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第18話 王太子の前で選ぶ手

 午後の応接室には、椅子が多すぎた。


 王太子ユリウス。


 王宮聴聞官。


 教会代理人。


 学院長。


 聖堂医師。


 家令。


 ユーリア。


 そして、私とセシリア。


 椅子が増えるほど、部屋は狭くなる。


 けれど今日は、密室ではない。


 扉は開き、廊下には写しを運ぶ侍女が立ち、窓の外には黒い馬車と白い馬車が互いを見張っている。


 セシリアは私の隣に座った。


 寝台ではない。


 椅子だ。


 足元には、聖堂医師が用意した小さな踏み台がある。


 背もたれには薄いクッション。


 机の端には白湯と筆記板。


 王宮から見れば過剰な配慮かもしれない。


 けれど、痛む人を痛むまま答えさせないための、必要な準備だった。


 それだけで、王太子の目がわずかに動いた。


「座れるほど回復したようで何よりだ」


 ユリウスの声は穏やかだった。


 穏やかすぎて、刃の布に見える。


「なら、王宮へ戻れるね」


 セシリアの指が膝の上で震える。


 私は手を伸ばさない。


 昨日までは、手を取ることが支えだった。


 今日は、彼女が自分で選ぶ手を残す。


 学院長が聴聞官へ頷いた。


「確認を始めてください」


 聴聞官は紙を読む。


「聖女候補セシリア・ルミエールは、王太子殿下の隣へ戻る意思があるか」


 言葉が部屋の真ん中へ置かれた。


 聖印が赤く光る。


 セシリアの喉が締まる。


 私の手首にも、鋭い痛みが走った。


 破約の薔薇が反応している。


 痛みは、彼女の拒絶がそこにある証だ。


 セシリアは口を開く。


 声は出ない。


 王太子が静かに言う。


「答えられないなら、戻る意思ありとして扱う」


 その瞬間、セシリアの手が動いた。


 私の手を取るためではない。


 机の上の筆記板へ。


「口頭で」


 ユリウスが遮る。


「本人確認は口頭で行う」


 セシリアは筆記板を抱きしめた。


 痛みで頬が白い。


 それでも、目は逸らさない。


「殿下」


 彼女はかすれた声で言った。


「わたしが痛む方法だけを、答えと呼ばないでください」


* * *


 部屋の空気が揺れた。


 聴聞官の羽ペンが止まる。


 教会代理人が眉をひそめる。


 王太子だけが、すぐに笑った。


「誰に教わった言い方だい」


「痛みからです」


 セシリアは答えた。


「痛い時、わたしは何も考えられません。だから、その時だけを見て、意思がないと言われたくありません」


 私は胸の奥で息を止めた。


 助けたい。


 けれど今、彼女は助けを求めていない。


 自分の言葉を探している。


「では、書面回答を認めるべきです」


 学院長が言う。


 教会代理人が首を振る。


「聖約の確認は口頭が原則です」


「その原則で本人に疼痛が出ています」


 聖堂医師が診断書を机へ置く。


「疼痛を発生させる形式だけを唯一の回答方法とするなら、医療上は尋問です」


 尋問。


 その言葉に、王太子の表情が硬くなる。


 セシリアは筆記板へ一行を書いた。


 今は王宮へ戻りません。


 そして、顔を上げた。


「これが、今の答えです」


 聴聞官がその一文を見下ろす。


 羽ペンは迷った。


 口頭回答欄の横に、書面回答欄は用意されていなかったからだ。


 私は黙って、机の上の空白を指で示した。


 欄がないなら、作ればいい。


 本人の意思は、用紙の都合より軽くない。


「今は、か」


 ユリウスが問い返す。


「ずいぶん逃げ道を残したね」


 セシリアは震えながら頷いた。


「はい。わたしは、未来の自分まで縛りたくありません」


 私の指先が熱くなる。


 それは、誰かに教え込まれた台詞ではない。


 セシリアが自分で痛みの中から拾った言葉だった。


「今日は戻りません。治るまでは、ここで休みます。祈るかどうかも、治療を受けるかどうかも、わたしが考えます」


「君は聖女候補だ」


「聖女候補である前に、わたしです」


 声は小さかった。


 けれど、部屋の全員に届いた。


* * *


 王太子は、椅子の背に手を置いた。


「レティシア」


「はい」


「君は満足か」


「何にでしょう」


「彼女を僕から引き離し、王家と教会を敵に回し、聖女候補に我がままを覚えさせた」


 我がまま。


 セシリアの肩が跳ねる。


 私は、そこで初めて手を伸ばした。


 セシリアの手を握るためではない。


 机の上に置かれた筆記板を、皆に見えるように少し前へ出すためだ。


「これは我がままではありません。意思です」


「同じことだ」


「違います。誰かの都合に合わない意思を、我がままと呼んで黙らせてきただけでしょう」


 ユリウスの目が冷える。


「君は本当に悪役令嬢らしくなった」


 その言葉は、舞踏会の夜なら刺さったかもしれない。


 今は違う。


 私は背筋を伸ばした。


「悪役令嬢で結構です。誰かの痛みをなかったことにする正義より、ずっとましです」


 セシリアの手が、そこで私の袖に触れた。


 今度は助けを求める手ではない。


 隣にいると知らせる手だ。


「レティシア様」


「はい」


「わたし、もう一つ言います」


 私は止めようとした。


 聖堂医師も身を乗り出す。


 だがセシリアは首を横に振った。


「王太子殿下」


 聖印が赤く燃える。


 痛みで声が揺れる。


 それでも、セシリアは言った。


「わたしは、レティシア様のそばで治したいです」


 拒絶ではない。


 選択だ。


 だからか、痛みは走ったが、言葉は壊れなかった。


 私の手首に、熱い花弁のような痛みが開く。


 ユリウスは黙った。


 教会代理人も、聴聞官も、誰もすぐには否定できなかった。


 セシリアは息を切らしながら、私の袖をつかむ。


「言えました」


「ええ」


 私はその手を包んだ。


「確かに、聞きました」


 聴聞官が顔を上げる。


「今の発言は、拒絶ではなく療養先の選択として記録します」


「その通りです」


 学院長が頷いた。


「本人の希望、医師の所見、保護記録。三つが一致しています」


 教会代理人は反論しようとして、言葉を飲み込んだ。


 王家を退ける材料にも、教会単独で奪う材料にもならない。


 セシリア自身の選択だけが、机の上に残った。


 王太子は黒い手袋を握りしめる。


「次は、僕の前で拒絶してもらう」


 その声には、もう余裕がなかった。


 私は静かに見返した。


 次の問いが、一番痛い。


 けれどセシリアは、もう痛みの中で黙るだけの少女ではなかった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。

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