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第20.5話 聖女は初めて嫌と言えた夜

 婚約書の一文が灰のように色を失った夜、私は薔薇の客間で蜂蜜壺を抱えていた。


 王太子殿下の馬車も、教会代理人の白い馬車も、門の外から消えている。


 それなのに胸の奥では、まだ大広間の視線がざわめいていた。


 私は助けられたのだと思っていた。


 けれど今日、婚約書の文字が焼けるのを見て、少しだけ違うと分かった。


 レティシア様は私を運び出したのではない。


 私が自分で嫌だと言う場所を、隣に作ってくれたのだ。


 そう気づくと、舞踏会のすぐ後の夜が、祈りの鐘みたいに遠くから戻ってきた。


* * *


 あの夜、私は女子寮の寝台で、祈り布を握ったまま動けずにいた。


 祈れば許される。


 祈れば我慢できる。


 そう教えられてきた手が、祈る形を作れなかった。


 喉は痛み、胸元の聖約痕は熱く、王太子殿下の声が何度も頭の中で繰り返された。


 聖女候補は国のために。


 聖女候補は王家のために。


 聖女候補は、私のために。


 そのどれも、私の名前を呼んでいなかった。


 扉が小さく叩かれた時、私はまた連れ戻されるのだと思った。


 でも入ってきたレティシア様は、まずこう聞いた。


「入ってもいい?」


 許可を求められたことに、私はすぐ答えられなかった。


 私の部屋なのに、私が入室を決めていい場所なのだと、その時初めて思い出したからだ。


「はい」


 声はかすれた。


 それでもレティシア様は、聞こえたように頷いてくれた。


* * *


 薬湯はとても苦かった。


 蜂蜜を入れても、喉の奥で薬草の渋みが残る。


 私は顔をしかめないようにした。


 聖女候補は、与えられたものに感謝する。


 聖女候補は、苦いものにも微笑む。


 そうしようとした瞬間、レティシア様が言った。


「まずいでしょう」


 驚いて顔を上げると、彼女は怒っていなかった。


 笑ってもいなかった。


 ただ、苦いものを苦いと言っても世界は崩れないと、先に知っている顔をしていた。


「とても、苦いです」


 私が答えると、レティシア様は静かに頷いた。


「正直でいいわ」


 その言葉だけで、胸の奥の縄が少し緩んだ。


 正直で褒められることがある。


 嫌だと言った喉を、叱られずに水で潤してもらえる夜がある。


 私はその事実に、泣きそうになった。


* * *


「私、言いました」


 薬湯の杯を両手で抱えながら、私は何度も確かめた。


「いやだ、と」


「ええ。聞いたわ」


 レティシア様は同じ返事を、何度でもくれた。


 面倒そうにしない。


 大げさに褒めない。


 私が言えたことを彼女の手柄にしない。


 ただ、確かに聞いたと証人になってくれる。


 私には、それが何より必要だった。


 教会では、私の祈りは記録された。


 王宮では、私の微笑みは礼儀として扱われた。


 でも私の嫌ですは、痛みで途切れるたび、なかったことにされた。


 レティシア様は、途切れた言葉の前に立ち止まってくれた。


 言い直せと急かすのではなく、言えなかった分まで勝手に代弁するのでもなく、私が次に息を吸えるまで待ってくれた。


 私はその待ち方を、好きだと思った。


* * *


「わがままになってしまうのでしょうか」


 怖くなって尋ねた。


 嫌だと言えた喜びのすぐ後に、罰が来る気がした。


 私が嫌だと言えば、誰かが困る。


 誰かが困れば、それは私の罪になる。


 ずっとそう教わってきた。


 レティシア様は少し考えてから、私の布団を直してくれた。


「わがままという言葉は、あなたから都合よく沈黙を奪いたい人が使うこともあるわ」


「では、これは何ですか」


 私は胸元に触れた。


 痛みではないものが、まだ名前を持たずに震えていた。


「練習よ」


 彼女は言った。


「嫌なものを嫌だと言って、好きなものを好きだと言う練習」


 好き。


 その言葉を聞いた瞬間、祈り布を握る指に力が入った。


 私は嫌を言えたばかりなのに、もう好きも言っていいのだろうか。


 そんな贅沢が許されるのだろうか。


* * *


「レティシア様の手が、好きです」


 それが私の最初の好きだった。


 恋の告白と呼ぶには幼く、祈りと呼ぶにはあまりに自分勝手な言葉。


 でも彼女の手は、私を引きずらなかった。


 押し戻しもしなかった。


 逃げたい時に掴める場所として、そこにあった。


 レティシア様は驚いた顔をした。


 それから、私の手を握り返してくれた。


 指先は冷えていたのに、掌はあたたかい。


 そのぬくもりの中で、私は初めて、祈らずに眠れるかもしれないと思った。


 眠る前、私はもう一つだけ決めた。


 明日の朝、戻りませんと言う。


 言えなくても、言おうとする。


 痛んでも、水を飲んでもう一度息を吸う。


 その時、隣にいてほしい人の顔は、もう分かっていた。


* * *


 今夜、婚約書の一文が焼けたことで、あの決意は過去のものではなくなった。


 私は返してもらった。


 でも、返されたものを持って歩くのは私自身だ。


 レティシア様を選ぶ理由は、彼女が強いからだけではない。


 私を救ってくれたからだけでもない。


 彼女は、私の嫌ですを国への反逆にしなかった。


 私の好きですを恩返しにしなかった。


 どちらも、私の言葉として扱ってくれた。


 だから私は、彼女の隣を選ぶ。


 聖女候補としてではなく、初めて嫌と言えた私として。


 蜂蜜壺の蓋を閉じると、甘い香りが指先に残った。


 明日の薬も、きっと苦い。


 それでも私は、苦いと言ってから飲むつもりだった。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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