第21話 剣を預けたくありません
鉄の匂いは嘘を嫌う。
近衛騎士団の訓練場へ入った瞬間、私はそう思った。
朝露を吸った砂地に剣の跡が何本も刻まれている。
その一本一本が、持ち主の癖やためらいまで残していた。
セシリアは私の隣で薄い外套を握る。
病み上がりの彼女を連れてくるべきではなかったかもしれない。
けれどアイリスの封書を読んだ時、セシリアは静かに首を横へ振った。
誰かが嫌だと言う場面を、見届けたいのだという。
封書の文は短かった。
私の剣を、王家に預けたくありません。
それだけで十分だった。
私もセシリアも、奪われる前の声がどれほど細いか知っている。
訓練場の端に置かれた机には、銀の盆と封蝋済みの預託書が揃えられていた。
剣を置けば王家が保管する。
書類では名誉ある安全管理と記されている。
だが書記の手元にある欄は、剣の所有者ではなく管理責任者の名を書く形になっていた。
私は手袋の指先を整えた。
王家はいつも丁寧な言葉で、本人から本人の名を剥がす。
アイリス・ブランシュは訓練場の中央に立っていた。
短い黒髪が風に揺れ、背筋は槍のようにまっすぐだった。
腰の剣帯だけがひどく古い。
革は何度も油を入れ直され、縁の糸が色を失っている。
近衛の若い騎士たちが身につける新品の白革とは違う。
昇格祝いに替えられるはずの物だけが、彼女の腰に残されていた。
あれが封書の理由だ。
私の前世の記憶が、冷たい指で背をなぞる。
原作のアイリスは王太子の護衛として剣を折られる。
そして婚約者の屋敷で、強い妻という飾りにされる。
ゲームでは凛々しい脇役だった。
けれど今、彼女の手は剣の柄へ触れたまま微かに震えている。
副官が進み出た。
礼儀は整っていたが、視線はアイリスの顔を見ない。
盆の上だけを示し、淡々と告げる。
「ブランシュ令嬢。王宮の通達により、本日より御剣を一時預託していただきます」
「理由を、もう一度うかがっても」
「婚約に伴う家間調整です。未叙任の女性騎士が王族周辺で帯剣することについて、異議が出ています」
未叙任。
その言葉で、アイリスの肩がわずかに沈んだ。
私は彼女の腰の古い剣帯を見た。
叙任を受けた者なら剣帯も証も更新される。
近衛に詳しくない私でも、その程度は社交の場で聞いている。
アイリスは働いている。
働かされている。
なのに正式な名だけを渡されていない。
セシリアが小さく息をのむ。
私は彼女の手を軽く包み、前へ出た。
「その預託に、本人の同意欄はありますか」
副官は初めて私を見る。
王太子の元婚約者という名が、まだ訓練場では便利な重さを持っていた。
「ヴァルトローゼ公爵令嬢。これは近衛内の手続きです」
「近衛内の手続きなら、本人の意思を省く理由はありません」
私は机へ近づき、書類を見下ろした。
管理責任者欄には、グレアム・ヴェルナーの名が薄く下書きされている。
まだインクではない。
だからこそ悪質だった。
アイリスが同意した後に、最初からそうだった顔で清書するつもりなのだ。
「この剣は、アイリス様のものですか」
問いかけると、訓練場の音が止まった。
アイリスはすぐには答えない。
強い人ほど、奪われてきたものを自分のものだと呼ぶのに時間がかかる。
「任務のために預かっているものです」
「任務のために持つ剣と、あなた自身が持つ剣は同じですか」
彼女の喉が動く。
言葉は剣より重い。
重いから、誰もが先に奪おうとする。
「同じでは、ありません」
セシリアが胸元に手を当てた。
彼女はこの苦しさを知っている。
嫌だと言う前に息が詰まる痛みを、誰より知っている。
私は副官へ向き直る。
「では、この場で預託を進める前に確認しましょう。剣は本人の所有物か、王家の貸与品か、婚約者の管理物か」
副官の眉が動いた。
遠巻きにしていた騎士たちも視線を交わす。
答えられない問いは、隠されていた縄の形を見せる。
その時、訓練場の入口から拍手の音がした。
乾いた、軽い音。
男の声が笑いを含んで響く。
「さすがは噂の悪役令嬢だ。騎士団の手続きまで舞踏会の続きにしてしまう」
グレアム・ヴェルナーが歩いてくる。
磨かれた靴に砂一つつけない歩き方だった。
アイリスの指が柄から離れかける。
私はそれを見て、彼女より先に言った。
「アイリス様。まだ剣を置かないで」
彼女の目が揺れた。
そして、剣帯の古い革が小さく鳴る。
グレアムは笑みを深めた。
「困るな。私の婚約者には、きちんと家の方針を守ってもらわなければ」
家の方針。
その言葉が、剣より先に彼女の手首へ触れた。
私は手袋の内側に熱が灯るのを感じた。
破約の薔薇は、まだ咲かない。
けれど、古い剣帯の奥で何かが軋んでいた。
副官はグレアムへ目礼したが、従うためではなく距離を測るための礼だった。
訓練場にいる者たちは、アイリスがどれだけ働いてきたかを知っている。
だからこそ誰も、彼女の剣を軽く扱う言葉へ素直に頷けない。
グレアムはその空気に気づいていない。
彼にとって騎士団は、婚約者の価値を飾る舞台でしかないのだ。
「ヴェルナー様。あなたはこの剣を使ったことがありますか」
「なぜ私が使う必要がある」
「使わない物を、管理すると言うのですね」
彼の目が細くなる。
私は怖くないふりをした。
怖くないわけではない。
王太子との婚約凍結直後に、また別の貴族家へ喧嘩を売っている。
けれどここで引けば、封書を書いたアイリスの勇気だけが孤立する。
セシリアが私の袖を少しだけ引いた。
止めるためではない。
一緒にいると伝えるための力だった。
アイリスはその手元を見ていた。
彼女の目に、羨望とも驚きともつかない光が浮かぶ。
誰かの横に立つことが、命令以外でも成立する。
その光景自体が、彼女にはまだ新しいのだ。
「ブランシュ令嬢」
グレアムの声が冷える。
「君から説明したまえ。この騒ぎは誤解だと」
アイリスは口を開く。
胸元の奥で銀の光が一瞬だけ跳ねた。
言葉より先に痛みが来る契約。
私は手を伸ばさない。
代わりに、彼女が見える位置へ一歩だけ移る。
「誤解では、ありません」
アイリスの声は細い。
だが訓練場の砂にまっすぐ落ちた。
「私は、剣を預けたくありません」
古い剣帯が、今度こそはっきり鳴った。
その音は、次の戦いの始まりを告げていた。
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