第26話 叙任証はまだ届かない
叙任証は、存在しなかった。
届いていないのではない。
発行されていない。
その違いは残酷だった。
アイリスは近衛の任務に出ていた。
王宮の門を守り、夜会の廊下を歩き、王族の馬車を囲んだ。
働いた事実だけが積まれ、正式な名は与えられていなかった。
副官は報告書を読み終え、唇を噛んだ。
「騎士団内では叙任済みとして扱っていた。申請が差し戻された後も、現場へ通知がない」
「通知しなければ、便利に使えますものね」
私の声は冷えた。
言ってから、冷えすぎたと思う。
けれどアイリスが俯いているのを見て、謝る気にはなれなかった。
怒りは、本人から奪われたものの輪郭を照らすために使うべき時がある。
「私は、騎士ではなかったのでしょうか」
その問いは誰に向けられたものでもなかった。
セシリアがすぐに首を横へ振る。
「剣を握って守った時間は、消えません」
「ですが証が」
「証があなたを作るのではありません。あなたがいたから、証が必要なのです」
セシリアの声は柔らかい。
柔らかいのに、祈りより強かった。
アイリスの目が揺れる。
私は二人の会話を遮らない。
救いはいつも私の手から出る必要はない。
誰かが誰かを支える横顔を、私は守る側に回ればいい。
王宮書庫の小部屋では、近衛騎士団長の代理と書庫官、それに聴聞官が揃った。
学院で私を見た聴聞官とは別人だ。
だが王太子の名前を出す時、同じようにペン先が鈍る。
「発行されていない理由を確認します」
私は机へ三枚の紙を置いた。
叙任申請控え。
グレアムの差し戻し文書。
アイリス本人の剣を置きたくないという証言記録。
「この三点を同じ綴りにしてください」
聴聞官が眉を上げる。
「公爵令嬢が近衛人事に介入するのは」
「介入ではありません。本人の権利侵害に対する保全です」
私は公爵家の証印を置く。
金属が机を打つ音で、小部屋の空気が変わった。
「王太子殿下との婚約が凍結中でも、ヴァルトローゼ公爵家の名は有効です」
セシリアが隣で小さく背を伸ばす。
彼女の存在も、王家にとっては無視しにくい。
戻らないと記録された聖女候補が、別の少女の同意を見届けている。
それだけで、場の筋書きは王太子の手を離れる。
騎士団長代理は古い剣帯を手に取り、裏の焼き印を確認した。
「訓練生番号は本人のものです。出動記録とも一致する」
「ならば、なぜ叙任式に呼ばれなかったのです」
「呼ばれていないのではない。名簿から式の朝に外されている」
アイリスの喉が鳴った。
式の朝。
彼女はその日、どこにいたのだろう。
「辺境伯夫人の護衛任務に出ていました」
アイリスが答える。
「急な代替要員でした。女性客の護衛が必要だと」
副官が頭を押さえた。
「その任務を手配したのはヴェルナー家です」
点が線になる音がした。
叙任式の日に任務を入れ、名簿から外し、証を発行させない。
その後は未叙任を理由に剣を取り上げる。
美しいほど汚い手順だった。
私はグレアムの契約書を開く。
「家長確認を要する、という差し戻し文に星冠記録術の痕跡があります。教会の印ではない。誰かが真似た粗い術式です」
聖堂医師が頷いた。
「婚約契約印の痛みと同系統です。本人の拒絶に反応しています」
アイリスが胸元を押さえる。
痛みはある。
だが彼女はもう、それをなかったことにしない。
「私は、叙任を受けたいです」
はっきりした声だった。
「剣を持つためではなく、持ってきた時間をなかったことにしないために」
私は手袋の内側に広がる熱を感じた。
破約の薔薇が、今度は静かに応える。
切断ではない。
まだ。
まずは奪われた証を本人の名へ戻す。
「騎士団立会いの再審を求めます」
私は代理へ言った。
「叙任証の未発行と、婚約者による差し戻し介入を同時に扱ってください」
代理は長く沈黙した。
やがて、剣帯を机へ置く。
「騎士団長へ上げます。本人出席の立会いを設ける」
アイリスが息を吐いた。
安堵ではない。
戦いの場所がようやく見えた時の呼吸だ。
その時、扉の外で靴音が止まった。
グレアムの声が低く響く。
「立会いなど不要だ。彼女は婚約契約に違反している」
扉の向こうから、銀の光が漏れた。
グレアムは扉の向こうから、婚約契約を盾のように掲げた。
「本人がどれほど望んでも、家の承認なく叙任はできない。そう契約にある」
「契約を先に確認しましょう」
私は返した。
扉を開けると、彼は勝ち誇った顔で紙を差し出す。
そこには家長承認という言葉が何度も繰り返されていた。
繰り返しは呪いに似ている。
同じ言葉を何度も見せ、本人の判断を疲れさせるためのものだ。
聖堂医師が契約書へ指をかざす。
「拒絶反応あり。特に進路選択、武装、居住の三項目が強い」
「婚約で居住まで?」
セシリアが顔を曇らせる。
アイリスは恥じるように目を伏せた。
恥じるべきは彼女ではない。
私は机の下で拳を握り、声だけは冷静に保つ。
「この契約は、叙任証の発行より後に結ばれたものですか」
「婚約内定時だ」
グレアムが答える。
「では未成年時の進路制限を含む可能性があります。保護者と騎士団の説明記録を求めます」
書庫官が素早く控えを探す。
説明記録はなかった。
あるのはヴェルナー家からの確認書だけ。
本人への説明欄は空白。
また空白だ。
この国の男たちは、女性の人生に空白を作るのが上手すぎる。
アイリスはその空白を見つめた後、顔を上げた。
「私は説明を受けていません」
「言ったな」
グレアムの声が鋭くなる。
「はい。言いました」
痛みが走ったはずなのに、彼女は言い切った。
騎士団長代理が記録へ署名する。
「本人説明なし。明日の立会いで正式審議とする」
これで舞台は整った。
叙任証はまだ届かない。
けれど届かない理由は、もう暗闇の中ではない。
アイリスは古い剣帯を指先でなぞり、私へ小さく礼をした。
今度は膝をつかなかった。
それだけで十分な前進だった。
その夜、騎士団長から正式な立会い通知が届いた。
紙面にはアイリス・ブランシュ本人出席と明記されている。
本人。
たった二文字が、これほど頼もしく見えるとは思わなかった。
アイリスは通知を受け取り、胸元へ当てた。
痛みはあるはずなのに、今度は逃げなかった。
「明日、私の名で立ちます」
その宣言を、セシリアが祈りではなく拍手で受け止めた。
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