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第35話 噂を買った赤い手紙

 ノエルが壇上へ立った時、会場の後方で赤い封蝋が掲げられた。


 場違いなほど華やかな色だった。


 審査官の一人が困惑し、封書を受け取る。


 差出人はミレイユ・ローゼン。


 前世の記憶が、商会令嬢の笑顔を呼び起こす。


 金と噂の流れを読む女。


 原作では、政略結婚の値札にされる人。


 その彼女から、私宛ての手紙が審査会へ届いた。


 私は封を切る。


 中には短い文と、数枚の領収控えが入っていた。


 王都の書記、馬車屋、紙問屋、魔導審査会の下働き。


 それぞれの名の横に、小さな支払い印がある。


 手紙の文字は軽やかだった。


 噂はただで流れるものではありません。必要な噂は、先に買っておくものですわ。


 私は思わず息をのんだ。


 ミレイユは私たちが動くより先に、リオネルの原稿持ち出しを追っていた。


 まだ会ったこともないのに。


 ただ、入口はあった。


 ローゼン商会は魔導審査会へ羊皮紙と封蝋を納めている。


 発表順が急に早まれば、追加の招待状と控え紙が動く。


 そこにアシュフォード家の使者が割り込めば、紙問屋と馬車屋の帳簿に足跡が残る。


 ミレイユは善意だけで手紙を寄越したのではない。


 商人として、自分の商圏で起きた不自然な金と紙の流れを掴んだのだ。


 いや、会っていないからこそ商人らしく動いたのかもしれない。


 利益の匂い。


 危険の匂い。


 そして誰かが奪われる時に生まれる、金になる噂。


「レティシア様?」


 セシリアが心配そうに覗き込む。


 私は手紙を審査官長へ差し出した。


「追加証拠です。原稿持ち出しに関わる人の移動記録と支払い記録」


 リオネルの顔色が変わった。


「商会の噂話など」


「噂話ではありません。領収控えです」


 アイリスが低く言う。


「馬車屋の印もあります。時刻が研究室裏口の通行記録と一致します」


 ノエルは壇上で赤い手紙を見ていた。


 眠そうな目の奥に、疑問と警戒が浮かぶ。


「知らない人」


「私もまだ会っていません」


「では、なぜ」


「たぶん、面白そうだからです」


 自分で言って、少し不安になる。


 ミレイユ・ローゼンは味方だろうか。


 少なくとも、ただの善意だけで動く人ではない。


 けれど今この瞬間、彼女の買った噂はノエルを助けている。


 審査官長は証拠を確認し、会場へ告げた。


「発表原稿の入手経路に重大な疑義あり。アシュフォード子息の代表発表権を一時停止する」


 ざわめきが広がる。


 リオネルは杖を握りしめた。


「私は婚約者として彼女の研究を管理する権利が」


「その権利が本人の研究印を上書きした根拠なら、審査対象になります」


 私は言った。


「婚約は盗用の免許ではありません」


 ノエルが壇上で小さく頷いた。


「私の研究は、私のもの」


 短い宣言だった。


 だが魔導灯が明るくなる。


 彼女の言葉が式に届いたのだ。


 所有印の上書きが、原稿の端から剥がれ始める。


 リオネルの家紋が薄れ、紫の花弁が戻ってくる。


 私は手袋の内側で薔薇が熱を帯びるのを感じた。


 この力は契約の翻訳。


 ノエルがくれた言葉で、怖さが少し薄れる。


 彼女自身の拒絶が、盗まれた研究へ読まれていく。


「発表を続けてもよろしいですか」


 ノエルが審査官長へ尋ねた。


 会場が静まる。


 審査官長は深く頷いた。


「アルカード令嬢本人の名で、続行を認める」


 ノエルは原稿を見ない。


 盗まれた本文ではなく、余白の花弁の束を開いた。


「この研究は、命令文では届かない拒絶を、契約が読める形へ変換するためのものです」


 声は淡々としている。


 けれどもう空っぽではない。


「感情は誤差ではありません。痛みは、不純物ではありません。切り捨てられた余白にこそ、本人の意思が残ります」


 私は息をするのを忘れた。


 セシリアは泣いていた。


 アイリスは胸を張って壇上を見ている。


 リオネルは顔を歪め、会場の出口へ向かった。


 だがユーリアが扉の前に立っていた。


「退出は審査官長の許可後に」


 淡々とした声が、逃げ道を閉じる。


 赤い手紙の最後には、追伸があった。


 悪役令嬢様。噂を買うには先払いが肝心です。次はお茶代込みで請求いたしますわ。


 私はその一文を見て、口元を押さえた。


 まだ会ってもいないのに、もう面倒で頼もしい。


 次の救出は、きっと彼女から始まる。


 赤い手紙は証拠だけでなく、場の空気も買っていた。


 審査官たちは、商会の控えを無視できない。


 金の流れは感情より冷たい顔をしているため、貴族社会では時に涙より強い。


 ミレイユはそれを知っている。


 だから彼女は、ノエルの余白とは別の角度からリオネルの足場を崩した。


「ローゼン商会は、なぜこの件を」


 審査官の一人が尋ねる。


 手紙の追伸に答えがあった。


 王都の噂が商品になる前に、腐った仕入れ元を調べるのは商人の義務です。


 私は読み上げながら、少しだけ笑ってしまう。


 義務という言葉の中に、面白がっている気配が隠しきれていない。


 ノエルは壇上からこちらを見る。


「商人は、研究者と違う方法で証明する」


「ええ。領収書で殴ります」


「物理ではないのに痛そう」


「かなり痛いと思います」


 リオネルは本当に痛そうな顔をしていた。


 審査官長は赤い手紙の控えを正式資料へ加える。


 その瞬間、王家周辺の噂が、ただの噂ではなく情報網として形を持った。


 これが後で私たちを守る線になる。


 私は直感した。


 ミレイユはまだ姿を見せていない。


 それでも彼女の手は、すでに薔薇のサロンへ届き始めている。


 ノエルの発表が続く。


 感情を誤差にしない理論は、審査官たちを困らせた。


 困らせるほど意味がある。


 今まで便利に処理してきた沈黙を、一つずつ本人意思として見直させるのだから。


 発表の最後、ノエルは余白の紙を閉じた。


「私は、私の研究を渡したくありません」


 所有印の紫が強く戻る。


 拍手より先に、魔導灯が応えた。


 私はその光を見上げながら、赤い手紙を胸元へしまった。


 次に会う商会令嬢は、きっと味方であり交渉相手でもある。


 甘いだけでは守れない場所へ、物語が広がり始めていた。


 発表後、審査官長はノエルへ原本保全の札を渡した。


 研究室ではなく、本人へ。


 その小さな違いに、ノエルは何度も札を見た。


「私が持つ?」


「あなたの研究ですから」


 私が答えると、彼女は札を胸元へ抱いた。


 セシリアが嬉しそうに微笑む。


 アイリスは会場の出口で、リオネルの従者たちを視線だけで下がらせている。


 赤い手紙は私の懐で静かに存在を主張していた。


 ミレイユは金で噂を買った。


 私たちは記録で人を守る。


 二つが合わされば、王家の作る物語へ対抗できるかもしれない。


 ただし、代金は高くつきそうだった。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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