第37話 朝食卓の三つの椅子
翌朝、朝食卓には椅子が三つ増えていた。
セシリアのための柔らかな背もたれ。
アイリスが剣を邪魔にしない少し広い椅子。
ノエルが眠ったまま倒れないよう、肘掛けのある椅子。
家令は何も言わない。
ただ完璧に配置している。
ヴァルトローゼ家の使用人たちは、主の無茶に慣れる速度が早すぎる。
私は席につき、三人を見る。
セシリアは蜂蜜入りの温かいミルクを配っている。
アイリスは食卓の入口と窓の両方を確認してから座った。
ノエルは肘掛けにもたれ、半分眠った目でパンを見ている。
「パンは観察しなくても食べられます」
「構造確認中」
「焼きたてです」
「では食べる」
ノエルが一口かじると、表情がわずかに変わった。
セシリアが身を乗り出す。
「お口に合いますか」
「甘い」
「ジャムです」
「研究室のパンと違う」
その一言で、セシリアの目に涙が浮かぶ。
アイリスも静かに眉を寄せた。
研究室のパン。
固く、冷たく、食べる時間もなかったもの。
ここでは温かいものが温かいうちに出る。
当たり前のことが、救出後の一番強い証拠になるのかもしれない。
「ノエル様。おかわりもあります」
「摂取量を増やすと眠くなる」
「眠ってください」
私とセシリアとアイリスの声が重なった。
ノエルは三人を見て、パンをもう一口食べる。
「多数決」
朝食卓に小さな笑いが落ちた。
甘い。
甘すぎて、私は紅茶へ視線を逃がす。
セシリアが私のカップへ砂糖を一つ入れた。
「レティシア様は、今日は少し甘い方がいいと思います」
「なぜですか」
「昨日、たくさん頑張られたからです」
アイリスが真面目に頷く。
「同感です。護衛対象の回復も重要です」
「私は護衛対象では」
「隣に立つお願いを受け取っていただきました」
言質を取られている。
騎士はこういうところも強い。
ノエルが私のカップを見て呟く。
「糖分投与による照れ反応の観察」
「観察しないでください」
「もう記録した」
「消してください」
「保存済み」
セシリアが口元を押さえて笑う。
アイリスも真顔のまま肩を震わせている。
私は完全に負けていた。
悪役令嬢として王太子と渡り合う方が、朝食卓で三人に甘やかされるより簡単かもしれない。
食後、家令が新しい部屋割りを確認に来た。
セシリアの薔薇の客間はそのまま。
アイリスには庭に近い客室。
ノエルには窓の遮光を調整できる書斎付きの部屋。
どれも一時保護の名目だ。
けれど一時という言葉が、だんだん薄くなる。
三人がそれぞれ違う理由でここにいる。
それなのに同じ食卓で、同じ温かさに触れている。
私はこの光景を守りたいと思った。
その時、いつもなら背後に控えるユーリアがいないことに気づく。
「ユーリアは?」
家令が静かに答える。
「夜明け前から外周確認を。朝食は不要とのことでした」
不要。
その言葉が引っかかった。
セシリアも気づいたらしく、窓の外を見る。
アイリスは立ち上がりかけた。
「探します」
「待って」
私は止める。
ユーリアは命令で動く人だ。
でも最近、その命令の外で傷ついているように見える。
ノエルが眠そうに言った。
「四つ目の椅子がない」
はっとした。
三つ増えた椅子。
でもずっと近くにいた彼女の席は、最初から用意していなかった。
胸が痛む。
朝食卓の甘さの外側で、ユーリアだけが距離を取っている。
窓の向こうの庭に、黒い侍女服の背中が見えた。
彼女は薔薇の垣根の前で、一人だけこちらに背を向けている。
私は椅子から立ち上がった。
三人の視線が集まる。
甘い朝は、まだ全員を包めていなかった。
庭へ出る前、私は食卓をもう一度振り返った。
三つの椅子は確かにそこにある。
けれど空いている場所の方が、なぜか目立って見えた。
セシリアは籠へ余ったパンを詰めている。
アイリスは護衛の準備を整えるふりをしながら、ユーリアの背を気にしていた。
ノエルは眠そうな顔で、食卓配置図を帳面に描いている。
「四つ目の椅子の候補位置」
「まだ言わないでください」
私は慌てて止める。
ユーリアは繊細な話題ほど、すぐ影へ逃げる。
彼女を捕まえるには、追い詰めるのではなく帰れる場所を置く必要がある。
セシリアが籠を閉じた。
「椅子は、座る方が来てからでも置けます」
「そうですね」
私は頷く。
アイリスが真顔で言う。
「ただ、椅子がないと座れません」
「それも正しいです」
三人の意見はばらばらなのに、どれも優しい。
私はその優しさを抱えて庭へ向かった。
甘い朝の中に、薄い影が落ちている。
でも影があるから、光の場所も分かる。
ユーリアの背中は、薔薇の垣根の前で小さく見えた。
ずっと近くにいた人ほど、遠ざかる時に距離が分かる。
私は彼女へ声をかける前に、手袋の指先を整えた。
命令ではなく、お願いとして届く言葉を選ぶために。
朝食卓の三つの椅子は、救いの証だった。
そして足りない一席は、これから向き合うべき本心の形だった。
庭へ出ると、ユーリアはすでにこちらの接近に気づいていた。
振り向かないのは、気づいていないからではない。
振り向いた後の顔を作れないからだ。
私はそれを何となく理解した。
「朝食は、温かいうちが一番おいしいそうです」
「お嬢様は召し上がりましたか」
「三人に食べさせられました」
「よいことです」
「あなたにも、よいことをしたいのですが」
ユーリアは黙る。
薔薇の棘に朝露が光る。
彼女はその棘を見ているようで、もっと遠い何かを見ている。
「私は、近くにいるほど危険です」
「危険なら、なおさら一人でいないで」
言った瞬間、ユーリアの肩がわずかに揺れた。
命令ではなく心配として届いただろうか。
分からない。
でも今日は、分からないままでも言葉を置く。
「四つ目の椅子は、急いで座らなくていいです」
私は続けた。
「ただ、用意してもいいですか」
ユーリアは長い時間をかけて振り向いた。
「保留で」
「はい。保留で」
その返事だけで、朝食卓の足りない一席に名前がついた気がした。
屋敷へ戻ると、食卓の端にまだ温かい茶が残っていた。
セシリアが淹れ直したものだ。
アイリスは四つ目の椅子について、家令に大きさだけ確認していた。
ノエルは配置図の隅に、保留席と書いている。
私はその言葉を見て笑い、少しだけ泣きそうになった。
保留は拒絶ではない。
この屋敷では、まだ決められない人のためにも席を空けておける。
ユーリアがいつ戻ってもいいように、茶はもう一度温められた。
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