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第33話 余白の花弁

 盗まれたのは原稿だけではなかった。


 ノエルは空になった机を見て、しばらく動かなかった。


 式なら覚えている。


 論理も説明も彼女の頭の中にある。


 それでも原本を奪われた痛みは、計算式の欠落とは違う場所を刺す。


「余白がない」


 彼女はそう呟いた。


 セシリアがすぐに床へ膝をつく。


 散った紙片を一枚ずつ拾うためだ。


 アイリスも剣を邪魔にならない位置へ寄せ、棚の下を探した。


 私はノエルの机の引き出しを確認する。


 残っていたのは、失敗計算の紙束と小さな栞だけだった。


 栞には紫の花弁が描かれている。


 原稿の余白にあったものと同じ筆致だ。


「これは」


「捨てる予定の紙」


 ノエルは答える。


「式には不要」


「本当に?」


 私が聞くと、彼女は黙った。


 不要なら、なぜ同じ花を何枚も描くのだろう。


 不要なら、なぜ盗まれた時に式ではなく余白と言ったのだろう。


 私は栞を彼女へ渡した。


「花弁は、何の印ですか」


 ノエルは受け取らない。


 触れたら認めてしまうと分かっているようだった。


「観察誤差」


「嘘ですね」


「眠気による手癖」


「それも違うと思います」


 彼女は困ったように眉を寄せた。


 感情を否定する言葉はたくさん持っている。


 けれど感情そのものの名前を、まだ持っていない。


 セシリアが拾った紙を差し出す。


 そこには短い式の横に、小さな文字があった。


 痛い。


 ただ二文字。


 ノエルはそれを見た瞬間、呼吸を止めた。


「読まないで」


 初めて、拒絶が強く出た。


 私はすぐに紙を伏せる。


「読みません。見つけたことだけ記録します」


「記録しないで」


「では、あなたが選んでください。証拠にするか、燃やすか、返してしまうか」


 ノエルは紙を見つめる。


 長い沈黙の間、研究室の魔導灯が明滅した。


 やがて彼女は震える指で紙を受け取る。


「これは、私の感情」


 声がかすれている。


「式に入れたら不純物になると言われた。だから余白に置いた」


 セシリアが泣きそうな顔で頷く。


 アイリスは静かに拳を握った。


 私はノエルの前で膝を折らないように気をつけた。


 ここで過剰に寄り添えば、彼女の選択を私の感動で覆ってしまう。


「余白は、本文ではないかもしれません」


 私は言った。


「でも本人のものです。奪われていい場所ではありません」


 ノエルの瞳が揺れる。


「発表に使える?」


「使えます。筆跡と作成時期の証拠になります」


「痛いと書いた紙を?」


「あなたが望むなら」


 ノエルは紙を胸元へ抱いた。


 その仕草は、原稿を守る研究者ではなく、ようやく自分の痛みを抱えた少女のものだった。


「望む」


 はっきり聞こえた。


「これは私の研究で、私の痛みで、私の余白」


 魔導灯が安定する。


 紫の光が部屋を満たした。


 机の隅に残った花弁の印が、ゆっくり浮かび上がる。


 リオネルが盗んだ原本には、整えられた本文しかない。


 でもこの部屋には、彼が不要だと切り捨てた余白が残っている。


 そこにこそ本人性があった。


 ユーリアが戻り、短く報告する。


「審査会の発表順がさらに早まりました。明朝一番です」


「早めすぎです」


 私が呟くと、ノエルは顔を上げた。


「寝る時間がない」


「寝ます」


「でも発表資料」


「私たちが写します。あなたは一刻だけでも眠る」


 アイリスが即座に頷く。


「護衛します」


 セシリアも言う。


「お茶を淹れます。今度は少し濃く甘く」


 ノエルは三人を順に見た。


 最後に私を見る。


「共同研究?」


「いいえ」


 私は微笑んだ。


「共同救出です」


 ノエルはその分類をしばらく考え、こくりと頷いた。


 余白の花弁は、証拠として束ねられた。


 奪われた原稿より小さく、けれど彼女自身に近い束だった。


 余白の紙片を束ねる作業は、思ったより時間がかかった。


 どの紙にも、ノエルが隠してきた小さな感情がある。


 痛い。


 眠い。


 悔しい。


 分からない。


 そして一枚だけ、きれい、と書かれていた。


 私はその紙で手を止める。


 花弁の横に、小さく薔薇の紋に似た線が描かれている。


「これは」


「あなたの手」


 ノエルが視線をそらして答えた。


「破約の薔薇を観察した時、きれいだった」


 セシリアが胸元を押さえる。


 アイリスの耳が赤い。


 私は言葉に詰まった。


 研究資料として扱うには、あまりに甘い。


 甘いのに、本人性の証拠としてはこれ以上ないほど強い。


 リオネルが削った余白には、彼女が何を見て心を動かしたかが残っている。


「これも、出しますか」


 私は慎重に尋ねた。


 ノエルはしばらく紙を見つめた。


「恥ずかしい」


「出さなくてもいいです」


「でも、私の感情」


 彼女は唇を結ぶ。


「感情は誤差ではないと言うなら、恥ずかしいものも含める」


 強い。


 そして危ういほど素直だ。


 私は彼女の選択を支えるため、紙片へ保護紙を重ねた。


「では、必要な時だけ見せましょう。全部を晒す必要はありません」


「選べる?」


「選べます」


 その言葉に、ノエルは安心したように息を吐く。


 選べるという感覚が、この屋敷へ来る少女たちの共通の薬になっている。


 セシリアは拒絶を選び、アイリスは剣を選び、ノエルは余白を証拠にするか選ぶ。


 私はその選択を集めている。


 集めているからこそ、王家は私を略奪者と呼ぶのだろう。


 夜明け前、資料束が完成した。


 花弁は本文の外側に並ぶ。


 その外側こそ、彼女が一番守りたかった場所だった。


 発表資料の束には、提出しない紙も分けて入れた。


 選ぶためには、選ばないものも見えている必要がある。


 ノエルはその仕分けを、思った以上に真剣に行った。


「これは見せる。これは見せない。これは、レティシアだけ」


「なぜ私だけ」


「観察対象だから」


「友人候補では」


「兼任」


 セシリアが笑いをこらえている。


 アイリスは真面目な顔で、兼任という概念を警戒していた。


 私は顔が熱くなるのを感じながら、紙を受け取る。


 そこには、薔薇の手袋を見た時の感想が書かれていた。


 怖いけれど、きれい。


 その一文を見て、私は何も言えなくなった。


 私が悪役令嬢として恐れていた力を、彼女は怖いまま美しいと書いた。


 余白は、彼女だけでなく私まで救おうとしている。


 夜が明ける頃、ノエルは少しだけ眠った。


 机に伏せたままではない。


 セシリアが用意した長椅子で、毛布をかけられている。


 アイリスは扉の前で夜を越した。


 私は余白の束を抱き、窓の外の白む空を見た。


 花弁は小さい。


 けれど小さいものを小さいまま守れるなら、きっと大きな契約にも届く。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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