第31話 感情は誤差ではありません
渡したくない。
ノエルの言葉は小さかった。
けれど研究室の魔導灯が一斉に明るくなるほど、確かだった。
本人の拒絶は、眠っていた術式を揺らす。
それを私はもう何度も見ている。
セシリアの喉。
アイリスの剣。
そして今、ノエルの原稿。
奪われるものが違っても、痛みの形は似ている。
「渡したくないのなら、渡さない方法を探しましょう」
私が言うと、ノエルは首を傾げた。
「方法ならある。原稿を燃やす」
「採用しません」
「では研究室を爆破」
「もっと採用しません」
セシリアが慌てて水差しを抱えた。
アイリスは室内の危険物の位置を本気で確認している。
ノエルは少しだけ不満そうだった。
その表情が、初めて年相応に見えた。
「冗談の評価が低い」
「眠ってから言えば少し上がるかもしれません」
「睡眠は発表後」
「いいえ。今です」
私は椅子を彼女の近くへ寄せた。
ノエルは逃げない。
逃げる体力がないだけかもしれない。
机の端には、食べかけの固いパンが置かれている。
どれほど天才でも、体を置き去りにすれば倒れる。
倒れた後に成果だけが残れば、リオネルにとっては都合がいい。
「あなたの研究には、あなたが必要です」
「式は残る」
「式を書いた人が消えたら、誰が間違いを直すのですか」
ノエルは黙った。
私は言葉を続ける。
「感情は誤差ではありません。あなたが何を嫌がり、何を残したいと思うかは、研究の方向を決める条件です」
「感情を入れると、結果が揺れる」
「揺れるから、あなたのものだと分かるのです」
セシリアが温かい茶を淹れ直す。
聖女候補だった彼女の手つきは、祈りより生活に近くなっている。
アイリスは扉の前へ立った。
誰かが来れば、今度は止めるつもりなのだ。
ユーリアは窓の遮光布を少し開けた。
昼の光が細く入り、ノエルの髪に淡い紫の艶を戻す。
ノエルは眩しそうに目を細めた。
「明るい」
「昼ですから」
「研究室の昼は任意」
「健康は任意ではありません」
私が言うと、彼女は茶杯を両手で持った。
指先が少し震えている。
熱いのではなく、眠気がようやく体へ戻ってきたのだ。
「リオネルは、感情を捨てれば魔導式は完全になると言った」
「彼は感情を捨てましたか」
「捨てていない。評価欲と支配欲が強い」
「では説得力がありませんね」
ノエルは瞬きをした。
また少し笑った。
「確かに」
その小さな笑みだけで、セシリアが泣きそうな顔をする。
アイリスも扉の前で表情を和らげた。
救われる瞬間は、劇的な宣言だけではない。
ずっと禁止されてきた表情が、ほんの少し戻る時にも起きる。
私は原稿束を整理し、ノエル本人の筆跡が分かるページを集めた。
余白の花弁。
計算式の癖。
修正箇所に残る眠気混じりの小さな線。
どれも発表資料としては余計なものかもしれない。
だが本人性の証拠になる。
「明日の朝、魔導審査会へ所有印の保全申請を出します」
「間に合わない」
「間に合わせます」
「根拠は」
「私が悪役令嬢だからです」
ノエルが私を見る。
「悪役令嬢は、提出期限を破れる?」
「期限を破るのではありません。期限を早めた人の不正を先に出します」
セシリアが胸元で祈る。
アイリスは力強く頷く。
ノエルは茶を一口飲み、驚いたように目を開いた。
「甘い」
「蜂蜜を入れました」
セシリアが微笑む。
「眠れるように」
ノエルは茶杯を見つめたまま、ぽつりと言った。
「甘いものを飲んで眠るのは、研究の邪魔ではない?」
「違います」
私は答えた。
「明日のあなたを守る準備です」
ノエルの睫毛が落ちる。
彼女は机に突っ伏す前に、私の袖をつまんだ。
「起きたら、まだいる?」
「います」
「観察対象として?」
「友人候補として」
ノエルはその言葉を計算するようにしばらく黙った。
やがて、小さく頷く。
「未知の分類」
そのまま彼女は眠った。
研究室で初めて、紙の音ではなく寝息が聞こえた。
ノエルが眠っている間、私は彼女の原稿を読んだ。
正確には、読もうとして何度も挫折した。
式は美しい。
美しいのに、私の頭ではすぐ迷子になる。
セシリアは横で、分かるところだけ丁寧に印をつけていた。
アイリスは護衛として扉の前に立ちながら、時々こちらの紙面を覗く。
「魔導は剣より難しいですね」
「剣も十分難しいです」
「振れば分かります」
「魔導も使える方にはそう見えるのでしょうね」
二人の会話が妙に真面目で、私は少し笑った。
救出されたばかりの少女たちが、別の少女の原稿を囲んでいる。
この光景だけで、リオネルの世界は間違っていたと分かる。
ノエルは一人で成果を作った。
けれど一人で痛まなくてもよかった。
眠る彼女の指先には、まだインクの跡がある。
セシリアが湿らせた布でそっと拭く。
「起きてしまいませんか」
アイリスが小声で聞く。
「起きたら、また眠っていただきます」
セシリアの返答は柔らかいが、強い。
私はその強さに救われる。
最初に救ったはずの彼女は、もう誰かを支える側にも立っている。
ノエルが薄く目を開けた。
「感情反応、増加」
「寝言まで観察しないでください」
「寝言ではない。半覚醒記録」
「余計に寝てください」
彼女は少しだけ笑い、また目を閉じた。
リオネルが奪おうとしたのは、研究成果だけではない。
こんな小さな笑いの時間も、きっと奪っていた。
私は発表の保全申請書へ署名する。
感情は誤差ではない。
そう書いた本人が、まずその言葉で守られるべきだった。
ノエルが眠った後、リオネルから追加の使者が来た。
発表資料を確認したいという名目だった。
アイリスが門前で断り、ユーリアが裏口を塞ぐ。
セシリアはその間に、ノエルの寝息が乱れないよう静かな結界を張った。
私は応接室で使者の言葉を記録する。
資料確認。
代表者保管。
婚約者権限。
どれも柔らかな言葉だ。
柔らかい布で口を塞ぐような言葉だった。
「本人が眠っています。起きた後に本人へ確認します」
私がそう告げると、使者は困惑した。
本人へ確認する。
この単純な返答が、彼らの想定から外れている。
それだけで、私たちの戦い方が見えた。
使者が帰った後、ノエルはまだ眠っていた。
その寝顔を見て、私はようやく息を吐く。
守るとは、劇的に敵を退けることだけではない。
眠っている人を眠らせたままにするため、扉の前で面倒な言葉を受け止めることでもある。
お読みいただきありがとうございます。
続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。




