第30話 観察対象は私ですか
ノエルは私を観察対象と呼び続けた。
悪気はない。
悪気がないぶん、こちらの頬の熱が逃げ場を失う。
リオネルを追い返した後、研究室には妙な緊張だけが残った。
彼は共同研究名義を盾に、審査会の招待状を置いていった。
発表者欄にはリオネルの名が先にあり、ノエルの名は小さく添えられている。
添えられている。
その扱いが、研究成果を作った本人に向けられている。
「観察対象」
「はい」
「手を出して」
「なぜ命令形なのですか」
「観察に必要」
ノエルは眠そうな目で私の手袋を見つめる。
セシリアが慌てて間に入った。
「レティシア様は物ではありません」
「知っている。人型の高密度契約反応源」
「それも物に近いです」
アイリスが真面目に頷く。
「許可なく触れるのは礼を欠きます」
ノエルは三人を順に見た。
そして私へ戻る。
「では、触れていい?」
問い方が幼い。
私は困ってしまった。
拒めばよかったのかもしれない。
けれど彼女が初めて、許可という形で私を見た。
「手袋越しなら」
セシリアの視線が刺さる。
アイリスの視線も刺さる。
ユーリアは後ろで小さく息を吐いた。
どうして私は、救出対象が増えるたびに違う種類の危険へ足を踏み入れているのだろう。
ノエルの指先が私の手袋へ触れる。
冷たい。
眠っていない人の冷たさだ。
彼女は目を細め、何かを見取るように呟いた。
「切断の反応ではない」
「破約の薔薇ですから、切断では」
「違う。あなたの魔力は契約を力で壊していない。本人の言葉を、契約が理解できる形へ変えている」
その説明に、私は息を止めた。
私自身もまだ分かっていない力を、ノエルは一度触れただけで別の角度から見ている。
天才とは、便利な言葉では足りない。
孤独になるほど鋭い目だ。
「だからセシリアの拒絶は祈りへ届いた。アイリスの剣は所有権条項だけを外した。あなたは契約を聞き分けさせている」
「聞き分けの悪い契約ばかりですけれど」
私が言うと、ノエルは少しだけ瞬きした。
笑ったのだと気づくまで、時間がかかった。
ほんの小さな変化。
だが机の上の花弁より確かに柔らかい。
セシリアも気づいたらしく、嬉しそうに目を細める。
アイリスは警戒しながらも、ノエルの手が私の指へ触れたままなのを見ている。
「観察は終わりましたか」
アイリスの声が硬い。
ノエルは花弁を指で押さえ、静かに首を振った。
「始まったところ」
「長すぎます」
「恋愛反応も観察したい」
「恋愛」
私とセシリアとアイリスの声が重なった。
ノエルは不思議そうに言う。
「三人とも、レティシアを見る時に魔力の揺れが増える。興味深い」
セシリアが真っ赤になる。
アイリスは剣の柄へ手を置きかけ、すぐ離した。
私は手袋の中で指を丸める。
甘いと言うには危険すぎる。
危険と言うには、胸が温かすぎる。
その時、机の上の研究印が鈍く光った。
原稿束の端に押されたノエルの印が、ゆっくり変形していく。
紫の花弁が薄れ、リオネルの家紋へ書き換わる。
「ノエル様」
私は彼女の手首をつかんだ。
彼女は自分の原稿を見て、初めて目を見開く。
「所有印の上書き」
「できますの?」
「違法。けれど婚約契約で研究室の管理権を移されると、抜け道になる」
声は淡々としている。
でも指先は震えていた。
私はその震えを見た。
観察対象は私ではない。
今、本当に見なければならないのは、目の前の彼女だ。
「ノエル様。あなたは、この研究を渡したいですか」
ノエルは原稿を見つめる。
長い沈黙の後、細い声で答えた。
「渡したくない」
研究室の遮光布が、風もないのに揺れた。
所有印が書き換わる瞬間、ノエルの顔から眠気が消えた。
研究者の目だ。
怯えではなく、現象を掴もうとする光。
けれど指先の震えだけは隠せない。
「術式の経路を追える?」
私が尋ねると、彼女は頷いた。
「追える。でも追うと、私の印がさらに削れる」
「では止めましょう」
「止めると証拠が減る」
「あなたが削れる証拠は要りません」
ノエルは不思議そうに私を見る。
まるでその基準を初めて聞いたようだった。
成果のために自分を削らない。
そんな単純なことが、彼女の研究室には存在していなかったのだ。
セシリアが机の上へ白い布をかける。
「触れなくても記録できるよう、写しを取りましょう」
アイリスは窓と扉を確認し、リオネルの従者を外へ出した。
ユーリアはいつの間にか、裏口の鍵を替えている。
それぞれの救われ方をした少女たちが、それぞれの守り方を持ち寄っている。
ノエルはその光景を見て、帳面に何かを書いた。
「複数保護者による研究環境改善」
「保護者ではありません」
「では、保護対象群」
「それも違います」
「友人群?」
言い直した瞬間、セシリアが嬉しそうに笑った。
アイリスの表情も柔らかくなる。
私は胸の奥が熱くなりすぎて、咳払いをした。
「分類は後で考えましょう。今は所有印を保全します」
ノエルは紙へ新しい式を書き始める。
その余白に、また小さな花弁が咲いた。
私はそれを見て尋ねる。
「その花は、何のために」
ノエルの手が止まる。
「不明」
嘘ではない。
彼女自身にも、まだ分かっていないのだ。
けれど花弁を描く時だけ、彼女の呼吸は少し深くなる。
ならばそれは、きっと必要な余白だ。
所有印の変形を止めるため、ノエルは即席の封止陣を描いた。
丸い陣の端に、また花弁が一枚ある。
「無意識ですか」
「たぶん」
「消しますか」
ノエルは首を横へ振った。
「残す。今は、消したくない」
その答えだけで、研究室の空気が少し変わる。
彼女はまだ自分の感情を理論にできない。
でも消さないと選べた。
セシリアが微笑む。
アイリスは扉の前で、誰にもこの紙を踏ませないと決めた顔をしている。
私はノエルの横顔を見ながら、次に奪われるのは原稿だと直感した。
だからこそ、今ある余白を一枚でも多く残さなければならない。
リオネルが置いていった招待状には、審査会の封蝋がある。
ノエルはそれを見て、発表日がさらに早められる可能性を指摘した。
「彼は急いでいる。私が考える前に終わらせたい」
「なら、こちらは考える時間を作ります」
私はそう答え、使用人へ食事と寝台の準備を頼んだ。
研究室の中に生活を持ち込む。
それはリオネルの支配を乱す、最初の実務だった。
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