第27話 あなたの剣はあなたのもの
立会いの間には、剣を置く台が二つあった。
一つは王家へ預けるための銀台。
もう一つは叙任式で本人へ返すための黒い木台。
同じ剣を置く場所なのに、意味は正反対だった。
アイリスは黒い木台の前に立つ。
古い剣帯を外し、両手で抱えていた。
剣を置くのではない。
過去を見せるために持ってきたのだ。
騎士団長が入ってくると、訓練場より重い沈黙が落ちた。
白髪交じりの男は、まずアイリスへ頭を下げた。
「ブランシュ令嬢。現場の不備で名を奪った。騎士団長として詫びる」
アイリスは固まった。
謝罪されることに慣れていない人の顔だった。
「頭をお上げください」
「上げる前に聞く。君はまだ近衛騎士でありたいか」
グレアムが横から口を開こうとする。
ユーリアが一歩だけ動いた。
ただそれだけで彼は黙る。
私は少しだけ感心した。
無言の説得力なら、ユーリアは王宮の誰より強い。
アイリスは胸元を押さえた。
契約印が痛むのだろう。
だが彼女はその手をゆっくり下ろす。
「近衛騎士でありたいです」
声は震えなかった。
「家のためでも、婚約者の飾りになるためでもなく、私が守りたいものを守るために」
騎士団長は頷き、書記へ合図した。
新しい叙任証が運ばれてくる。
空白だった署名欄に、アイリス・ブランシュの名が記されていた。
その名を見た瞬間、彼女の瞳が濡れる。
古い剣帯を握る指が、初めて力を緩めた。
「剣を」
騎士団長が言う。
アイリスは銀台を見ない。
黒い木台へ古い剣帯を置き、剣を抜かずに膝を折った。
「私は、この剣を王家へ預けません」
グレアムの契約印が強く光る。
彼が持つ契約書の封蝋から、細い銀線が伸びた。
アイリスの胸元へ絡む。
「聖約違反だ」
グレアムが叫ぶ。
「婚約者の家の承認なく、勝手に叙任を受けるな」
「婚約者の家は、騎士団ではありません」
私は彼の前へ出た。
「それに聖約ではありません。あなた方が聖約を真似た婚約拘束です」
セシリアが私の隣に立つ。
祈りの光は淡い。
だがアイリスの痛みを受け止めるように、空気を柔らかく包んだ。
「嫌だと言った人を痛める祈りは、祈りではありません」
セシリアの言葉で、銀線が細く震える。
私は手袋を外した。
薔薇の紋が掌に浮かぶ。
怖くないと言えば嘘になる。
人の契約へ触れるたび、私の中の悪役令嬢という名が囁く。
奪っているのではないか。
自分のそばへ引き寄せているだけではないか。
けれどアイリスは私ではなく、叙任証を見ている。
彼女が選ぶ先は、私の腕の中だけではない。
だから信じられる。
「アイリス様。あなたの剣は、あなたのものですか」
彼女は涙をこぼした。
泣きながら、それでも笑った。
「はい。私の剣は、私のものです」
薔薇が開く。
銀線が契約書へ逆流し、封蝋に亀裂が入った。
切れたのは婚約そのものではない。
剣の所有と叙任を縛る条項だけだ。
グレアムが呻く。
「こんなもの、無効だ」
「では無効だと記録してください」
私は息を整えながら答える。
「本人が剣を自分のものだと宣言した瞬間、強制条項が反応した。その事実を」
騎士団長が剣を抜いた。
儀礼用ではない。
実戦で使われる重い剣だった。
「アイリス・ブランシュ。遅れた叙任をここに補う。近衛騎士として、己の名と剣をもって立て」
アイリスは黒い木台の前で膝をついたまま、剣を受けた。
私は少し離れて見守る。
彼女の忠誠が私へまっすぐ向けば嬉しい。
そう思ってしまう自分がいる。
けれど今は違う。
彼女はまず、自分自身に忠誠を誓うべきだ。
叙任の言葉が終わる。
アイリスは立ち上がり、私へ歩いてきた。
そして予想外に、剣を捧げるのではなく、私の前で深く礼をした。
「レティシア様」
「主君ではありませんよ」
「はい」
彼女は真剣な顔で頷く。
「それでも、隣に立つ許可をください」
胸が跳ねた。
セシリアの袖を握る力が、なぜか強くなる。
私は顔が熱くなるのを感じながら答えた。
「許可ではなく、お願いなら受け取ります」
アイリスの笑みは、訓練場のどの剣筋より眩しかった。
だが廊下の向こうで、グレアムが破れた契約書を握りしめている。
「王太子殿下へ報告する。悪役令嬢がまた一人奪ったと」
その捨て台詞だけが、冷たい棘として残った。
封蝋が割れた時、グレアムは自分の痛みだけに驚いていた。
アイリスが何度も味わった痛みを、彼は一度も想像していなかったのだ。
「なぜ私に反応する」
「あなたが縛ったからです」
私は答える。
破約の薔薇は裁く力ではない。
それでも、縛った者へ反動が返る瞬間はある。
騎士団長は新しい剣帯をアイリスへ渡した。
白革の留め具に、彼女の名が刻まれている。
アイリスはそれを腰へ巻く前に、古い剣帯へ手を添えた。
別れを告げるように。
「ここまで連れてきてくれて、ありがとう」
革へ向けた言葉だった。
セシリアが目元を押さえる。
私は泣かないよう、手袋の指先を見た。
物へ礼を言う姿を笑う者もいるかもしれない。
けれどその革は、誰にも認められない彼女の騎士である時間を支えてきた。
十分に礼を受ける資格がある。
新しい剣帯が締められる。
その瞬間、アイリスの立ち姿が変わった。
剣帯が彼女を強くしたのではない。
もともとあった強さが、ようやく本人の名で立った。
「レティシア様」
「はい」
「私は、あなたに救われました」
「あなたが選んだからです」
「それでも、あなたがいなければ選ぶ場所がなかった」
答えに詰まる。
感謝を受け取るのは、思ったより難しい。
受け取った瞬間、相手の人生に責任が生まれる気がする。
けれど突き返すのも違う。
「では、受け取ります」
私は言った。
「その代わり、あなたの剣はあなた自身のためにも使ってください」
アイリスは深く頷く。
グレアムは退室際、王太子の名を出した。
「殿下は黙っていない」
「私も黙っていません」
私が返すと、彼は本当に憎しみの目でこちらを見た。
悪役令嬢を見る目。
もう慣れたと思っていたのに、胸が少し冷える。
その冷えを、アイリスの白い剣帯が静かに照らしていた。
立会い後、騎士団の若い者たちが一人ずつアイリスへ礼をした。
昨日まで同じ訓練場にいながら何も言えなかった者たちだ。
アイリスは責めなかった。
ただ、次に同じことがあれば止めてくださいと言った。
その言葉に、彼らは深く頭を下げる。
救出は一人を連れ出すだけでは終わらない。
残る場所の沈黙も、少しずつ変えなければならないのだ。
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