第28話 膝をつくなら恋で
アイリスは叙任後、私の前で膝をつこうとした。
本当にこの人は、油断するとすぐ膝をつく。
私は両手で彼女の肩を押さえた。
騎士団の廊下で、公爵令嬢が女騎士を中途半端に抱き止める形になる。
近くにいた若い騎士が見てはいけないものを見た顔で背を向けた。
セシリアは口元を両手で覆っている。
笑っているのか、焦っているのか分からない。
「アイリス様。叙任直後に膝を傷めるつもりですか」
「礼を尽くそうと」
「礼は立ったままで十分です」
「ですが」
「膝をつくなら、せめて恋でお願いします」
言ってから、自分の言葉に固まった。
廊下が静まり返る。
アイリスの顔が、耳まで赤くなった。
セシリアの手からハンカチが落ちる。
ユーリアだけが無表情で拾い、丁寧にたたんでセシリアへ返した。
「お嬢様。お見事です」
「何がですか」
「不意打ちとして」
私は手袋で顔を隠したくなった。
悪役令嬢として断罪された時より、今の方が逃げたい。
アイリスは咳払いをし、真面目に答える。
「では、その時まで取っておきます」
「忘れてください」
「騎士は受けた命を忘れません」
「命ではありません」
甘いのに危険な会話だった。
これ以上続けると、私の心臓が先に敗北する。
私は話題を変えるため、騎士団長から受け取った新しい剣帯を差し出した。
白革に銀の留め具。
正式な近衛騎士の証。
アイリスはそれを両手で受け取った。
「古い剣帯は、どうしますか」
「証拠として保管します」
私は答えた。
「でも、あなたが望むなら返します」
アイリスは少し考え、古い剣帯を私へ差し出した。
「レティシア様に預けます」
「私が預かっていいのですか」
「はい。私が剣を置きたくないと言えた日の証ですから」
言葉が胸の奥へ沈む。
重い。
けれど嫌な重さではなかった。
誰かの人生の証を預かるということは、その人を所有することではない。
返すべき時に返せる場所でいることだ。
セシリアが新しい剣帯へそっと触れる。
「きれいです」
「ありがとうございます」
アイリスは照れたように微笑む。
その笑顔を見て、セシリアも嬉しそうに笑った。
胸が温かくなる。
同時に、少しだけ困る。
私の周りで救われた少女たちが互いに優しくなるたび、王家が作った物語から外れた新しい物語が始まる。
私はそれを守りたい。
守りたいと思うほど、失う未来が怖くなる。
屋敷へ戻る馬車の中で、アイリスは窓の外を見ていた。
腰には新しい剣帯がある。
けれど彼女は時々、私の膝の上に置いた古い剣帯へ視線を落とした。
「寂しいですか」
「少し」
素直な答えだった。
「あの革は、私が騎士になりたいと思った時間を知っています」
「なら、いつでも会いに来てください」
「剣帯にですか」
「私の屋敷に、です」
また沈黙が落ちた。
セシリアが窓の外を見たまま赤くなっている。
アイリスは私を見て、低く言った。
「その言葉は、危険です」
「なぜ」
「本気にします」
今度は私が黙る番だった。
馬車の車輪が石畳を叩く音だけが続く。
屋敷の門へ着く頃、夕方の光は薔薇の垣根を金色にしていた。
帰ってきたのだと分かるだけで、肩から力が抜ける。
同時に、ここへ誰かを迎え入れるたび、この屋敷が王家の物語から遠ざかっていくのも分かった。
それでも門が開く音を聞くと、私は少しだけ安心してしまう。
ここには、奪われたものを一度置いて息をつける場所がある。
屋敷へ戻ると、セシリアは古い剣帯のために小さな箱を用意した。
香木ではない。
湿気を避ける実用的な保管箱だ。
アイリスはそれを見て、しばらく黙っていた。
「大切なものは、飾るより守った方がいいと思って」
セシリアが言う。
「ありがとうございます」
アイリスの返事は硬い。
けれど耳が赤い。
夕方の終わりまで、私たちはほんのわずかな休息を得た。
厨房から焼き菓子の匂いが流れ、庭では夕方の光が薔薇を金色にしている。
こういう時間を、私はまだ上手に扱えない。
事件の合間に置かれた甘さは、油断すると涙に変わりそうになる。
「レティシア様」
アイリスが真面目な顔で言った。
「先ほどの、恋で膝をつく件ですが」
「忘れてくださいと言いました」
「騎士は重要事項を忘れません」
セシリアが菓子皿を置く手を止める。
私は逃げ場を探した。
どこにもない。
ユーリアだけが、窓辺で微かに口元を動かしている。
笑ったのかもしれない。
「その時は、許可ではなくお願いとして申し出ます」
アイリスが言う。
「今はまだ、剣を取り戻したばかりなので」
その真面目さがずるい。
私は頷くしかなかった。
「ええ。今は休んでください」
封書はその直後に届いた。
薄紫の封蝋を見た瞬間、穏やかな空気が別の種類の緊張へ変わる。
差出人はノエル・アルカード。
前世の記憶は、彼女の眠そうな目と壊れていく研究室を同時に見せた。
封書の中には、整いすぎた文字で一文だけ書かれていた。
あなたの薔薇を観察したいので、明日研究室へ来てください。
同封された紙片の余白には、紫の小さな花弁が描かれている。
私は花弁の余白を見つめる。
この絵は飾りではない。
たぶん、声にならない感情の置き場所だ。
アイリスが新しい剣帯へ手を当てる。
「同行します」
セシリアも頷いた。
「わたしも行きます」
私は二人を見た。
救われたばかりの少女たちが、次の少女を救うために立っている。
その連鎖が、王家にとって何より危険なのだろう。
封書の裏には、細い魔導式が隠れていた。
ノエルは招待状にまで観察の仕掛けを入れているらしい。
ノエルの文字は整っているのに、花弁だけは少し歪んでいた。
感情の手癖。
私はその歪みを見て、胸が痛くなる。
セシリアはそっと封書を閉じた。
「明日は、眠れるようにして差し上げたいです」
アイリスも頷く。
「今度は私が扉を守ります」
救われた二人の言葉が、次の救出の支度になっていく。
私は封書を机に置き、新しい紙を出した。
明日の訪問記録を残すためだ。
アイリスの古い剣帯を保管箱へ入れ、ノエルの花弁を別の紙に写す。
救い終えた証と、これから救うかもしれない印が同じ机に並んだ。
救出は勢いだけでは続かない。甘さと同じだけ、紙と証人が必要になる。
お読みいただきありがとうございます。
続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。




