第14話 影へ返した返事
夜になると、薔薇の客間の影は濃くなった。
昼の応接室で王太子が残した言葉は、屋敷の壁にまだ薄く貼りついている。
明日、正式な聴聞を開く。
聖女誘拐として扱う。
その二つは脅しであり、同時に王宮が逃げ場をなくした証でもあった。
私は窓辺に立ち、向かいの屋根を見た。
王家の影は見えない。
見えないから、いる。
「ユーリア」
「はい」
侍女は背後にいた。
音もなく。
近すぎるのに、どこか遠い。
「あなたは、今日も報告するの?」
ユーリアの睫毛がわずかに下がった。
「必要であれば」
「誰に」
沈黙が落ちる。
セシリアは寝台の上で息をひそめた。聖堂医師は机に診断書を広げたまま、ペンを止めている。
逃げる道はいくつもあった。
任務です。
安全確認です。
お嬢様のためです。
けれどユーリアは、そのどれも選ばなかった。
「王家の影へ」
はっきりと言った。
私の胸が、冷たい指で押されたように痛む。
知っていた。
知っていたはずだ。
それでも、本人の口から聞くと違う。
「廊下に礼をした夜も?」
「はい」
「誰もいない廊下に見えたわ」
「誰もいない場所へ礼をするのが、合図でした」
セシリアの指が掛布を握る。
「では、あなたは、わたしたちを王家へ売っていたのですか」
問いは責めていない。
それが、かえって痛かった。
ユーリアは膝を折った。
「売っていました」
私は息を止める。
「少なくとも、そう呼ばれても仕方のないことをしておりました」
* * *
ユーリアはエプロンの内側から、細い紙片を取り出した。
そこには短い言葉が並んでいる。
令嬢、異常なし。
聖女候補、王宮拒否。
教会馬車、門前待機。
王太子、来訪。
どれも事実だった。
事実だけなら、刃物ではない。
だが刃物を持つ手に渡れば、事実は人を切る。
「いつから」
「幼い頃からです。王家の影に買われ、ヴァルトローゼ家へ入れられました」
「私の監視のために?」
「はい」
私は紙片を見下ろした。
紙は薄い。
火に近づければ一瞬で消える。
けれど、その薄さで何度も人の行き先が変えられてきたのだろう。
ユーリアの手は、報告の紙よりずっと冷えて見えた。
「この報告で、誰かが動いたことは?」
「あります」
「私を危険にしたことは?」
ユーリアは目を伏せたまま、長く沈黙した。
「あります」
短い返事だった。
けれど、その一語は言い訳より重かった。
私は紙片の端を見た。
そこには、私が夜更けまで書類を読んだ日付も、セシリアが初めて眠れた時刻も、淡々と並んでいる。
日常の温度が、監視の数字に変えられていた。
セシリアが息をのむ。
私の胸も痛んだ。
でも、ここで曖昧にすれば、ユーリアをただの可哀想な侍女にしてしまう。
それは彼女がしたことも、選び直そうとしていることも軽くする。
「分かりました」
私は言った。
「その分まで、明日話してもらいます」
あまりに静かな肯定だった。
怒ればよかった。
裏切り者と呼べば、分かりやすかった。
けれど私の目の前にいるのは、いつも湯を用意し、影縫いで近衛を止め、セシリアの馬車を守った侍女だった。
裏切りだけでできた人ではない。
忠誠だけでできた人でもない。
だから、難しい。
「なぜ今、話したの」
「隠したまま明日の聴聞に立てば、お嬢様の返書が弱くなります」
「それだけ?」
ユーリアは答えない。
私は一歩近づいた。
「命令ではなく、あなたの理由を聞いているの」
その言葉に、ユーリアの肩がほんのわずか揺れた。
「セシリア様が、わたしを見て怖がりました」
低い声だった。
「当然です。わたしは怖がられる仕事をしてきました。それでも、あの方は私にそばにいてほしいと言いました」
セシリアが顔を上げる。
「言いました」
「だから、これ以上、知らないふりでそばに立つことができません」
ユーリアの手が床に触れる。
「処分を」
「しません」
私は即答した。
ユーリアが初めて、目を上げる。
「なぜ」
「あなたが今、私たちに返したから」
「返した?」
「報告の事実を、王家ではなくこちらへ」
私は紙片を受け取った。
「でも、許したわけではないわ」
「承知しております」
「明日、あなたには証言してもらいます。自分が王家の影へ報告していたことを」
セシリアが息をのむ。
ユーリアは、静かに頭を下げた。
「はい」
* * *
聖堂医師が紙片を見て、眉を寄せた。
「この影縫いの跡、教会式の結びが混じっています」
ユーリアの指が止まる。
「教会式?」
私が問う。
「王家の影へ渡す報告紙は、開封者以外が触れた時に崩れるよう、影で封じる決まりがあります」
聖堂医師は紙片の角を示した。
「王家の影の術式なら、王家の印が残るはずです。ですが、この紙片の端に、星冠記録術と似た癖がある」
聖堂医師は声を潜めた。
「あなたの影縫いは、どこで教わりました」
「王家です」
「本当に?」
ユーリアは答えられなかった。
自分の過去の輪郭が、初めて揺れた顔だった。
私はその表情を見て、紙片を折りたたむ。
「これは明日の場には出さない」
「なぜですか」
「今出せば、あなたごと切られるから」
ユーリアの唇がかすかに開く。
「わたしを、守るのですか」
「証人を守ります」
私はあえて公的な言い方をした。
その奥にあるものは、まだ言葉にしない。
セシリアが寝台から手を伸ばした。
「ユーリアさん」
ユーリアは迷い、膝のまま近づく。
「怖いです」
「はい」
「でも、知ってよかったです」
セシリアの指が、ユーリアの袖に触れた。
「知らないまま信じるより、怖くても知って選びたいです」
ユーリアは目を伏せた。
その姿は、誰もいない廊下へ礼をした侍女とは違って見えた。
今は、ここにいる人へ頭を下げている。
窓の外で、屋根の影が動いた。
私は紙片を手袋の内側へしまう。
「明日は、こちらから影に返事をしましょう」
「何と」
ユーリアが問う。
「見ていなさい、と」
私は窓の外を見た。
「王家の影にも、教会にも。誰が誰を選ぶのか、見せてあげる」
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