第24話 古い剣帯だけが知っている
王宮書庫は紙の匂いで満ちていた。
香ではない。
誰かの都合で乾かされた羊皮紙と、隠されたインクの匂いだ。
私は公爵家の証印を示し、近衛叙任記録の閲覧を求めた。
書庫官は嫌な顔をしない。
嫌な顔をするほど無防備ではないというだけだった。
「ブランシュ令嬢の件は、近衛からも照会が来ております」
「なら早いですね」
「早いとは限りません」
書庫官は眼鏡の奥で目を細める。
「記録はあるのに、証がない場合がございます」
アイリスは私の少し後ろに立つ。
ここでも護衛の距離を取ろうとして、セシリアに袖を引かれていた。
セシリアは意外と強い。
本人は優しく引いたつもりだろうが、アイリスは逆らえず隣に座った。
「座って調べた方が、長く戦えます」
「はい」
女騎士が聖女候補の一言で座る。
その光景だけで、客間の空気より先へ何かが進んでいる。
私は笑いそうになる口元を押さえ、記録台へ向かった。
古い剣帯も一緒に持ち込んでいる。
副官から借り受けた予備資料によれば、近衛は叙任式の日に新しい剣帯を渡す。
アイリスの剣帯は訓練生時代の支給品だった。
擦れた裏側に、薄い焼き印が残っている。
訓練番号。
それは彼女が正式な騎士として扱われていなかった証拠でもあり、同時にどれほど長く働かされてきたかの証拠でもあった。
記録簿には、アイリスの出動歴が並んでいた。
夜会警備。
王族馬車護衛。
学院外周の警戒。
どれも危険を伴う任務だ。
「未叙任者に任せる内容ではありませんね」
私が言うと、副官が低く頷いた。
今日は彼も同席している。
昨日より顔色が悪い。
騎士団の恥を外部に見せている自覚があるのだろう。
けれど恥を隠すより、本人を守る方を選んだ。
その一点で、私は彼を信用することにした。
書庫官が別の箱を運んでくる。
「叙任申請控えです。受理印の直前で差し戻しになっています」
「差し戻し理由は」
「婚約調整中につき、家長確認を要する」
アイリスの顔が凍る。
ブランシュ家ではなく、ヴェルナー家の確認欄が追加されていた。
まだ結婚していない婚約者の家が、彼女の叙任を止めている。
私は手袋の指先を整えた。
怒りで破約の薔薇が勝手に開きそうになる。
だがここで必要なのは感情だけではない。
感情を記録へ変える作業だ。
「書庫官。差し戻しに使われた文書の差出人を」
「グレアム・ヴェルナー様です」
副官が拳を握った。
「我々はその理由を知らされていない」
「知らされていないまま、未叙任として扱ったのですね」
彼は黙る。
責めたいわけではない。
ただ沈黙もまた記録になる。
アイリスが古い剣帯を手に取った。
指先で焼き印をなぞる。
「これが、私の叙任証の代わりだったのですね」
「代わりではありません」
私は首を横に振った。
「それは盗まれた時間の証拠です」
セシリアがそっとハンカチを差し出す。
アイリスは涙をこぼしていなかった。
それでも受け取った。
泣いていない人にハンカチを渡す優しさを、彼女も拒まなかった。
書庫の扉が開く。
グレアムが現れた。
昨日より笑顔が薄い。
「勝手に人の婚約者の記録を漁るとは、品位を疑う」
「本人が同席しています」
「本人は家の判断に従うべきだ」
「本人が家ではありません」
私は差し戻し文書を机に置いた。
「叙任延期を認めますか」
グレアムはアイリスを見た。
叱る目だった。
愛情ではない。
道具が予定外の場所へ出た時の苛立ちだ。
「彼女のためだ。女が正式な騎士など続ければ、嫁ぎ先で笑われる」
アイリスの指が剣帯を握りしめる。
古い革が軋んだ。
その音は小さい。
けれど書庫にあるどの記録より、はっきり本当のことを語っていた。
書庫官はグレアムの前で、もう一つの箱を開けた。
中には式典用の剣帯受領簿がある。
アイリスの名前だけが、細い線で消されていた。
乱暴な線ではない。
後から見ても不備に見えるよう、丁寧に引かれた線だった。
丁寧な悪意ほど、私は嫌いだ。
「この筆跡は誰のものですか」
「式典担当のものではありません」
書庫官が別紙を重ねる。
グレアムの差し戻し文書と、線の癖が一致した。
アイリスが息を吸う。
怒りではなく、納得の呼吸だった。
ずっと自分の努力が足りなかったのだと思わされてきた人が、初めて外側の手を見つける呼吸。
「私は、遅れていたのではないのですね」
「遅らされていました」
私は答えた。
グレアムは肩をすくめる。
「家同士の調整だ。令嬢一人の感情で騎士団人事を乱すわけにはいかない」
「令嬢一人の感情で乱れるなら、最初から人事ではなく支配です」
副官が今度ははっきりとグレアムを睨んだ。
現場で彼女を使っていた者の怒り。
遅いかもしれない。
それでも味方が増える瞬間は大切だ。
セシリアは古い剣帯を包む布を整えた。
「これ、捨てないでください」
アイリスが驚く。
「古いだけのものです」
「古いから、知っていることがあります」
聖女候補の言葉に、アイリスの目が潤む。
グレアムはそのやり取りを不快そうに見た。
彼には分からないのだ。
剣帯をただの革だと思う人には、そこに染みた時間も痛みも見えない。
「明日、近衛立会いを開きます」
私は書庫官へ言った。
「受領簿、差し戻し文書、勤務記録、すべて写しを取ってください」
「承知しました」
グレアムが笑う。
「立会いで何が変わる。証がない者は証がない」
「なら、証がないようにした者の名が変わります」
彼の笑みが消えた。
アイリスは古い剣帯を胸に抱く。
その姿は飾りではない。
自分の時間を、ようやく自分の手で持ち直した騎士だった。
書庫を出る時、アイリスは一度だけ振り返った。
棚には、彼女の名を消した書類がまだ残っている。
「置いていくのが怖いです」
「写しは取りました」
「それでも」
「では、明日取り戻しましょう」
私が言うと、彼女は初めて小さく笑った。
取り戻す。
その言葉が、剣より軽く、けれど確かに彼女の手へ渡った。
グレアムが先へ歩く背中を、もう彼女は追わなかった。
馬車へ戻る途中、セシリアが古い剣帯の包みを抱いた。
アイリスは最初遠慮したが、やがて隣を歩くことを選んだ。
守られる練習は、誰かに荷物を持ってもらうところから始まっていた。
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