第29話 眠らない魔導令嬢
ノエル・アルカードの研究室は、昼なのに夜の匂いがした。
遮光布で塞がれた窓。
積み上がった魔導書。
乾いた薬草と冷めた紅茶。
そして床に散った紙片のすべてに、細い紫の花弁が描かれている。
私は入口で足を止めた。
部屋の奥では、薄紫の髪の令嬢が机に突っ伏していた。
眠っているのかと思った。
だが彼女は顔を上げずに言う。
「脈拍、通常より少し早い。破約後の魔力残響あり。足音は三人分。護衛一名は気配を消す訓練済み」
「起きているのですね」
「昨日から」
「昨日から起きている、という意味ですか」
「一昨日の夜からかもしれない」
セシリアが小さく悲鳴をのむ。
アイリスは部屋の危険物を見回し、剣の柄へ手を置いた。
ユーリアは棚の影を見ている。
この部屋では、全員の警戒する対象が違った。
ノエルはゆっくり顔を上げ、私ではなく原稿の端を見た。
眠そうな目。
青白い頬。
唇にはインクの跡がついている。
彼女は私を見て、瞬きもせずに言った。
「あなたがレティシア・ヴァルトローゼ。強制契約を本人意思へ反応させて分解する現象体」
「現象体ではありません」
「では観察対象」
「それも近いようで遠いです」
ノエルは首を傾げた。
本当に分からない顔だった。
人を見る時、彼女は感情ではなく式の未解決部分を探している。
原作の彼女もそうだった。
天才魔導令嬢。
攻略対象の婚約者。
研究成果を奪われ、最後には感情がないから傷つかないと片づけられる少女。
机の上に置かれた原稿束へ、見覚えのない男の署名が混じっている。
リオネル・アシュフォード。
ノエルの婚約者の名だ。
「これは共同研究ですか」
私が尋ねると、ノエルは原稿を見た。
「名義上は」
「実質は」
「私が書いた」
簡潔すぎる答えが痛い。
怒りも悲しみも置かれていない。
置く場所を与えられていない声だった。
セシリアが机の冷めた紅茶へ手を伸ばし、顔を曇らせる。
「これ、昨日のものではありません」
「飲む時間がなかった」
「食事は」
「記憶にない」
アイリスが一歩前へ出た。
「研究のためでも、限度があります」
「限度を超えると結果が出る。結果が出ると評価される。評価されると次の研究室が保てる」
ノエルは淡々と答えた。
「私の感情は、その循環に含まれていない」
私は手袋の指先を整えた。
まただ。
また誰かが、自分の痛みを制度の外へ追いやられている。
「含めましょう」
「何に」
「話し合いに」
私は椅子を引いた。
「まず座ってください。いえ、あなたは座っていますね。では眠らない理由を聞かせてください」
ノエルは不思議そうに私を見る。
「研究発表が三日後に早まったから」
「誰が早めたのですか」
「リオネル」
ちょうどその時、廊下から男の声が聞こえた。
「ノエル。勝手に客を入れるとは困るね」
扉が開き、リオネル・アシュフォードが現れる。
整った顔。
磨かれた杖。
手には魔導審査会の招待状。
彼は私たちを見て、笑みを作った。
「共同研究の最終調整中だ。外部の方には遠慮いただきたい」
ノエルの目が、ほんの少しだけ暗くなる。
感情がないのではない。
出しても観測されない場所に押し込められているだけだ。
私は原稿束の余白に描かれた花弁を見た。
眠らない令嬢の心は、そこにだけ息をしている。
リオネルは研究室の空気を、自分の所有物のように扱った。
ノエルの椅子の背に手を置き、机の上の紙束へ当然のように触れる。
私はその動作だけで、彼がどれほど長く彼女の境界を踏み越えてきたか分かった。
「共同研究というのは、彼女の同意があって成立します」
「もちろん同意している。ねえ、ノエル」
ノエルは答えない。
眠そうな目が、原稿の端だけを見ている。
リオネルはその沈黙を同意として扱うつもりだった。
私は椅子を一つ引き、ノエルの視界へ入る。
「答えないことを、同意にされるのは嫌ですか」
ノエルの指が動いた。
紙の余白へ、無意識に花弁を描く。
「嫌、という分類は未整理」
「では、渡したいか渡したくないかだけで」
リオネルが割り込む。
「彼女は研究のためなら名義など気にしない。そういう人間だ」
「人間だと言うなら、本人に答えさせてください」
セシリアが強く言った。
柔らかな声の奥に、聖女候補として封じられていた痛みがある。
アイリスは扉の前で、リオネルの従者の動きを止めていた。
研究室は、少しずつノエルの沈黙を守る形へ変わっていく。
ノエルはようやく顔を上げた。
「名義は、気にしない予定だった」
予定。
その言葉に、私は眉を寄せる。
「予定が変わったのですか」
「あなたの薔薇を見た」
彼女は私を見る。
「本人の言葉が、契約へ届く可能性を見た。だから、私の言葉も届くか試したい」
リオネルの顔が曇る。
研究への好奇心に見えるその言葉の奥に、初めて本人の願いが混じっていた。
私は頷く。
「試しましょう」
ノエルは原稿束へ手を置き、淡々と言った。
「これは、私が書いた」
短い言葉。
けれど研究室の魔導灯が一つ点った。
リオネルは笑顔を失う。
眠らない令嬢の夜は、ここから本人の朝へ向かい始めた。
研究室の壁には、睡眠予定表が貼られていた。
予定表なのに、どの枠も赤い線で消されている。
研究優先。
発表優先。
婚約者確認。
そう書かれた小さな文字が、睡眠という当たり前の権利を押し出していた。
私はその紙を見て、リオネルの穏やかな声がさらに嫌いになった。
「ノエル様。眠りたいと思ったことは」
「ある」
「なら、今日はその予定を戻しましょう」
「戻すと、発表が遅れる」
「あなたが壊れたら、発表する人がいなくなります」
ノエルはその発想を初めて検討するように黙った。
研究成果ではなく本人を中心に置く。
たったそれだけで、彼女の世界は組み直され始めた。
私は壁の予定表を外し、机の端へ伏せた。
ノエルはそれを止めなかった。
小さなことだが、彼女の一日は研究だけで埋め尽くされなくてもいいと示す必要があった。
リオネルは不快そうに眉を上げる。
「勝手に研究環境を変えないでいただきたい」
「眠れない環境を研究環境とは呼びません」
アイリスが扉の前で頷いた。
セシリアは新しい茶を淹れ、ノエルの手元へ置く。
湯気が上がる。
その温かさを、ノエルはしばらく不思議そうに見ていた。
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