第15話 聖女誘拐という名の鎖
朝の封書は、赤い紐で縛られていた。
王宮の紐だ。
けれど、結び目には白い蝋の削り粉が残っている。
教会の手が、どこかで触れた証だった。
私は執務机の前で封書を開き、最初の一文だけで内容を理解した。
聖女候補誘拐の疑い。
その文字は、あまりに便利な鎖だった。
セシリアが選んだことを消し、私が奪ったことに変える。
王宮にも教会にも都合がいい。
家令が静かに告げる。
「王宮聴聞官、教会代理人、学院長、聖堂医師、いずれも昼前に到着予定です」
「王太子は」
「同席されるとのことです」
私は封書を畳んだ。
手袋の内側で、破約の薔薇が小さく疼く。
「誘拐という言葉は、便利ね」
「お嬢様」
「本人の足も、声も、筆跡も、全部見えなくできる」
扉の向こうから、軽い咳が聞こえた。
セシリアだ。
薔薇の客間から出てきた彼女は、昨夜より顔色が戻っている。けれど歩幅は小さい。
片方の手には、昨日書いた筆記板を抱いていた。
「読ませてください」
「つらい内容です」
「わたしのことを、わたし抜きで怖くされる方がつらいです」
私は封書を渡した。
セシリアの目が文字を追う。
聖女候補誘拐。
不当な私邸拘束。
王太子との聖約妨害。
言葉が進むほど、彼女の喉元に赤い光が灯る。
それでも、セシリアは最後まで読んだ。
「わたしは、誘拐されたのですか」
「いいえ」
「では、そう書かれるのを、止めたいです」
その声は細い。
けれど昨日より、少しだけ芯があった。
セシリアは封書を畳むと、机の端へそっと置いた。
破り捨てるのではなく、隠すのでもなく、皆に見える場所へ。
「怖い言葉でも、見えるところに置きたいです」
「理由を聞いても?」
「隠すと、わたしの中だけで大きくなります。見えるところにあれば、嘘かどうかを一緒に確かめられます」
私は頷いた。
誘拐という鎖を解くには、まず鎖の形を本人が見ていい場所に置く必要がある。
家令が新しい紙を一枚置いた。
題名のない、白い紙。
セシリアはそこへ、誘拐されていません、と一度だけ練習で書いた。
文字は少し震えていた。
それでも、王宮の赤い文字よりずっとまっすぐだった。
* * *
昼前の応接室には、紙の匂いが満ちていた。
王宮聴聞官の記録紙。
教会代理人の移送令。
学院長の保護記録。
聖堂医師の診断書。
そして、セシリア本人の筆跡。
同じ机に並べると、誰が人を見ていて、誰が欄を見ているのかが分かる。
王太子ユリウスは椅子に座らなかった。
「形式遊びはもういい」
「形式で人を縛ってきた側のお言葉とは思えませんね」
私が返すと、聴聞官の羽ペンが止まりかけた。
止まらない。
止めさせない。
ユリウスは机を指した。
「その筆跡は、君の屋敷で書かせたものだ。強制の可能性がある」
「では、王宮で書かせた言葉は強制の可能性がないと?」
「王宮は公の場だ」
「痛みで言葉を封じる聖約の下で?」
教会代理人が口を開く。
「聖約を悪意あるものと断じるのは、信仰への侮辱です」
セシリアの肩が揺れた。
私は机の下で、自分の手を握る。
代わりに怒ってはいけない。
今ここで必要なのは、セシリア自身の一歩だ。
「セシリア様」
学院長が静かに呼んだ。
「発言は任意です。沈黙も記録します」
その一言で、セシリアの呼吸が少し整った。
沈黙も、逃げではない。
記録になる。
「わたしは」
聖印が光る。
痛みが来る。
セシリアは筆記板を抱きしめた。
「誘拐されて、いません」
部屋の空気が割れた。
王太子が一歩踏み出す。
「セシリア」
「連れて行かれたのではありません。手を取りました」
「誰の手を」
聴聞官が問う。
セシリアは私を見る。
私は何も言わない。
頷くことさえしない。
選ぶ瞬間に、合図を混ぜたくなかった。
「レティシア様の手です」
セシリアの声は震えている。
「でも、わたしの足で歩きました」
羽ペンが走る音がした。
教会代理人が顔をしかめる。
「その発言は聖女候補として不適切です」
「適切でなくても、本当です」
セシリアの目に涙がたまる。
「わたしは、嘘をつくために祈ってきたのではありません」
* * *
ユーリアが証言台の前に立ったのは、その後だった。
証言台と呼べるほど立派なものではない。
ただ、机の端に置かれた一枚の紙と、そこに向けられた全員の視線が、彼女をそこへ縫い止めている。
「私は、王家の影へ定時報告を行っておりました」
聴聞官の羽ペンが止まった。
王太子の顔が変わる。
「何を言っている」
「命令に従い、レティシア様の動向、セシリア様の状態、教会馬車の位置を報告しておりました」
「黙れ」
ユリウスの声が鋭くなる。
その瞬間、私は理解した。
王家は誘拐を責めたい。
だが、王家自身が監視を置いていた事実は出したくない。
監視していたなら、セシリアが自分で歩いたことも知っていたはずだからだ。
「殿下」
私は静かに言った。
「誘拐と主張されるなら、王家の影が何を見ていたのかも記録に必要では?」
ユリウスは答えない。
教会代理人も黙った。
王家の影が見ていたなら、教会馬車の追跡も見ていたことになる。
どちらも、相手に触れられたくない傷を持っている。
私はその傷を、紙の上に置いた。
「聖女誘拐という言葉は、便利です。でも便利すぎる言葉は、真実を隠します」
セシリアが筆記板を胸に抱く。
「わたしは、隠されたくありません」
その一言で、部屋の重さが変わった。
聴聞官は羽ペンを置かなかった。
記録は続く。
王太子は私を見た。
「では明日、本人の拒絶を正式に確認する」
拒絶。
その言葉だけで、セシリアの聖印が赤く鳴る。
ユリウスはそれを見ていた。
知っていて、言った。
私の中で、冷たい怒りが静かに立ち上がる。
「よろしいでしょう」
私は答えた。
「ただし、痛みを武器にした確認なら、その痛みごと記録していただきます」
セシリアが小さく私の袖を引いた。
「怖いです」
「ええ」
「でも、怖いと書かれるだけでは嫌です」
私は彼女を見る。
セシリアは涙をぬぐわなかった。
「怖くても、わたしがどうしたいかを聞いてください」
「聞きます」
私は答えた。
「何度でも」
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