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第36話 魔導式は恋を知っている

 ノエルの発表が終わった時、会場はすぐには拍手をしなかった。


 理解に時間がかかったのではない。


 誰もが、自分の中にある契約や命令を思い出していたのだと思う。


 やがて審査官長が杖で床を打った。


「アルカード令嬢の発表を正式記録とする。所有印の上書きについては別途審査を行う」


 それが合図になった。


 拍手が起きる。


 大きくはない。


 けれど白石の会場へ確かに響いた。


 ノエルは壇上で固まっている。


 拍手を浴びる準備など、研究計画のどこにも書いていなかったのだろう。


 私は壇の下から声をかけた。


「ノエル様。息をしてください」


「忘れていた」


「忘れないでください」


 彼女は素直に息を吸った。


 それだけで、セシリアが胸を撫で下ろす。


 アイリスはリオネルの動きを警戒していた。


 彼は審査官に囲まれ、今度は自分の言葉を奪われた人のように黙っている。


 皮肉だと思った。


 だが同情はしない。


 彼が黙ることで、ようやくノエルの声が聞こえる。


 審査会の控室で、ノエルは発表記録へ署名した。


 手が震えていた。


 疲労もある。


 けれど署名欄に自分の名だけを書くことが、彼女にはまだ慣れていない。


「共同研究者欄は空白でよろしいですか」


 書記が尋ねる。


 ノエルは私を見る。


 私は首を横へ振った。


「私の名は不要です」


「でも、助けた」


「助けたことと、研究者になることは違います」


 ノエルはしばらく考えた。


 そして共同研究者欄ではなく、謝辞欄に小さく書いた。


 薔薇の翻訳者たちへ。


「複数形ですか」


 私が聞くと、ノエルは頷く。


「セシリアは痛みを見つけた。アイリスは扉を守った。ユーリアは逃走経路を塞いだ。レティシアは観察対象」


「最後だけ分類がおかしいです」


「では、友人候補」


 言い直した声が、わずかに照れていた。


 セシリアが嬉しそうに笑う。


 アイリスは安心したように肩の力を抜く。


 私は胸の奥が甘く痛んだ。


 救出は終わりではない。


 ここから彼女たちの距離が始まる。


 その距離を私がすべて受け止められるのか、不安になる。


 不安になるほど、手を離したくないと思う。


 ノエルは署名を終えると、急にふらついた。


 私は慌てて支える。


 彼女の体は軽い。


 あまりにも軽い。


「眠い」


「今さらですか」


「発表が終わったので」


「屋敷へ来ますか」


 口にしてから、また自分で驚いた。


 セシリアが私を見る。


 アイリスも見る。


 二人の視線に、責める色はない。


 ただ、少しだけ甘い緊張がある。


 ノエルは眠そうなまま答えた。


「研究室はリオネルの管理権審査中。帰ると原稿を保全される」


「なら、来てください」


「観察継続?」


「療養です」


「分類、療養兼観察」


「観察は減らしましょう」


 彼女は私の袖をつまんだ。


 昨夜眠る前と同じ仕草だ。


「レティシア」


 名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。


 セシリアの視線がさらに柔らかく刺さる。


 アイリスは咳払いをした。


 ノエルはその反応を全部観察している顔だった。


「魔導式は恋を知っている」


「急に何を」


「三人の魔力反応を比較すると、好意の揺れは契約解除時の本人意思に近い。つまり恋は、世界を変える法則の一つ」


 私は言葉を失った。


 セシリアは真っ赤になり、アイリスは真面目に天井を見る。


 ユーリアだけが扉の外から言う。


「馬車の準備が整いました」


 助かった。


 本当に助かった。


 屋敷へ向かう馬車で、ノエルは私の肩にもたれて眠った。


 反対側ではセシリアが膝掛けを直し、アイリスが窓の外を警戒している。


 三人の距離が近い。


 近すぎて、胸が騒がしい。


 ヴァルトローゼ王都邸の門が見える。


 そこはもう、ただの避難先ではなくなり始めていた。


 眠るノエルの手には、余白の花弁の束が握られている。


 私はその手をそっと包んだ。


 奪われたものは、また一つ返された。


 馬車の中でノエルは何度も起きようとした。


 そのたびにセシリアが膝掛けを直し、アイリスが窓の揺れを抑えた。


「研究資料」


「抱えています」


 私が余白の束を見せると、ノエルは安心してまた目を閉じる。


「レティシア」


「はい」


「私の名前、残った?」


「残りました」


「では眠る」


 単純な返事なのに、胸が詰まる。


 名前が残る。


 それだけのことに、彼女は眠れるほど安心する。


 屋敷へ着くと、家令はすでに書斎付きの客室を整えていた。


 遮光布は半分だけ。


 窓辺には柔らかな椅子。


 机の上には白紙と、睡眠時間を記録するための小さな砂時計。


「研究時間ではなく睡眠時間を測るのですね」


 セシリアが嬉しそうに言う。


「使用人たちが考えました」


 家令は淡々としている。


 ノエルは砂時計を見て、少しだけ笑った。


「未知の管理」


「健康管理です」


 アイリスが真面目に訂正する。


 その夜、三人は同じ廊下の部屋に入った。


 セシリアの部屋からは祈りの気配。


 アイリスの部屋からは剣を手入れする微かな音。


 ノエルの部屋からは、しばらく紙の音がした後、静かな寝息。


 私は廊下に立ち、三つの扉を見た。


 救出したというより、迎え入れたのだと思う。


 そして迎え入れた以上、ここはもう私一人の屋敷ではない。


 ユーリアが背後に立つ。


「お嬢様。外周警戒を強めます」


「お願いします。でもあなたも休んで」


 彼女は返事をしない。


 その沈黙が、次の課題の形をしていた。


 甘い同居は始まったばかりだ。


 けれど全員の席が揃うには、まだ一つ足りない。


 夜、ノエルの部屋の前で足音が止まった。


 扉を開けると、彼女が毛布を引きずって立っている。


「眠れない?」


「眠れる。けれど確認したい」


「何を」


「明日も、ここにいていい?」


 その問いは、研究者の確認ではなく少女の不安だった。


 私は頷く。


「いてください」


「研究資料も?」


「一緒に」


「観察も?」


「ほどほどに」


 ノエルは少し考え、納得したように頷いた。


 廊下の反対側では、セシリアが心配そうに顔を出し、アイリスも剣を抱えて立っていた。


 三人が互いを見て、なぜか同時に照れる。


 私は笑ってしまった。


 救出直後の夜に、こんな小さな混乱があるなら悪くない。


 けれど階下ではユーリアの足音が遠ざかっている。


 彼女だけが、この温かさの外へ出ようとしていた。


 私は廊下の灯りを落とす前に、三つの扉へ順に目を向けた。


 それぞれの眠り方が違う。


 祈るように眠る子。


 剣を手放さず眠る子。


 紙束を抱いて眠る子。


 違うまま同じ屋根の下にいることが、こんなにも愛おしい。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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