第28.5話 女騎士は主君の寝顔を守りたい
叙任証を受け取った夜、私はヴァルトローゼ邸の客室で、新しい剣帯を机の上に置いた。
白革の匂いはまだ硬い。
銀の留め具は傷ひとつなく、窓辺の灯りをまっすぐ返している。
それなのに、私は指先で古い革の感触を探してしまった。
古い剣帯はもう腰にない。
レティシア様に預けた。
私が剣を置きたくないと言えた日の証として。
預けたのに、不思議と奪われた気はしなかった。
あの方は、私のものを自分のものにしない。
返すべき時に返せる場所でいてくれる。
だから私は、膝をつくなら恋で、と言われた時に逃げ出せなかったのだと思う。
* * *
騎士として育った私は、命令の形をした言葉に従うのが得意だった。
立て。
守れ。
剣を抜くな。
膝をつけ。
言葉が短いほど、身体は迷わず動く。
だがグレアムの屋敷で聞かされた言葉は、命令より柔らかい顔をしていた。
君のためだ。
家のためだ。
女騎士として品よくあるためだ。
柔らかい言葉ほど、刃を隠す。
その刃で、私は何度も自分の手から剣を遠ざけられた。
強い妻という飾りになるなら、剣は見せ物でよい。
そう言われるたび、私は反論できなかった。
強さを褒められているようで、強さの使い道は私以外が決めていた。
あの日、訓練場でレティシア様が私に尋ねた。
「この剣は、アイリス様のものですか」
簡単な問いのはずだった。
けれど私は、すぐに私のものですと言えなかった。
それがいちばん悔しかった。
* * *
叙任式の後、私は礼を尽くそうとして膝をつきかけた。
救われたのだから。
剣を返されたのだから。
そう思うと、身体が勝手に昔の型へ戻った。
だがレティシア様は、私の肩を両手で押さえた。
公爵令嬢らしからぬ慌て方だった。
その手は細いのに、不思議と退けなかった。
「膝をつくなら、せめて恋でお願いします」
廊下が凍った。
私も凍った。
だが次の瞬間、胸の奥で何かが熱を持った。
命令ではない。
許可でもない。
あの方は、私の膝が誰かの所有を示すものに戻らないよう、乱暴なほど不器用な言葉で止めてくれた。
恋で。
その二文字は、戦場の号令より危険だった。
膝をつく行為を屈服ではなく、私の願いに変えてしまったのだから。
* * *
夜の客室は静かだった。
隣の部屋ではセシリア様が祈り布を畳み、遠い廊下ではユーリア殿の足音が消えていく。
レティシア様は執務室でまだ記録を整理していると聞いた。
私は見張りに立つべきだと考え、扉の外へ出た。
廊下の灯りは薄く、屋敷全体が息を潜めている。
ここは戦場ではない。
だが奪われたものを抱えて眠る少女たちがいる場所は、どんな城壁より守る価値がある。
私は剣帯へ手を置いた。
新しい革はまだ私の体温を覚えていない。
だから今夜は、私の方から覚えさせる。
この剣は王家に預けない。
婚約者にも、家にも、騎士団の都合にも預けない。
選んだ人の隣に立つために持つ。
そう決めると、扉の向こうから小さな声がした。
「アイリス様?」
セシリア様だった。
* * *
彼女は寝巻きの上に外套を羽織り、蜂蜜入りの湯を持っていた。
「レティシア様に届けようと思ったのですが、見張りの方が先に見つかりました」
「護衛です」
「では、護衛の方も飲んでください」
差し出された杯を、私はすぐ受け取れなかった。
守る側が手を空けてはいけない。
そう思ったからだ。
だがセシリア様は困ったように笑う。
「レティシア様なら、手が冷えている騎士には温かいものを持たせると思います」
私は負けた。
杯を受け取ると、掌に温かさが広がる。
甘い香りがした。
レティシア様の周りには、命令ではない気遣いが増えていく。
それぞれの少女が、自分の言葉で誰かを支えようとする。
私はその輪の中に立ちたいと思った。
剣を構えて外から守るだけではなく、温かい杯を受け取れる距離にいたいと思った。
* * *
執務室の扉が少し開いていた。
レティシア様は机に突っ伏して眠っていた。
手袋を外す暇もなかったのだろう。
書類の間に、私の古い剣帯を入れた保管箱が置かれている。
箱の蓋には、返却希望時は本人へ、と小さな紙が挟まっていた。
私は息を止めた。
本人。
その言葉が、叙任証よりも深く胸に入った。
私の剣を私のものとして扱い、私の膝を私のものとして止め、私の休息まで私のものに戻そうとする人。
だから私は、この人を主君と呼びたいのだ。
だが同時に、主君という言葉だけでは足りないと知ってしまった。
命令を待つためではなく、願いを差し出すために隣へ立ちたい。
守れと言われたから守るのではない。
眠っている横顔を見て、この人が明日も自分を罰せず息をしてほしいと願うから守る。
* * *
私は扉の前に立った。
剣は抜かない。
今夜の敵は、廊下の向こうから来る者だけではない。
レティシア様の中にある、すべて自分の罪にしてしまう癖も敵だ。
それを斬る剣はまだ持っていない。
だから今は、灯りを消さず、湯を冷まさず、誰かが目を覚ました時に一人ではなかったと分かる距離を守る。
セシリア様は杯を机の端に置き、私へ小さく礼をした。
「明日の朝、レティシア様には甘いものが必要だと思います」
「同意します」
私が答えると、彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔も守りたいと思った。
欲張りなのかもしれない。
だがレティシア様の隣では、守りたいものが増えることを罪にしなくていい。
私は新しい剣帯へ触れ、音を立てないよう姿勢を正した。
膝をつく日は、まだ先でいい。
その時は命令ではなく、恋として願う。
今夜はただ、主君であり、好きな人であり、私に私の剣を返してくれた人の寝顔を守りたかった。
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