第22話 飾りの騎士ではありません
グレアム・ヴェルナーは、戦場を知らない手でアイリスの剣を語った。
指輪を選ぶような軽さだった。
訓練場の騎士たちは誰も笑わない。
笑えば自分たちの剣まで軽くなると分かっているのだ。
それでもグレアムだけは、場の沈黙を称賛だと受け取っていた。
「女性が剣を持つこと自体を否定しているわけではない。だが家庭に入るなら役割が変わる」
「役割とは」
私が聞くと、彼は少し得意げに肩をすくめた。
「近衛に顔が利く妻は価値がある。だが妻が血の匂いをまとって客間に立つ必要はない」
アイリスの唇から色が引く。
飾り。
言葉にされなくても、訓練場の全員が同じ意味を聞いた。
私は机の預託書を副官へ返し、空いた椅子を示した。
「では同席を求めます。騎士団、ブランシュ家、ヴェルナー家、公爵家の記録として」
「公爵家がなぜ関わる」
「本人が私へ封書を出したからです」
グレアムの笑みが一瞬だけ消えた。
封書。
男たちの許可を通らない紙片は、彼にとって剣より危険らしい。
セシリアが隣で小さく頷く。
彼女は声を張らない。
けれど目だけで、手紙を書けたことを祝福している。
私はアイリスへ向き直った。
「あなたは剣を置きたいですか」
「私は」
アイリスの言葉が途切れる。
右手が胸元の小さな契約印へ触れた。
騎士服の襟に隠れる位置。
前世の原作では映らなかった場所だ。
セシリアがそれを見逃さなかった。
「痛みますか」
アイリスは驚いたようにセシリアを見た。
聖女候補に問われるとは思っていなかったのだろう。
「少しだけです」
「少しだけと言う時ほど、痛いのだと思います」
その静かな言葉に、アイリスの背筋がさらに伸びた。
強がるためではない。
崩れないためだ。
私はその姿勢が痛ましくて、同時に美しいと思ってしまう自分を恥じた。
誰かの傷を美しさに変えるのは簡単だ。
でも私は、傷ではなく本人を見なければならない。
グレアムは鼻で笑った。
「大げさだ。婚約契約は双方の家を守るためのものだよ。彼女も理解している」
「理解していることと、望んでいることは違います」
「君は何でも本人の気持ちにすれば済むと思っているのか」
「済むとは思っていません。だから記録します」
私は書記へ視線を向けた。
「アイリス様が発言しようとした際、襟元の契約印に疼痛反応あり。セシリア様の目視所見として残してください」
書記が迷う。
グレアムの視線が鋭くなる。
だが副官が低く命じた。
「書け」
意外だった。
副官の顔は変わらない。
けれど訓練場で日々アイリスを見てきた者の沈黙が、初めて紙の味方をした。
アイリスはそれに気づき、目を伏せる。
「私は、飾りの騎士ではありません」
声は大きくない。
けれど剣が鞘の中で鳴った気がした。
グレアムの笑みが消える。
「言葉を選びなさい、アイリス」
「選んでいます」
アイリスは胸元を押さえたまま、もう一度言った。
「私は、飾りの騎士ではありません」
その瞬間、彼女の襟元から細い銀の光が漏れた。
聖約に似ている。
だが教会の聖約より粗い。
家同士の婚約契約へ、星冠術式を混ぜている。
私は手袋の奥で薔薇の熱を抑えた。
まだ切ってはいけない。
本人の言葉は芽を出したばかりだ。
急いで刈り取れば、また誰かの命令になってしまう。
「アイリス様」
私は声を低くする。
「痛みが強くなったら、剣ではなく私の手を掴んでください」
彼女は目を見開いた。
騎士に剣を手放せと言うのではない。
守られる側になれと言うのでもない。
痛い時に誰かを頼っていいと告げただけだ。
アイリスの頬がかすかに赤くなる。
セシリアが隣で、なぜか私の袖をつまんだ。
甘い空気は一瞬だけだった。
グレアムが契約書を机へ置く。
「ならば確認しよう。彼女の剣は本当に彼女のものなのか」
古い剣帯がまた軋む。
この場には、まだ叙任証がない。
グレアムはアイリスの言葉を聞いた後も、彼女ではなく私を睨んだ。
本人が拒んだのに、反抗の原因を別の女に求める。
あまりに分かりやすい支配の癖だった。
「君が吹き込んだのだろう」
「私は質問しただけです」
「質問の形をした扇動だ」
「本人の答えを恐れるなら、質問ではなく沈黙を望むべきでしたね」
副官が咳払いをした。
場を整えるためではなく、笑いを飲み込むためだったかもしれない。
アイリスは自分の胸元を押さえながら、こちらを見た。
助けを求める目ではない。
今の言葉は正しかったのかと確かめる目だった。
私は小さく頷く。
セシリアも、痛みを知る者の顔で頷いた。
グレアムは契約書の端を指で叩く。
「飾りとは言っていない。華だと言っている」
「華なら、根を切っても生けられるとでも」
言った瞬間、アイリスの目が大きくなる。
私は自分の比喩が少し鋭すぎたと気づいた。
けれどグレアムは平然としていた。
「家に飾られることも令嬢の名誉だ」
「騎士の名誉を奪ってまで?」
沈黙が落ちる。
彼は答えなかった。
答えないこと自体が答えだった。
私は書記に、今の応答不能も記録するよう求めた。
アイリスの契約印がまた疼く。
彼女は歯を食いしばるが、今度は痛みを隠さない。
「痛いです」
たった一言。
それを言えた瞬間、セシリアがそっと息を吐いた。
誰かの痛いを聞ける場所が、一つ増えた。
グレアムはその変化に気づかず、叙任証の話を持ち出した。
「正式な騎士でもない者に、ここまで権利を語らせるのか」
その言葉で、場の温度が変わった。
飾りの次は、名を奪う。
彼の手順が見えてきた。
私はそこで、アイリスの剣歴を本人へ読ませるよう求めた。
夜会警備、外周巡回、王族護衛。
グレアムが華と呼んだものは、どれも泥と汗の上に積まれている。
アイリスは記録を読むうち、少しずつ顔を上げた。
自分がしてきたことを、他人の口ではなく紙で見る。
それは飾りという言葉への、静かな反証だった。
「私は、働いていました」
「はい」
私は頷く。
「だから、その働きをなかったことにする契約へは同意しなくていい」
グレアムはまた笑おうとしたが、今度は誰も彼の笑いを受け取らなかった。
アイリスはその記録を胸へ抱くように見つめた。
飾りではないと叫ぶより前に、飾りではなかった日々が紙の上で息をしていた。
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