第17話 祈りは命令ではない
門の外で、教会の鈴が鳴った。
朝の祈祷時刻を知らせる音だ。
王都の多くの家なら、使用人が手を止め、客人が頭を垂れ、星冠教会の方角へ祈る。
けれどヴァルトローゼ王都邸の薔薇の客間では、誰もすぐには膝をつかなかった。
セシリアは寝台の端に座り、その鈴を聞いていた。
胸の前で組みかけた手が、途中で止まっている。
「祈らなくても、いいのですか」
問いは誰に向けたものでもなかった。
長く染みついた習慣が、喉からこぼれただけだ。
聖堂医師は診察鞄を閉じる手を止める。
「医師としては、聖女魔法の使用は禁止です」
「祈ることも?」
「命令としての祈りなら、休んでください」
セシリアは窓を見る。
白い馬車の銀飾りが、朝日に光っていた。
鈴の音は柔らかい。
けれど、今は柔らかい縄に聞こえる。
私はセシリアの隣に座った。
「祈りたいの?」
「分かりません」
セシリアは正直に言った。
「祈らなければ、誰かを見捨てるような気がします。でも、祈りなさいと言われると、体が固まります」
「では、今は答えを出さなくていい」
「祈らないことも、選択ですか」
「ええ」
私は窓の外の白い馬車を見た。
「祈りは、命令ではないもの」
その言葉を聞いた瞬間、セシリアの手が膝の上で震えた。
* * *
教会代理人は、門の外から書面を差し入れた。
聖女候補は朝夕の祈祷を欠かしてはならない。
祈祷記録を教会へ提出すること。
祈祷拒否は信仰不履行として扱う可能性があること。
私は書面を読み終え、机に置いた。
「祈りまで記録欄にするのですね」
セシリアは黙っている。
怒るより先に、悲しんでいた。
祈りは彼女にとって、誰かを癒やすための手だったはずだ。
それを、出席簿のように扱われている。
「セシリア様」
聖堂医師が慎重に呼ぶ。
「確認します。あなたは今、祈りたいですか」
セシリアは時間をかけて考えた。
窓の外の鈴。
机の上の書面。
私の手袋。
自分の喉元。
そのすべてを見てから、答えた。
「教会に提出するためには、祈りたくありません」
聖印は光らない。
セシリアは驚いた。
「でも」
彼女は私の手首へ視線を落とす。
昨日から、破約の薔薇の傷は赤みを帯びていた。
「レティシア様の痛みが、少しでも引くなら、祈りたいです」
私は息を止めた。
「それはだめ」
「なぜですか」
「あなたの魔法は禁止されています」
「魔法ではなく、祈りです」
「同じことになるかもしれない」
セシリアは首を横に振る。
「違うかどうか、知りたいです」
その言い方は、昨日の「どこで痛むのか知りたい」と同じだった。
自分の体を取り戻そうとしている声だ。
聖堂医師は長い沈黙の後、条件を出した。
「短く。治癒魔法を発動させない。痛みが出たら即中止。祈る対象は教会ではなく、あなた自身が決める」
セシリアは頷いた。
* * *
祈りは、とても小さかった。
セシリアは手を組まない。
膝の上に置いたまま、目を閉じるだけだ。
教会で教わった長い文言も唱えない。
ただ、息の形で言葉を置いた。
「痛みが、あなたのものだけになりませんように」
私の手首が熱くなる。
破約の薔薇が、内側から花弁を開くように疼いた。
痛い。
けれど、昨日までの痛みとは違う。
切り裂くような痛みではない。
誰かの手が、傷の輪郭を確かめているような熱だ。
セシリアが目を開ける。
「痛いですか」
「痛いわ」
私は正直に答えた。
「でも、怖くない」
その瞬間、セシリアの目に涙が浮かんだ。
聖堂医師が記録を書く。
「聖女魔法の暴走なし。聖約痕の締めつけなし。破約の薔薇に軽度共鳴。本人意思に基づく短い祈りでは、教会命令時の反応と異なる」
「つまり」
私が問う。
「祈りそのものが悪いのではありません。命令としての祈りが、彼女を縛っている可能性が高い」
祈れるままでいられるなら、セシリアは自分の信仰まで奪われずに済む。
その違いを、私は見失いたくなかった。
ユーリアが窓辺から静かに言った。
「門の外の教会代理人が、祈祷確認の合図を止めました」
「聞こえていたのね」
「はい。こちらが祈祷姿勢を取らなかったことも見ています」
セシリアの肩がまた固くなる。
私はその前に、机の上の教会書面を裏返した。
「見られているから祈るなら、また命令に戻るわ」
「はい」
「見られていても、祈らない。見られていても、自分のために祈る。そのどちらも選択です」
セシリアは自分の手を見た。
指先には、祈り布の跡がまだ薄く残っている。
何度も握り、何度もほどけなかった布の跡だ。
セシリアは枕元に置いた白い布へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「今日は、持たないで祈らない練習をしてもいいですか」
「もちろん」
布を持たないこと。
それだけで、彼女の肩から見えない手が一つ離れた気がした。
聖堂医師はその選択も記録した。
祈り布なし。
祈祷姿勢なし。
本人意思、確認中。
簡素な三行が、教会の長い祈祷文より今のセシリアに似合っていた。
「祈らないことまで、祈りに見張られていたのですね」
「だから、今日は見張り返しましょう」
私は窓を半分だけ開けた。
鈴の余韻と薔薇の香りが、同じ風に混じった。
セシリアは窓の外を見る。
教会の鈴の余韻は、まだ耳に残っている。
けれどもう、同じ音には聞こえなかった。
「わたし、祈りが嫌いになりたくありません」
「ええ」
「でも、命令される祈りは嫌です」
その「嫌」は、はっきり出た。
聖印は赤くならない。
私は微笑んだ。
「記録しましょう」
セシリアも小さく頷く。
その時、門の外で黒い馬車の扉が閉まる音が響く。
王宮の使者が新しい書面を持ってきた。
正式な聴聞の時刻は、午後。
確認事項の最初には、こう書かれていた。
王太子の隣へ戻る意思を、口頭で答えること。
セシリアは書面を見て、私の手を取った。
「祈りは命令ではありません」
彼女は言った。
「なら、答えも命令ではありません」
午後の光が、薔薇の客間へ差し込む。
逃げ場のない問いが、もうすぐ来る。
けれどセシリアは、その問いを見ていた。
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