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第39話 薔薇のサロンという名前

 名前は、ただの飾りではない。


 聖女候補。


 未叙任の女騎士。


 共同研究者。


 どれも誰かが都合よく貼った名だった。


 だから私たちは、自分たちの場所へ自分たちで名をつける必要があった。


 王宮へ提出する名簿の前に、応接室の大きな机へ白紙を広げる。


 セシリアは祈るようにペンを持つ。


 アイリスは候補名を書くたび姿勢を正す。


 ノエルは寝不足を取り戻しながらも、なぜか命名には参加する気満々だった。


 ユーリアは壁際に立っている。


 今朝より少しだけ近い。


 それだけでいい。


「避難所、では弱いでしょうか」


 セシリアが最初に言った。


「保護の理由は伝わります」


 アイリスが真面目に頷く。


 ノエルは首を横へ振る。


「避難だけだと、逃げた後の生活が含まれない」


「では共同研究所」


「ノエル様の比重が大きすぎます」


「剣と祈りの研究もできる」


「朝食もできます」


 セシリアが言うと、ノエルは少し考えた。


「朝食研究所」


「王宮に提出できません」


 アイリスが真顔で却下する。


 その真剣さに、私は思わず笑った。


 笑った瞬間、三人の視線がこちらへ集まる。


「レティシア様は、どう思われますか」


 セシリアが聞く。


 どう思う。


 その問いに、私は白紙を見つめた。


 ここは私の屋敷だ。


 けれど私だけの場所にしてはいけない。


 私が中心になるほど、彼女たちを所有しているように見える危うさがある。


 それでも、王家や教会から見れば、すでに私は悪役令嬢で略奪者だ。


 ならばせめて、内側の名前だけは優しくありたい。


「サロン」


 私は呟いた。


「逃げ込むだけではなく、話して、食べて、眠って、仕事をして、必要なら戦う場所」


 セシリアの目が明るくなる。


「薔薇のサロン」


 彼女が続けた。


 アイリスがゆっくり頷く。


「守る場所として、覚えやすいです」


 ノエルが紙へ式のように書く。


 その響きが、思ったより自然に胸へ落ちた。


 文字の横に、小さな花弁が添えられた。


「分類、自由意思保全共同体」


「提出書類には書かないでください」


「内部名なら可」


 ユーリアが壁際から静かに言う。


「王家はその名を嫌うでしょう」


「でしょうね」


「薔薇はヴァルトローゼの象徴です。そこへ聖女候補、近衛騎士、魔導令嬢が集う。政治的意味が強すぎます」


「強い名前の方が、隠しにくい」


 私は答えた。


 隠れ家なら、踏み込まれた時に弱い。


 けれど名を持つ場所なら、記録に残る。


 奪い返した少女たちが、ただ匿われているのではなく選んで集っていると示せる。


「名簿には本人同意書を添えます」


 私はペンを取った。


「セシリア様は療養と本人意思確認のため。アイリス様は叙任証再発行後の安全保全のため。ノエル様は研究盗用審査中の原稿保全と療養のため」


「ユーリア様は?」


 セシリアが自然に聞いた。


 ユーリアが固まる。


 私は彼女を見る。


「私付き侍女兼護衛として、本人希望により」


「本人希望」


 ユーリアが繰り返す。


「違いますか」


 長い沈黙があった。


 彼女はいつものように否定できたはずだ。


 命令です、と言えば終わる。


 けれど言わなかった。


「現時点では、保留で」


 それは拒絶ではなかった。


 私はペンを持ったまま頷いた。


「では保留と書きます」


 ノエルが帳面へ何かを記録する。


「本人希望、保留。重要」


「記録しすぎです」


 その時、門の外からざわめきが聞こえた。


 家令が急ぎ足で入ってくる。


「お嬢様。王都で噂が流れています」


「どんな」


「ヴァルトローゼ公爵令嬢が、婚約者のいる令嬢を次々に奪い、薔薇の屋敷へ集めていると」


 アイリスの表情が硬くなる。


 セシリアは胸元を押さえた。


 ノエルは淡々と呟く。


「事実の一部を悪意で並べている」


 私は白紙に書かれた名前を見る。


 その名は甘い。


 噂が先に外で歪めるなら、こちらは内側から正しい名を持つしかない。


 私はペンを置いた。


「その噂も、記録しましょう」


 家令は一礼する。


 甘い場所には、もう外の棘が届き始めていた。


 薔薇のサロンという名を書いた紙は、応接室の中央へ置かれた。


 ただの候補名なのに、三人とも何度も見ている。


 セシリアはその横に小さな祈りの印を添えた。


 アイリスは警備導線を描き込もうとして、私に止められた。


 ノエルは自由意思保全共同体という副題を書きかけ、全員に止められた。


「正式文書には長い方が正確」


「王宮の役人が逃げます」


「役人?」


「ええ。目を通す前に頭痛を訴えます」


 危ない。


 長すぎる名を前にした官吏の顔が、妙にはっきり浮かんだ。


 私は手袋の指先を整え、笑ってごまかす。


 セシリアは気づかなかったふりをしてくれた。


 アイリスは真面目に首を傾げている。


 ノエルだけが、あとで聞くという顔で帳面に印をつけた。


 この子は油断ならない。


 家令は新しい看板を作るか尋ねた。


 早すぎる。


 けれど胸が少し弾む。


 看板を掲げる場所になったら、もう隠れ家ではない。


 訪れる人を迎え、出ていく人を見送り、戻る人のために灯りを残す場所になる。


「まだ内側の名前にしましょう」


 私は言った。


「でも、いつか表へ出すかもしれません」


 セシリアが嬉しそうに頷く。


 アイリスは守る対象が増えた顔をする。


 ノエルは看板の素材を本気で検討し始めた。


 ユーリアは黙っていた。


 けれど壁際から半歩だけ机に近づいている。


 その半歩が、今日の彼女の返事だった。


 外で広がる略奪令嬢の噂に、こちらは薔薇のサロンという名で答える。


 奪ったのではなく、帰れる場所を作る。


 その違いを、これから何度でも証明しなければならない。


 噂の報告を聞いた後、三人はそれぞれ違う反応をした。


 セシリアは、自分がまた誰かの争いの理由になることを恐れているように見えた。


 アイリスは噂を流した者を探すべきだと即座に言った。


 ノエルは噂の構造を分解し始めた。


「略奪令嬢という語は、奪われた側の本人意思を消す」


「ええ」


 私は静かに頷いた。


「だから、こちらは本人意思を消さない名前で対抗します」


 薔薇のサロン。


 その名は甘い。


 けれど甘いだけではない。


 薔薇には棘がある。


 サロンには会話がある。


 棘と会話。


 私たちにはその両方が必要だった。


 家令が控えめに言う。


「内々の便箋へ、その名を入れておきますか」


 私は少し考え、頷いた。


「お願いします。外へ出す時は慎重に」


 ノエルが小さく呟く。


「秘密名」


 セシリアが微笑む。


「少し、素敵ですね」


 アイリスも頷いた。


「守るべき旗のようです」


 旗。


 その言葉で、私は外の噂に怯えるだけではなくなった。


 王都が略奪令嬢と呼ぶなら、内側では薔薇のサロンと呼ぶ。


 名前の戦いは、もう始まっている。


お読みいただきありがとうございます。

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