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第34話 盗まれた研究発表

 魔導審査会の発表壇は、冷たい白石でできていた。


 声がよく響く。


 つまり嘘もよく響く場所だ。


 リオネル・アシュフォードは壇上で穏やかに微笑んでいた。


 彼の手元には、ノエルから盗んだ原稿がある。


 余白を切り落とされ、筆跡を整えられ、彼の研究らしい顔をした紙束。


 審査官たちは感心したように頷いている。


 天才令嬢の婚約者という立場は、盗品に上質な包装紙をかけるらしい。


 ノエルは私の隣に座っていた。


 昨夜、一刻だけ眠った。


 足りるはずがない。


 それでも目は覚めている。


 眠気ではなく怒りで。


「式の三行目が違う」


 彼女が低く呟く。


「彼は意味を分かっていない」


「では、そこを使いましょう」


 私は控え席に置いた資料束へ触れた。


 余白の花弁。


 失敗計算。


 痛いと書かれた紙。


 本来なら人前に出したくないものばかりだ。


 けれどノエルは自分で選んだ。


 燃やすのではなく、証拠にすると。


 リオネルの声が壇上から降ってくる。


「この理論は、契約魔導の安定性を高めるものです。感情という不確定要素を排し、命令文へ純化することで」


 ノエルの指が震えた。


 私はその手に、自分の手袋越しの指を重ねる。


「待って」


 彼女は目を閉じ、呼吸を一度整えた。


「大丈夫。怒っているだけ」


 怒れるようになった。


 それは回復の一つだ。


 私は頷き、審査官長へ申し出る合図を送った。


「発表中に失礼します」


 会場がざわめく。


 悪役令嬢がまた何かを始めた。


 そういう視線が集まる。


 私はむしろ利用することにした。


 噂があるなら、耳も集まる。


「ただいまの発表について、原作者本人から異議があります」


 リオネルの笑みが固まる。


「原作者本人とは奇妙な言い方だ。共同研究者ならそこに」


「共同研究なら、三行目の意味を説明できますか」


 ノエルが立った。


 声は大きくない。


 でも会場の魔導灯が彼女の言葉へ反応する。


「その式は命令文の純化ではありません。拒絶の感情文を契約文へ翻訳するための中継式です」


 審査官たちが一斉に原稿を見る。


 リオネルは笑みを戻そうとした。


「彼女は寝不足で混乱している。発表前から」


「寝不足にしたのは誰ですか」


 セシリアの声だった。


 柔らかな声が、会場で不思議なほど通る。


「発表日を早め、原稿を取り上げ、食事も睡眠も後回しにさせた方はどなたですか」


 審査官長の眉が動く。


 アイリスが一歩前に出て、盗難時刻の証言書を差し出した。


「近衛騎士として、研究室裏口から原稿を持ち出した使者の通行記録を提出します」


 彼女の新しい剣帯が白く光る。


 昨日取り戻したばかりの名が、今日は別の少女を守る証になっている。


 私は胸が熱くなった。


 リオネルは顔色を変えた。


「証拠になるものか。原稿は私の管理下に」


「余白を削りましたね」


 ノエルが言う。


 彼女は資料束を壇上へ置いた。


 小さな花弁が何枚も並ぶ。


「あなたは不要だと言った。感情は誤差だと。でもこの余白の筆跡と作成時期が、本文より前に私が式を組んでいた証拠になる」


 審査官長が一枚を手に取り、目を細める。


「痛い、とある」


 会場が静かになる。


 ノエルの肩が震える。


 私はすぐに進み出ようとしたが、彼女は手で制した。


 自分で立つための制止だった。


「それも私の記録です」


 ノエルは言った。


「感情を消せと言われた時の。研究を取られた時の。眠れなかった時の」


 リオネルが唇を歪める。


「そんな私情を審査会へ持ち込むな」


「私情ではありません」


 私は壇の横から声を重ねた。


「本人性です」


 破約の薔薇が手袋の内側で熱を持つ。


 契約ではない。


 でも所有印の上書きは、本人の名を奪う術だ。


 薔薇はそれにも反応している。


 審査官長が杖を鳴らした。


「発表を中断する。アルカード令嬢、壇上へ」


 ノエルは一瞬だけ私を見る。


 怖いのだろう。


 それでも足を出した。


「行ってください」


 私は言った。


「これはあなたの発表です」


 彼女は小さく頷き、白石の段を上がった。


 盗まれた研究発表は、ようやく本人の声を待つ形になった。


 壇上へ上がるノエルの足取りは危うかった。


 私は支えに行きたくなる。


 だがアイリスが小さく首を横に振った。


 騎士は、立とうとする人の足を奪わない。


 その判断を信じ、私は壇の下で待った。


 ノエルは演台へ手を置く。


 白い指が震えている。


 リオネルはその震えを見て、また笑おうとした。


「やはり彼女は発表できる状態では」


「できます」


 ノエルが遮った。


 会場が静まる。


 彼女は盗まれた原稿ではなく、余白の束を一枚ずつ並べた。


「私の研究は、命令を強くするためのものではありません。命令に届かなかった本人意思を、契約へ読ませるためのものです」


 審査官の一人が身を乗り出す。


「それでは既存の聖約理論と対立する」


「対立します」


 ノエルは即答した。


「既存理論は本人が沈黙した場合、同意として処理する。でも沈黙には痛み、恐怖、訓練、薬、社会的圧力が含まれる」


 セシリアの喉が小さく動く。


 アイリスは白い剣帯へ手を置いた。


 二人の体験が、ノエルの理論の背後に立っている。


 私は胸が熱くなる。


 これは魔導研究の発表であり、同時に私たちの戦いの言葉だった。


「余白は、沈黙に含まれたものを見るための補助記録です」


 ノエルは花弁の紙を掲げた。


「リオネルはこれを不要と言った。だから彼の原稿には、この理論の中核がありません」


 リオネルが立ち上がる。


「女の感傷を中核と言うのか」


 その瞬間、会場の空気が変わった。


 彼は自分で罠へ入った。


 審査官長が低く言う。


「アシュフォード子息。発表者本人の資料を感傷として扱った事実を記録する」


 リオネルの顔から血の気が引く。


 ノエルは少しだけ私を見た。


 怖いけれど進める。


 その目に、私は頷き返した。


 盗まれた発表は、今ここで盗用の証言に変わり始めている。


 審査会の空気は、リオネルが想定したものとは違っていった。


 彼は整った発表で称賛を得るつもりだったのだろう。


 けれど今、審査官たちは整っていない余白へ目を向けている。


 痛い。


 眠い。


 悔しい。


 その不揃いな文字が、盗まれた本文より強く本人を示していた。


 ノエルは壇上で、初めて原稿から目を離した。


「私は、感情を捨てて完全になりたいわけではありません」


 彼女の声は震えた。


「感情があっても、研究者でいたい」


 その言葉に、白石の会場がしんと静まる。


 私は手袋の中で拳を握った。


 盗まれた発表は、彼女自身の宣言へ変わった。


お読みいただきありがとうございます。

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