第25話 剣を置けという婚約者
グレアムが持ち込んだ契約書は、美しい紙に書かれていた。
美しいものほど、たちが悪い時がある。
厚い羊皮紙。
金の縁飾り。
家紋を押した封蝋。
その中央に、アイリスの剣を婚家の管理物とする条項が置かれていた。
婚約成立後、近衛勤務は儀礼職へ移す。
帯剣は式典に限る。
戦闘任務への参加は家長の承認を要する。
読むだけで、剣の重さが紙の中へ吸われていくようだった。
「これに署名すれば、叙任証の件は私が整える」
グレアムは寛大な顔で言う。
「悪い条件ではない。正式な騎士の名は残る。実務をしない方が君も楽だろう」
アイリスは契約書を見つめていた。
怒っているのか、怖いのか分からない。
強い人の感情は、外へ出る前に姿勢で縛られる。
私は彼女の横に立つ。
「アイリス様。読めていますか」
「はい」
「意味は」
「分かります」
「では、望みは」
グレアムが舌打ちを隠さなかった。
「またそれか。望みなど家が整えるものだ」
「その家が本人の叙任証を止めたのです」
「保護したと言ってほしいね」
「保護は、本人から剣を取り上げる言葉ではありません」
セシリアが私の後ろで頷いた。
彼女はまだ大きな声を出すと痛む。
それでもアイリスを見る目は強い。
あの子は自分の痛みを、誰かの沈黙をほどく灯りへ変え始めている。
グレアムはアイリスの前へ契約書を押し出した。
「剣を置け、アイリス」
命令だった。
婚約者の言葉ではない。
上官でもない男が、家の名を借りて騎士へ下す命令。
アイリスの胸元の契約印が銀に光る。
彼女の呼吸が乱れた。
私は手を伸ばしかける。
けれど彼女は、私ではなく自分の剣帯を掴んだ。
その選び方を見て、私は手を止める。
今ここで必要なのは支えであって、代弁ではない。
「私は」
アイリスの声は震えた。
グレアムが勝ち誇るように顎を上げる。
「私は、剣を置きたくありません」
契約印が鋭く光った。
アイリスの膝が落ちかける。
セシリアが駆け寄り、肩を支えた。
聖女候補と女騎士が、互いに倒れないよう支え合う。
その光景だけで、契約書の金飾りがひどく薄っぺらく見えた。
「記録を」
私は副官へ言った。
彼はすでに書記へ合図していた。
アイリス本人が、剣を置きたくないと発言。
発言直後、婚約契約印に疼痛反応。
この二つが揃えば、破約の薔薇は契約の異常を嗅ぎ取れる。
けれどまだ原本が足りない。
グレアムは契約書をつかみ取ろうとした。
ユーリアの短剣が、その手首の前に音もなく置かれる。
刃は触れていない。
触れていないのに、十分だった。
「お嬢様の記録中です」
ユーリアの声は平坦だった。
グレアムが青ざめる。
私は契約書を副官へ渡した。
「近衛騎士団立会いで保全してください。王宮書庫の叙任申請と照合します」
「承知しました」
副官は今度こそ迷わなかった。
アイリスはセシリアに支えられたまま、私を見る。
「私は、置きたくないと言えました」
「ええ」
私は微笑んだ。
「聞きました」
胸の奥で薔薇が熱を持つ。
今回は私が引き金ではない。
アイリス自身の言葉が、契約の縫い目へ届いた。
グレアムは口元を歪める。
「ならば覚えておくといい。剣を選ぶなら、家は君を守らない」
アイリスの肩が震える。
それでも、剣帯から手を離さなかった。
私は彼女の前に立つ。
「守らない家なら、記録の前でそう書かせましょう」
その時、王宮書庫から急使が走り込んできた。
封筒には近衛騎士団長の封蝋がある。
副官が開き、目を見開いた。
「叙任証の原本が、まだ発行されていない」
アイリスの息が止まる。
グレアムの笑みが戻った。
剣を置くか、名を失うか。
彼はそう迫るつもりなのだ。
急使がもたらした未発行の知らせで、グレアムは優位を得たつもりだった。
だが私には、別の意味に見えた。
未発行なら、偽りの叙任を取り消す必要がない。
正しい手順で、今から本人の名へ発行すればいい。
問題は王家と騎士団が、その当然を選べるかどうかだ。
「叙任証がないなら、彼女は剣を持つ資格がない」
グレアムが言う。
「資格がない状態を作ったのは、あなたです」
「証明できるのか」
「明日します」
私は契約書と差し戻し文書を並べた。
星冠記録術を真似た銀の線が、同じ癖で紙を走っている。
セシリアが胸元に手を当てた。
「この光、聖約に似ています。でも冷たい」
「祈りを借りた命令だからでしょう」
ノエルなら別の言葉で説明するのかもしれない。
まだ会っていない魔導令嬢の名が、ふと頭をよぎる。
この国の鎖は、別々の場所で同じ金属を使っている。
アイリスは痛みをこらえながら、契約書へ視線を落とした。
「私は、家に逆らうことになるのですね」
「家があなたに逆らわせているのです」
「それでも、怖いです」
初めての弱音だった。
セシリアが彼女の手を取る。
私はその上から重ねない。
二人の間にある勇気を、私のものにしたくなかった。
「怖いままでも、言葉は言えます」
セシリアが言う。
「わたしも怖かったです。でも言った後に、息が少し入りました」
アイリスは目を閉じた。
胸元の銀光が弱まる。
痛みに耐えて黙るより、怖いと言える方が体は楽になるのだ。
グレアムはその光景を理解できない顔で見ていた。
「くだらない慰めだ」
「慰めをくだらないと言う人は、たいてい誰かに慰められたことがないのですね」
私の言葉に、彼が一歩近づく。
ユーリアの短剣がまた半歩だけ前へ出た。
騎士団長代理が契約書を封印する。
「明朝、団長立会いで再審を行う」
アイリスは深く息を吸った。
剣を置かないと決めた少女は、今度は名を取り戻す戦いへ向かう。
私は古い剣帯を見た。
この革が知っている時間を、明日こそ正式な証へ変えなければならない。
屋敷へ戻る馬車で、アイリスはずっと黙っていた。
セシリアは何も聞かず、温かい布を彼女の手へ握らせる。
私は向かい側から、古い剣帯を膝に置いていた。
「明日、怖ければ言ってください」
「怖いと言えば、止まれますか」
「止まることも、進むことも選べます」
アイリスはその答えを何度も噛むように沈黙した。
選べる。
それは今の彼女にとって、叙任証より先に必要な言葉だった。
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