第16話 いやですと言う練習
苦い薬を前にして、セシリアは真剣な顔をしていた。
王太子より怖いものを見る目ではない。
けれど、少なくとも楽しい顔ではない。
聖堂医師は小さな匙を差し出し、淡々と言った。
「嫌なら、嫌と言ってください」
セシリアの喉元が、反射のように固まる。
私は寝台のそばで椅子に座り、口を挟まないように白湯の杯を持った。
今日の課題は、戦ではない。
けれど、セシリアにとっては戦より難しいかもしれない。
「これは聖約に関係しない拒否です」
聖堂医師が説明する。
「苦い薬が嫌。熱い湯が嫌。窓を開けすぎるのが嫌。そういう小さな拒否から確認します」
「小さな拒否」
「はい。嫌と言っても、誰も壊れません」
セシリアは匙を見る。
薬の匂いが、客間に薄く広がった。
「いや、です」
声は細かった。
けれど出た。
聖印は光らない。
痛みも来ない。
セシリアが驚いたように喉へ触れる。
「痛くありません」
「当然です。薬の好みまで聖約で縛られていたら、教会は医療ではなく料理まで支配しています」
聖堂医師の真顔に、私は思わず笑いそうになった。
セシリアも、ほんの少しだけ口元を緩める。
「でも、飲まなくていいわけではありません」
「先生」
「嫌と言ってから、飲む理由を選びましょう。治るために飲むのか、命令だから飲むのか。それは別です」
セシリアは匙を受け取った。
「治るために、飲みます」
苦い薬を飲んだ瞬間、顔がきゅっと歪む。
私は白湯を差し出した。
「よくできました」
「子どもみたいです」
「嫌ですか」
セシリアは白湯を両手で持ち、考えた。
「少し、うれしいです」
その答えに、私の胸が柔らかく痛んだ。
* * *
練習は、午前の光の中で続いた。
窓を開ける。
閉める。
掛布を増やす。
減らす。
蜂蜜を入れる。
入れない。
どれも王宮なら誰かが決めていたことだ。
今は、セシリアが選ぶ。
「窓は、半分だけ開けたいです」
「はい」
「蜂蜜は、今日は入れたいです」
「はい」
「髪は、結ばなくていいです」
「はい」
侍女たちは一つずつ頷く。
従うのではなく、受け取る。
その違いを、屋敷全体で覚えていくようだった。
寮母から派遣された侍女が、確認のたびに小さな帳面へ印をつける。
窓、半分。
蜂蜜、今日は入れる。
髪、結ばない。
どれも国を動かす決定ではない。
けれどセシリアの一日を、確かに彼女のものへ戻していく印だった。
私はその帳面を見て、王宮の命令書よりずっと強い記録だと思った。
命令書は誰かの都合を残す。
この帳面は、セシリアの息の速さまで待ってから残している。
同じ紙でも、こんなに違う。
ユーリアは扉の近くに立っていた。
王家の影への報告を明かしてから、彼女は必要以上に近づかない。
近づきたいのか、遠ざかるべきと思っているのか、その両方なのか。
セシリアは彼女へ視線を向けた。
「ユーリアさん」
「はい」
「そこは、遠いです」
私の心臓が跳ねた。
同じ言葉を、かつて自分が言われた。
ユーリアも気づいたのだろう。
わずかに目を伏せる。
「近づいても、よろしいのですか」
「怖いです」
セシリアは正直に言った。
「でも、怖いから遠ざけたいのか、知らないから怖いのか、まだ分かりません」
ユーリアは一歩だけ近づいた。
「では、一歩だけ」
「はい。一歩だけ」
そのやり取りは、薬よりずっと慎重だった。
私は胸の奥で息を吐く。
選ぶとは、派手な宣言だけではない。
一歩近づけるかどうかを、自分で決めることでもある。
セシリアは今度、私の方を見た。
「レティシア様にも、言っていいですか」
「もちろん」
「では」
セシリアは白湯の杯を両手で包み、真剣に考えた。
「今は、手を握らなくていいです」
私の指が止まる。
胸の奥に、寂しさのようなものが落ちた。
けれど、それは悪い痛みではない。
彼女が安心して離せる距離を選んだ証だ。
「分かりました」
私は手を膝に戻した。
セシリアは少しして、照れたように目を伏せる。
「あとで、また握ってください」
「予約ですね」
「はい。予約です」
* * *
午後、王宮から正式な確認事項が届いた。
紙には、明日の聴聞で問われる文言が並んでいる。
王太子の隣へ戻る意思があるか。
王宮保護を望むか。
教会診察を受けるか。
そして、私による誘導があったか。
セシリアは一つずつ目を通した。
最初の問いで、聖印が赤く光る。
まだ読んだだけだ。
それでも痛む。
聖堂医師が紙を取り上げようとしたが、セシリアは首を横に振った。
「読みます」
「無理は」
「無理をするためではありません。どこで痛むのか、知りたいです」
私は手袋を握った。
止めたい。
けれど、知りたいという言葉を奪うのは、守ることではない。
断る練習は、誰かを傷つける練習ではない。自分の輪郭を、もう一度自分の手で確かめるための練習だ。
その練習を、私は急かしたくなかった。
「では、私も一緒に見ます」
「はい」
セシリアは最初の文を指で押さえた。
「王太子殿下の隣へ、戻る意思」
声が途切れる。
喉が赤く締まる。
痛みで目に涙が浮かぶ。
それでも、彼女は紙から目をそらさなかった。
「い、や」
音は、途中で砕けた。
私の手首に、破約の薔薇が熱を持つ。
セシリアの拒絶が、またこちらへ痛みとして届いた。
聖堂医師が息をのむ。
「今の反応は記録します。拒絶語に対して聖約痕疼痛。破約の薔薇にも共鳴」
セシリアは肩で息をしている。
私は白湯を渡した。
「今日はここまで」
「でも」
「ここまで選べたのなら、十分です」
セシリアは杯を受け取る。
震える指が、私の指に触れた。
「明日、言います」
「明日でなくてもいい」
「いいえ」
セシリアは涙をこぼしながら、笑った。
「待ってくれる人がいるなら、わたしは急がなくていい。だから、明日は自分で言えます」
その言葉に、私は何も返せなかった。
急がないことを知った少女が、自分で明日を選んだ。
それは、どんな命令書より強い約束だった。
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