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第20話 奪ったのではなく返した

 王太子との婚約書は、重い紙だった。


 六年前、私はその紙を見て、これが自分の価値なのだと思った。


 王太子に選ばれた公爵令嬢。


 王妃になるために磨かれる娘。


 母の死後、空いた胸の中に、周囲はその役割を詰め込んだ。


 けれど今、その紙は机の上でただの紙に見える。


 赤い封蝋。


 整いすぎた文言。


 王家と教会の署名。


 そして、余白に残る小さな白い粉。


 教会の封蝋の削り粉と同じものだ。


 私はそれを見て、舞踏会の夜を思い出した。


 あの断罪は、王太子の怒りだけではなかった。


 誰かが文を整え、誰かが場を用意し、誰かが私を悪役令嬢として立たせた。


「婚約書にも、教会が触れていたのですね」


 聖堂医師が余白を確認し、顔を曇らせる。


「星冠記録術の痕跡があります。正式な婚約聖約なら当然とも言えますが、舞踏会の断罪文と同じ癖がある」


 学院長が目を細めた。


「つまり、断罪の手順は事前に整えられていた可能性がある」


 王太子ユリウスは答えない。


 応接室には、王宮聴聞官、教会代理人、学院長、聖堂医師、家令、ユーリア、そしてセシリアがいる。


 セシリアはまだ椅子に深く座っていた。


 昨日の拒絶で体力を使い切ったのだ。


 それでも、今日は私の隣から離れなかった。


「レティシア」


 ユリウスが低く呼ぶ。


「君は、自分の婚約まで壊すつもりか」


「壊すのではありません」


 私は婚約書へ手を置いた。


「中身を確かめるだけです」


* * *


 婚約書には、王太子妃教育、王家行事への出席、政治的補佐、聖女候補との連携が記されていた。


 その中に、一文だけ不自然なものがある。


 王家の安定を損なう場合、婚約者は聖女候補の保護権に従う。


 意味が分かりにくい。


 だが、今なら分かる。


 私が王太子に逆らえば、聖女候補を盾にできる。


 セシリアが王太子から離れれば、私の婚約違反にできる。


 互いを縄にする一文だ。


 私の手首に、破約の薔薇が熱を持つ。


 セシリアが息をのんだ。


「痛むのですか」


「ええ」


「わたしにも、少し」


 セシリアは胸に手を当てる。


 彼女の拒絶が、こちらへ届いている。


 痛みではある。


 けれど、拒絶を押し潰す痛みではない。


 互いの縄が同じ場所に結ばれていたことを知らせる痛みだ。


 教会代理人が声を上げる。


「その婚約は王家と教会が承認した正式な聖約です。破棄はできません」


「本人の意思を確認していない一文が混じっています」


 私は言った。


「私にも、セシリア様にも」


「公爵令嬢は王家の安定に尽くすものです」


「尽くすことと、誰かを差し出すことは違います」


 ユリウスが机を叩いた。


「君はセシリアを奪った」


 その言葉が、部屋の真ん中へ落ちた。


 何度も聞かされた言葉。


 王家にも、教会にも、貴族社会にも都合のいい言葉。


 私は、今度こそ逃がさなかった。


「奪っていません」


 静かに言う。


「あなたのものではなかった人に、本人の意思を返しただけです」


 セシリアの手が、私の袖をつかむ。


 震えている。


 けれど、離れない。


* * *


 王太子の顔が赤くなる。


「返した? 聖女候補は国のために」


「国のために祈る人は、国の所有物ではありません」


「彼女は僕の隣に」


「立たないと、本人が言いました」


 私は婚約書を持ち上げる。


「そして私も、彼女を差し出す条件を含む婚約には従いません」


 聖堂医師が立ち上がる。


「破約の薔薇が反応しています」


 私の手袋の下で、薔薇の紋が熱を持つ。


 裂けるほどではない。


 だが、花弁の形が布越しに浮かぶ。


 セシリアが目を閉じた。


 手を組まない。


 教会の祈りではない。


 ただ、私の痛みを一人にしないための短い祈り。


「あなたの痛みが、あなたを縛るためだけのものになりませんように」


 光が走った。


 赤い封蝋がひび割れる。


 婚約書の不自然な一文だけが、薄く焼けるように色を失った。


 全部は切れない。


 王太子との婚約そのものは、政治の鎖としてまだ残っている。


 けれど、セシリアを差し出すための縄は切れた。


 聴聞官が椅子を鳴らして立つ。


「今の現象を記録します。婚約書内、聖女候補保護権に関する一文が変質」


 教会代理人が青ざめる。


「勝手な破約は」


「本人の拒絶に反応しただけです」


 聖堂医師が遮る。


「少なくとも、医療上も魔法上も、強制された条項に異常反応が出たと記録できます」


 学院長の杖が床を打つ。


「王太子殿下。これ以上の聴聞は、学院生の健康を害します。王家婚約については一時凍結し、学院と公爵家、王宮、教会の四者で再協議すべきです」


 一時凍結。


 それは完全な勝利ではない。


 けれど、縄を緩めるには十分だった。


* * *


 ユリウスは帰り際、私を見た。


「君は、自分が何をしたのか分かっているのか」


「はい」


「王家に逆らい、教会に逆らい、悪役令嬢としての噂を自分で広げた」


「噂は止められないでしょうね」


 私は頷いた。


「でも、噂より先に記録があります」


 机の上には、セシリアの筆跡、診断書、ユーリアの証言、婚約書の変質記録が並んでいる。


 王太子はそれを一瞥し、黒い馬車へ向かった。


 教会の白い馬車も、しばらくして門を離れた。


 初めて、薔薇の門前から二つの監視が消える。


 セシリアは窓辺まで歩き、外を見た。


「静かです」


「一時的にね」


「それでも、静かです」


 セシリアはこちらへ振り向く。


 顔色は悪い。


 それでも、目は澄んでいた。


「レティシア様」


「はい」


「わたし、返してもらいました」


 その言葉で、私の胸がいっぱいになる。


 助けた。


 守った。


 奪った。


 どの言葉も、今は少し違う。


「いいえ」


 私は首を横に振った。


「あなたが取り戻したのよ」


 セシリアは笑った。


 今度の笑みは、泣きそうなものではなかった。


 その時、家令が新しい封書を持ってきた。


「お嬢様。近衛騎士団より、学院経由の書面です」


 私は封書を受け取る。


 差出人の名を見て、前世の記憶が小さく音を立てた。


 アイリス・ブランシュ。


 原作では、王太子のために剣を折られる女騎士令嬢。


 封書の中には、短い一文があった。


 私の剣を、王家に預けたくありません。


 セシリアが隣で息をのむ。


 私は封書を閉じ、薔薇の門の向こうを見た。


 王太子だけで終わらない。


 攻略対象と呼ばれた男たちの隣には、まだ声を預けさせられた女の子がいる。


 私は男たちを攻略しない。


 彼女たちを、本人の手へ奪い返す。


 返すべきものは、まだ一つではなかった。


第1章はここで区切りです。お読みいただきありがとうございます。

次回は閑話を挟み、薔薇のサロンに集う少女たちの物語へ進みます。

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― 新着の感想 ―
王太子サン自分で婚約破棄してなかったっけ。というか悪評云々はどちらかというと私刑に等しい協議もなしの婚約破棄をした自分の心配をするべきだと思うんだけどな。  なんで破棄したんだろ、世界観とか目的がよ…
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