第36.5話 観察記録は恋文ではありません
発表が終わって三度目に目を覚ますと、見知らぬ天井があった。
遮光布は半分だけ開いている。
窓辺には柔らかな椅子。
机の上には白紙、砂時計、温かい茶。
研究室ではない。
リオネルの管理権が届く場所でもない。
ヴァルトローゼ邸の客室。
療養用と説明された部屋。
私はその単語を頭の中で分類しようとして、うまくいかなかった。
療養。
観察継続。
保護。
同居。
そして、恋。
最後の項目だけ、式に入れると魔導灯が一つ点滅した。
* * *
私は感情を研究に入れないよう教えられてきた。
式は清潔であるべき。
観測者は対象から距離を取るべき。
発表者は成果だけを示すべき。
そういう言葉は便利だった。
私の睡眠不足も、痛みも、リオネルに署名欄を奪われる不快感も、全部、未整理の変数として欄外へ出せたから。
欄外に出したものは、奪われないと思っていた。
だが違った。
欄外に出した感情は、誰にも見えないから簡単に踏まれる。
レティシアはそれを見た。
観察対象のくせに、観察者の空白を見つけた。
「あなたの感情を、研究の邪魔として扱わないこと」
研究室で彼女が言った言葉が、まだ耳に残っている。
あれは命令ではなかった。
結論の押しつけでもなかった。
仮説を立てるための、最初の白紙だった。
* * *
机の上に、自分の観察記録が置かれていた。
私が持ってきたのではない。
たぶん、書類の束に混じって運ばれた。
表紙には、レティシア様が薬湯を飲むと眉間に皺を寄せる件、とある。
題名が悪い。
研究者として反省する。
内容はもっと悪い。
レティシアはセシリアを呼ぶ時に声を柔らかくする。
レティシアはアイリスの剣帯を見る時に指先を止める。
レティシアは褒められると耳が赤くなる。
レティシアは私の名前を呼ぶ時、なぜか少し困る。
観察記録。
恋文ではない。
少なくとも、書き始めた時は。
私は羽根ペンを取り、表紙の横へ小さく追記した。
まだ。
書いた直後、心拍が上がった。
砂時計の砂が落ちる音まで大きく聞こえる。
これは危険な反応だ。
だが危険だからといって、欄外へ捨てる必要はない。
* * *
発表会場で、レティシアは共同研究者欄に名前を書かなかった。
助けたのだから、名前を入れられる。
私がそう言うと、彼女は首を横へ振った。
「助けたことと、研究者になることは違います」
私はあの時、強い衝撃を受けた。
リオネルは、私が書いた式に当然のように自分の名を重ねた。
他の人たちは、それを共同研究と呼んだ。
だがレティシアは、私のものを私のものとして残した。
そのうえで、眠れと言った。
研究成果だけを欲しがる人は、研究者の体を見ない。
レティシアは、式ではなく私の脈を気にした。
だから困る。
観察対象として非常に興味深いだけなら、距離を保てた。
彼女は距離を壊さず、距離の中へ椅子を置く。
座るかどうかは、こちらが決めていいと言う。
そういう人を、どう分類すればいい。
* * *
扉の向こうで足音がした。
一つは軽い。
セシリア。
一つは規則正しい。
アイリス。
少し遅れて、迷いのある足音。
レティシア。
私は記録帳を閉じようとして、間に合わなかった。
扉が開き、三人が入ってくる。
セシリアは蜂蜜入りの茶を持ち、アイリスは水差しを持ち、レティシアは小さな皿を持っていた。
「起きていたのね」
「起床実験です」
「それは寝てから言うものではありませんか」
レティシアの眉間に、予想通りの皺が寄った。
私は反射的に記録帳へ手を伸ばす。
アイリスに手首を押さえられた。
「まず食事です」
「観察を」
「食事です」
騎士の命令は強い。
だが不快ではなかった。
私を成果へ押し込める命令ではなく、私の体を戻すためのお願いに近かったから。
セシリアが笑った。
「ノエル様。温かいうちが、おいしいです」
温かいうち。
研究室では失われることが多かった概念。
私は皿の上の小さな焼き菓子を見た。
甘い匂いがする。
レティシアは視線をそらした。
「厨房が、疲れた人には必要だと」
嘘だ。
皿の端に、レティシアの手袋についた粉砂糖が残っている。
私は言わなかった。
言えば、彼女の耳が赤くなる。
それは観察したいが、今は食べる方を優先する。
* * *
焼き菓子は甘かった。
甘いと告げると、セシリアが嬉しそうに頷いた。
アイリスは水差しを近づけ、レティシアはほっとした顔をした。
三人の反応が違う。
セシリアは誰かの回復を祈りに似た喜びで受け取る。
アイリスは倒れない配置を考える。
レティシアは、自分が余計なことをしていないか不安そうにする。
全員、観察価値が高い。
だが私の視線は、最後にはレティシアへ戻る。
理由はまだ完全に式にならない。
彼女は私の研究を奪わなかった。
私の眠りを研究より下に置かなかった。
私の感情を誤差ではなく、世界を変える変数として扱った。
だから私は、彼女を選ぶ。
観察対象としてでは足りない。
共同研究者でも足りない。
友人候補。
好きな人候補。
候補という言葉は便利だが、少し逃げている気がする。
私は記録帳を開き、最後の行に書いた。
レティシアを選ぶ理由。
私の名前を、私の式の中に残してくれたから。
* * *
「それは何の記録?」
レティシアが尋ねた。
私は少し考えた。
恋文ではありません、と答えるのは簡単だ。
けれど嘘になる可能性が上がっている。
「観察記録です」
「本当に?」
「現時点では」
セシリアが頬を染め、アイリスが咳払いをした。
レティシアは困ったように笑う。
その表情を見て、胸部に不明な圧迫感。
測定不能。
ただし、捨てない。
私はその反応も記録した。
この屋敷では、未整理の感情を机の中央に置いても、誰かに奪われるとは限らない。
それを教えてくれた人のことを、私はもう少し長く見ていたかった。
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