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第32話 切断ではなく翻訳

 ノエルが目を覚ましたのは、夕暮れ前だった。


 眠った時間は三刻にも満たない。


 それでも目の下の影は少しだけ薄くなっていた。


 彼女は起き上がるなり、自分の原稿ではなく私の手を見た。


「観察再開」


「まず水を飲んでください」


「水分補給後、観察再開」


 交渉の余地がない。


 セシリアが苦笑しながら水を渡す。


 アイリスは扉の外で魔導審査会への使者を待っていた。


 ユーリアはいつものように姿を消している。


 姿が見えない時ほど働いている人なので、心配する暇もない。


 ノエルは水を飲み、私の掌へ視線を戻す。


「破約の薔薇は切断ではない」


「昨日も言っていましたね」


「訂正。切断を含む翻訳」


 彼女は新しい紙を取り、眠り起きとは思えない速さで式を書き始めた。


 紫のインクが滑る。


 その横に、小さな花弁が一枚描かれる。


「契約は命令文でできている。本人の拒絶は感情文。形式が違うから届かない」


「だから、拒絶しても痛むだけになる」


「そう。あなたの薔薇は感情文を契約文へ翻訳する。契約が読める形にしてから、矛盾箇所をほどく」


 私は言葉を失った。


 破約。


 切断。


 私はずっと、自分の力を壊すものだと思っていた。


 悪役令嬢にふさわしい乱暴な力だと。


 けれど翻訳なら違う。


 誰かの本心を、聞かない契約へ聞かせる力。


 それなら私は、奪っているのではないと言えるかもしれない。


「その顔」


 ノエルが私を見上げる。


「泣きそう」


「泣いていません」


「水分量は増えている」


「観察が細かいです」


 セシリアがそっと私の背へ手を添えた。


 アイリスも戻ってきて、何も言わず窓側に立つ。


 二人の気配があるだけで、私は崩れずにいられる。


 ノエルは式の最後に、翻訳という単語を書いた。


 その文字だけ、ほかより柔らかい。


「この理論を発表すれば、あなたの薔薇は危険物ではなく、本人意思を読む術式として扱える可能性がある」


「王家は嫌がるでしょうね」


「嫌がる。教会も嫌がる。だから重要」


 彼女はあっさり言った。


 眠そうな目の奥で、初めて戦う光が見える。


 私はその光を大切にしたいと思った。


「ノエル様。これはあなたの理論です。必ずあなたの名で出しましょう」


「私の名で」


「はい」


 ノエルはペンを止めた。


 その時、研究室の扉が乱暴に叩かれる。


 リオネルの使者だった。


 彼は入室許可も待たず、封書を差し出す。


「アシュフォード様より。発表原稿をお預かりします」


「まだ提出していません」


「共同研究につき、代表者が管理します」


 ノエルの指が紙を握る。


 昨日なら黙って渡していたのかもしれない。


 だが今日は違った。


「渡さない」


 使者が驚いて顔を上げる。


「アルカード様?」


「これは私の原稿。私の式。私の余白」


 最後の言葉だけが少し震えた。


 余白。


 花弁を描いた場所。


 感情を隠していた場所。


 私は彼女の横へ立つ。


「聞こえましたね。本人は渡さないと言っています」


 使者は顔色を変え、封書を机へ置いた。


 中身は魔導審査会からの発表順変更通知だった。


 発表は明朝。


 そして提出済み原稿は、リオネル名義で受領されている。


 ノエルが立ち上がる。


 椅子が床を鳴らした。


「原稿が、ない」


 机の端に積まれていた原本束が消えていた。


 翻訳と書かれた新しい一枚だけが、私たちの手元に残っている。


 ユーリアが窓辺に現れ、低く言った。


「裏口から、魔導審査会の使者が一人出ました」


 リオネルは原稿を盗んだ。


 明日の朝、彼はノエルの研究を自分の言葉として読むつもりなのだ。


 原稿が消えた後、研究室の空気は一瞬で冷えた。


 だがノエルは泣かなかった。


 泣けないのではない。


 今は泣くより先に、残ったものを数える必要があると分かっている顔だった。


「残存資料」


 彼女は淡々と机を指す。


「翻訳理論の草稿一枚。余白紙片十二枚。実験記録の写し三枚。レティシアの手袋接触時の観察記録」


「最後のものは提出しません」


「重要資料」


「私の照れ反応が書いてある資料は却下です」


 セシリアが赤くなり、アイリスが咳払いをする。


 緊迫した場面なのに、ほんの少しだけ笑いが戻った。


 それがよかった。


 盗まれた直後に笑える場所は、相手の完全な勝利を許さない。


 ユーリアが裏口から戻り、短い布片を差し出した。


 使者の袖から裂けたものだという。


 布にはアシュフォード家の香油が染みていた。


「追えますか」


「追えます。ただし原稿は審査会へ入った後でしょう」


「なら、盗まれた原稿を取り返すより先に、本人の声を届けます」


 ノエルがこちらを見る。


「声」


「あなたが壇上で説明する。彼が理解していない部分を、本人が説明する」


「人前で」


 初めて不安が見えた。


 研究室の中で徹夜するより、人前で自分の痛みを言う方が怖い。


 私はその恐れを軽く扱わない。


「怖いなら、怖いまま行きましょう。私たちも隣にいます」


 ノエルは翻訳と書かれた紙を胸へ抱いた。


「隣は、研究用語ではない」


「生活用語です」


 彼女はしばらく考えた後、小さく頷いた。


 リオネルが奪ったのは完成原稿。


 でもこの部屋には、まだ本人の言葉が残っている。


 それを契約へ届かせるのが、私たちの次の仕事だった。


 盗まれた原稿を追うか、残った余白を守るか。


 私は一瞬迷った。


 だがノエルは迷わなかった。


「盗まれた本文は、私なら再構成できる」


「余白は」


「同じ時のものは戻らない」


 彼女は花弁の紙片を抱きしめた。


 そこで初めて、私は彼女にとって何が本当に奪われたのか理解した。


 研究成果だけなら、天才はまた書ける。


 けれど痛みを隠しながら書いたその日の余白は、二度と同じ形では戻らない。


「では、余白を守りましょう」


 私が言うと、ノエルは目を伏せた。


「研究者としては非効率」


「あなた自身としては?」


 長い沈黙の後、彼女は答えた。


「守りたい」


 それで十分だった。


 ノエルが守りたいと認めた瞬間、部屋の全員が動き出した。


 セシリアは紙片を保護布へ包み、アイリスは封印箱を運ぶ。


 ユーリアは盗まれた原稿の経路を追うため、足音もなく消えた。


 私は残った草稿の一枚へ、公爵家の保全印を押す。


 この印が万能ではないことは知っている。


 それでも、本人の守りたいに貴族社会の形式をまとわせることはできる。


 形式に苦しめられてきた少女を、今度は形式で守る。


 そのねじれもまた、悪役令嬢らしい戦い方だった。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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