第23話 主君と呼ばないで
アイリスは薔薇の客間でも立ったままだった。
椅子を勧めても、壁際で背筋を伸ばす。
訓練場から戻った後、聖堂医師に契約印を診てもらった。
疼痛反応は記録された。
だが婚約契約を切るには、本人の拒絶と契約原本が必要になる。
セシリアの時と同じだ。
違うのは、アイリスが痛みを隠すことに慣れすぎている点だった。
「ブランシュ令嬢。座ってください」
「お気遣いなく。護衛として控えます」
「護衛の契約はまだしていません」
「では、志願者として」
真面目すぎる返答に、セシリアが困った顔で私を見る。
私はため息を飲み込み、手袋を外した。
指先に残る薔薇の熱を冷ますためだ。
「アイリス様。私はあなたを主君として呼ばせるために連れてきたのではありません」
「ですが、私は助けられました」
「助けられたら主従になるのですか」
アイリスは答えられない。
その沈黙に、彼女のこれまでが詰まっていた。
剣を教えられ、守れと言われ、家の役に立てと言われる。
誰かへ従う形以外で感謝を置く場所を、彼女は持たされてこなかったのだ。
セシリアが湯気の立つ茶杯を運ぶ。
聖女候補だった少女が、今は自分の意思で客へ茶を出している。
それだけで胸が少し詰まった。
「アイリス様。熱いので気をつけてください」
「ありがとうございます」
アイリスは受け取った茶杯を両手で持った。
剣を握る指が、陶器の温度に戸惑っている。
「私は、レティシア様の盾になります」
「盾は物です」
私は即座に返した。
強い言い方になったと思う。
けれどここを曖昧にしたら、グレアムと同じ形の鎖を別の色で渡すことになる。
「あなたは人です。盾でも剣でも飾りでもない」
アイリスの睫毛が揺れる。
「では、私は何としてここにいればいいのですか」
質問は幼いほどまっすぐだった。
私はすぐに答えられない。
セシリアが私より先に口を開く。
「お客様では、だめですか」
「客」
「わたしも最初はそうでした。今もたぶん、何かの名前は決まっていません」
セシリアは笑う。
「でも、ここで眠っていいと言われました」
アイリスは茶杯へ視線を落とした。
湯気が彼女の表情を少しだけ柔らかくする。
私はようやく椅子を引いた。
「主君と呼ばないでください。私があなたを命令で縛るようになる」
「では、何と」
「レティシアで構いません」
その瞬間、セシリアが茶匙を落とした。
銀の小さな音が客間に跳ねる。
「セシリア様?」
「いえ。何でもありません」
何でもある顔だった。
アイリスの耳も赤い。
緊張と痛みの場だったはずなのに、名前一つで空気が甘く傾く。
私は咳払いをした。
「呼び方は急がなくていいです。まずは叙任証の確認を」
ユーリアが音もなく入ってくる。
手には近衛騎士団の名簿写しがあった。
彼女は私へだけ見える角度で紙を差し出す。
「お嬢様。ブランシュ令嬢の任務記録はあります。叙任証の発行記録だけ、王宮書庫から抜けています」
「抜けている?」
「申請は出ています。受領印がありません」
アイリスの茶杯が小さく震えた。
「私は、叙任されたものだと」
副官たちもそう扱っていた。
任務にも出ている。
けれど証だけが届いていない。
証がなければ、グレアムは未叙任を理由に剣を奪える。
「誰が止めたの」
私の声が低くなった。
ユーリアはまばたき一つせず答える。
「ヴェルナー侯爵家の使者が、王宮書庫へ何度か出入りしています」
アイリスが立ち上がろうとした。
痛みが走ったのだろう。
胸元を押さえ、膝が揺れる。
私は反射的に彼女の手を取った。
剣ではなく、私の手を掴んでください。
さっき言った言葉を、彼女は覚えていた。
指が私の指に絡む。
強く、必死で、熱い。
「主君」
「違います」
私はその手を握り返した。
「今は、ただのレティシアです」
アイリスの目に、戦場では見せない涙が浮かぶ。
ユーリアが静かに視線を伏せた。
彼女の横顔に、命令ではない痛みが一瞬だけ過ぎる。
叙任証の欠落は、ただの書類不備ではない。
アイリスの人生から、正式な名前を盗むための空白だった。
聖堂医師は契約印の所見を書き終えた後、私へだけ聞こえる声で言った。
「この痛みは、拒絶を罰する形をしています」
「罰」
「はい。命令に反した時ではなく、本人が自分の望みに触れた時に強く出る」
私はアイリスの手を見た。
剣を握るための硬い掌。
その手が茶杯を持つだけで、痛みに備えている。
「グレアムは、彼女が何かを望むこと自体を止めているのですね」
医師は重く頷いた。
セシリアの時は拒絶の言葉を封じた。
アイリスの場合は、望みを持つ前に罰する。
同じ支配でも形が違う。
私は自分の力を万能だと思わないよう、胸の中で言い聞かせた。
破約の薔薇は最後の刃だ。
刃を振る前に、本人が自分の痛みを名前で呼べる場所を作らなければならない。
「主君ではないなら、私は何を誓えば」
アイリスが呟く。
私は即答しなかった。
誓いという言葉もまた、彼女には鎖に似ている。
「今日は何も誓わなくていいです」
「何も」
「眠る、食べる、痛ければ痛いと言う。それだけで十分です」
アイリスは戦場の命令より難しい課題を出された顔をした。
セシリアが茶を注ぎ足す。
「わたしも、嫌ですと言う練習からでした」
「聖女候補も練習を?」
「はい。今も練習中です」
二人の間に、柔らかな沈黙が生まれる。
私はそこへ割り込まない。
彼女たちが傷を分かち合う瞬間を、私の言葉で飾る必要はない。
ユーリアが新しい紙束を置く。
近衛の勤務記録。
そこには、アイリスが叙任式の日に別任務へ出されていたことまで記されていた。
「この日付を見てください」
私が示すと、アイリスは唇を震わせる。
「私が、叙任式に呼ばれなかった日です」
「呼ばれなかったのではなく、遠ざけられたのかもしれません」
言葉にした途端、契約印が強く光った。
隠された書類より先に、彼女の体が真実へ反応している。
叙任証の欠落は偶然ではない。
私たちは明日、王宮書庫へ向かうことになった。
夜になっても、アイリスは客間の長椅子で背筋を伸ばしていた。
眠っていいと言うと、彼女は任務中ではないかと尋ねる。
セシリアが毛布を持ってきて、任務ではなく療養ですと押し切った。
そのやり取りを見て、私は少しだけ肩の力を抜く。
守られる練習は、こんな小さな夜から始まるのかもしれない。
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