分の意思を隠さず記録すること」


 彼女は初めて砂時計を起こした。細い砂が落ち始める音は聞こえない。それでも、部屋の時間が動き出したのが分かった。


「では商談ですわね。私、損をする取引は嫌いですの」


「私もよ」


「でも、損をしてでも守りたい帳簿があります」


 その言葉のあと、彼女は笑みを少しだけ外した。綺麗な商会令嬢ではなく、眠れない夜を数えてきた一人の女性がそこにいた。


* * *


 帰り際、ミレイユは私の鞄へ薄い帳面を一冊入れた。噂の売買帳簿ではない。彼女自身の縁談契約の控えだった。


「まだ署名しておりません。だから、まだ私の返事は売れていない」


「明日、改めて伺うわ」


「明日までに父が別の鍵を掛けます」


「鍵なら開ける方法を探す」


 ミレイユは玄関の燭台の下で、商人らしく優雅に会釈した。その笑顔が戻った瞬間、背後の廊下で男の靴音が止まる。


 家令ではない。商人でもない。法服の裾が扉の隙間に見えた。


 ミレイユの唇が、音を立てずに動く。


「宰相家です」


 馬車へ戻る途中、私は別邸の庭に並ぶ赤い薔薇を見た。手入れは行き届いているのに、花の根元には商会の荷札が結ばれている。美しいものへも管理番号を振る家。ミレイユが値札で身を守るようになった理由が、少しだけ分かった気がした。


「レティシア様」


 ユーリアが低く呼ぶ。


「屋根の上に二人。門の外に一人。護衛ではなく見張りです」


「宰相家?」


「一人は王宮の影に近い歩き方です」


 王宮、宰相家、商会。三つの思惑が一人の令嬢の返事へ集まっている。セシリアを国のものと呼んだ声、アイリスの剣を家の飾りにしようとした声、ノエルの研究から感情を削った声。それらが今度は金の匂いをまとっているだけだった。


 私は別邸の窓を振り返る。ミレイユはもう姿を消していた。けれどカーテンの隙間に、赤い扇の先が一瞬だけ見えた。別れの合図ではない。見ている、という合図だ。


「彼女は助けを求めたのでしょうか」


 ユーリアの問いに、私はすぐ答えられなかった。助けて、と言わせることだけが救出ではない。むしろ、言えない形にされているなら、こちらが聞き方を変えなければいけない。


「まだよ。彼女は商談を始めた。だから私は、商談相手として戻る」


「承知しました」


 ユーリアはそれ以上聞かない。その距離がありがたい時がある。王都邸で待つ三人へどう説明するか考えながら、私は赤い封蝋の写しを鞄の中で押さえた。次にここへ来る時、ミレイユが自分の言葉で扉を開けられるように。


 王都邸へ戻ると、セシリアが私の手首の痛みに気づいた。まだ破約の薔薇は使っていないのに、契約の匂いだけで傷が熱を持つ。彼女は何も聞かず、温めた布をそっと差し出した。


「また、誰かが嫌な約束をさせられそうなのですね」


「ええ。今度は金額の形をしている」


 セシリアは悲しそうに頷いた。アイリスは剣帯を締め直し、ノエルは帳面の余白に赤い封蝋の形を描く。それぞれの反応が違うから、私は一人で戦っていないと分かる。明日ミレイユへ戻す言葉は、私だけのものではなく、この屋敷の全員で作る返事になる。


 赤い封蝋の別邸から出た私たちを、もう次の買い手が待っていた。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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