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第19話 聖女候補はもう戻らない

 翌朝、セシリアは自分で髪を結びたいと言った。


 上手にはできなかった。


 金の髪は指からこぼれ、結び紐は何度も滑った。


 侍女が手を貸そうとすると、セシリアは首を横に振る。


「今日は、自分で」


 私は椅子に座って見守った。


 手を出さないことは、何度やっても難しい。


 けれど、セシリアは昨日、王太子の前で自分の答えを置いた。


 ならば、髪を結ぶ時間も彼女のものだ。


 やがて、少し歪んだ結び目ができた。


 セシリアは鏡の中の自分を見て、照れたように笑う。


「変ではありませんか」


「少し曲がっています」


「正直ですね」


「直しますか」


 セシリアは鏡を見たまま考えた。


「このままで」


「なぜ?」


「わたしが結んだと、分かるからです」


 その一言で、私は胸の奥をつかまれた。


 完璧な聖女候補ではなく、少し歪んだ結び目を自分のものだと言える少女。


 王宮が戻したいのは前者で、ここにいるのは後者だ。


「では、そのまま行きましょう」


「はい」


 セシリアは頷いた。


 今日は、正式な拒絶確認の日だった。


 彼女は鏡の前から離れる前に、結び紐の端を指で押さえた。


「もし途中でほどけても、直していいですか」


「もちろん」


「完璧でないまま出ても、あとで直せるのですね」


「ええ。言葉も同じです」


 セシリアは少しだけ息を吸った。


 失敗したら終わりではない。


 そう知った顔で、彼女は扉へ向かった。


 廊下へ出ると、ユーリアが一歩後ろで待っていた。


 セシリアは少し迷い、それから言う。


「今日は、見えるところにいてください」


「承知しました」


 隠れない護衛。


 それも、彼女が選んだ朝の形だった。


* * *


 応接室には、昨日より少ない人数がいた。


 王太子、聴聞官、学院長、聖堂医師、私、セシリア。


 教会代理人は門の外で待機している。


 王家は教会を入れたくない。


 教会は王家だけで決めさせたくない。


 その争いだけでも、セシリアが誰のものでもない証拠になる。


 聴聞官は紙を整えた。


「確認します。セシリア・ルミエールは、王太子殿下の隣へ戻る意思があるか」


 セシリアの喉元が赤く光る。


 痛みは来た。


 予想していても、体は震える。


 私は隣で息を止めた。


 今度は、手を握っている。


 セシリアが自分で差し出した手だ。


 支えることと奪うことは違う。


 その違いを、二人で覚えた。


「わたしは」


 声がかすれる。


 聖印が締まる。


 私の手首も熱くなる。


「王宮へ、戻りません」


 まず、そこまで言えた。


 聴聞官のペンが走る。


 ユリウスの目が細くなる。


「質問は、僕の隣へ戻る意思だ」


 セシリアは涙を浮かべながら、首を横に振った。


「同じことでは、ありません」


「何?」


「王宮は場所です。殿下の隣は、役割です」


 痛みで声が途切れる。


 それでも、彼女は続けた。


「わたしは、場所も、役割も、自分で考えたいです」


 学院長が静かに頷いた。


 聖堂医師は診断書へ追記している。


 ユリウスだけが、受け取らない。


「君は聖女候補だ」


「はい」


「国のために祈る立場だ」


「はい」


「なら、個人の怖さで役割を捨てるな」


 セシリアの肩が震えた。


 その言葉は、彼女に長く打ち込まれてきた釘だった。


 自分が怖いと言えば、国を捨てることになる。


 自分が嫌だと言えば、誰かが不幸になる。


 私は手を強く握りそうになり、力を抜いた。


 セシリアが、自分で握り返す。


「捨てません」


 セシリアは言った。


「祈ることも、治すことも、嫌いになりたくありません。だから、命令で祈る場所へは戻りません」


 セシリアは自分の胸元に触れた。


「聖女候補という名前を捨てたいわけではありません」


 その言葉に、教会の鈴がまた短く鳴る。


 門の外まで聞こえたのかもしれない。


「でも、その名前でわたしを動かす人のところへは、戻りません」


 私は隣で、何も言わなかった。


 その沈黙が、今は一番の支えになる。


 私の役目は彼女の言葉を飾ることではなく、彼女の言葉が最後まで届く場所を守ることだ。


* * *


 部屋の外で、教会の鈴が鳴った。


 昨日より短い。


 苛立ちを隠しきれない音だった。


 セシリアはその音に顔を向け、それから王太子を見る。


「殿下」


 聖印が赤く燃える。


 今度の痛みは強い。


 私の手首から血の気が引く。


 それでも、セシリアは言葉を探す。


「わたしは、殿下の隣には戻りません」


 言えた。


 部屋の空気が止まる。


 聖印は締まり、セシリアの体は前へ崩れた。


 私が受け止める。


 今度は、止めなくていい。


 彼女は言った後に倒れたのだ。


 言う前に奪われたのではない。


 聖堂医師が駆け寄り、脈と呼吸を確認する。


「意識あり。疼痛強。発声成功。記録を」


 聴聞官の手が震えている。


 それでも書いた。


 セシリアは私の腕の中で、浅く息をする。


「戻らないと、言えました」


「ええ」


 私の声も震えた。


「聞きました」


 ユリウスはしばらく黙っていた。


 やがて、低く言う。


「その発言は、彼女の体調が悪い中でのものだ。正式な判断とは認められない」


 学院長の杖が床を打った。


「聴聞官。今の発言と、殿下の不認定発言を併記してください」


「学院長」


「本人が痛みに耐えて発した言葉を、痛んだから無効にする。王宮の論理として、記録に残すべきです」


 ユリウスの顔が強張る。


 聴聞官はペンを走らせた。


 記録は、もう王太子だけの味方ではない。


 私はセシリアを抱えたまま、王太子を見上げた。


「殿下。これ以上続けるなら、医療妨害として抗議します」


「君が僕に抗議するのか」


「はい」


 私は答えた。


「ヴァルトローゼ公爵家令嬢として、セシリア様の保護者代理として、そして彼女の手を選ばれた者として」


 ユリウスの目に怒りが浮かぶ。


 だが、今ここでセシリアを連れていくことはできない。


 王宮の記録が、それを許さない。


 彼は黒い手袋を整えた。


「なら、君自身の婚約についても、次に問う」


 私の胸が静かに冷えた。


 ついに来た。


 王太子はセシリアを取り戻せないなら、私を縛る縄を引くつもりだ。


 セシリアが腕の中で、かすかに目を開ける。


「レティシア様」


「大丈夫」


 私は微笑んだ。


「次は、私が答える番です」


ここまでお読みいただきありがとうございます。

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