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朝日が差し込むように、遮光カーテンは採用していない。自然に明るくなって欲しいから。
寝起きの良い怜志が目覚めると、昨夜と同じポーズで陽彩が眠っていた。
「朝は弱いって言ってたな」
時計を見ると七時を過ぎたところだ。どうせ日中はマンションから出られないし、今のこの状況が幸せすぎて起こしたくない。静かにゆっくりと繰り返される呼吸は、心地よく眠れているのを証明している。怜志は起きて直ぐにスマホでニュースに目を通すのが日課だが、今日ばかりはやめて陽彩が起きるまで眺めて過ごすことにする。合間で怜志も寝落ちしたが、それでも陽彩は起きる気配すら伺えなかった。
このままだと、きっと昼くらいまで寝ているかもしれない。
そっと腕を抜き、まだ起きないのを確認すると、キッチンへ移動してコーヒー豆を挽き始めた。音量を落として音楽を流す。今日観る映画のサントラだ。ドリッパーにフィルターをセットし、豆を入れる。円を描きながら湯を注ぐと、時間差で香ばしい香りがふわりと立ち込める。
休日の楽しみの一つだ。仕事の日はゆっくりと朝を楽しむ余裕はないし、むしろスイッチを入れるためにリラックスはしたくない。
鼻歌を口ずさみながら、数回に分けて豆の上から湯を注ぎ、サーバーに溜まっていくのを覗き込む。
陽彩のカフェオレの分をマグカップに注ぎ、残りを自分のマグカップに全て淹れた。
リビングに移動し、ソファーに腰を下ろす。
良い日だなと思う。静かな部屋でコーヒーを飲み、寝室では両思いになったばかりの恋人が寝ている。子供の頃からアパートで誰もいない時間を過ごしてきた怜志は、特に一人でも寂しいと感じたりはしない。父と二人暮らしを始めてからも、怜志は学校と塾で忙しかったし、父も仕事で不在がち。顔を合わせれば「久しぶり」なんて挨拶を交わすのが当たり前だった。
誰かの存在を常に感じる日常は想像もできなかったが、現実になってみると愛おしさで溢れている。早く起きて欲しいけれど、ゆっくり休んで欲しい。コーヒーを飲み終えたら、もう一度寝顔を見に行こうかと考えてみる。すると、寝室から陽彩が顔を出した。恐る恐る辺りを見渡す陽彩は、勝手に出てきて良いのか迷っている様子だった。
「よく眠れた?」立ち上がり出迎えに行くと、こちらを見た陽彩が泣きそうに口を結ぶ。
「え、なに? 体調悪いとか?」よく眠っていたと思ったし、顔色が悪いわけでもない。それとも別に涙を堪えるほどの理由があるのか……。怜志は慌てて陽彩に駆け寄る。
「起きると一人だったので、何か怒らせたかと思ってしまって……怜志さんの顔を見て安心しました。それで、気が抜けて……」
指先で涙を押さえる。「俺に側にいて欲しかったってこと?」と訊くと口を噤んだままこくりと頷く。思いも寄らぬ言葉に、怜志は堪らなくなって陽彩を抱きしめた。
「ごめん。気持ち良さそうに寝てたから、起こさなかっただけ。コーヒー飲んでから、またベッドに戻ろうと思ってたんだ」
自分がいなくて寂しいかったなんて、そんなふうに言われたのは生まれて初めてだ。実の母親にさえ言われたことはない。それどころか、千円札を渡されて「お客さんが来るからこれで時間潰してきな」とアパートから追い出されていた。来客がある時、母にとって怜志は邪魔な存在だった。いや、常に余分な生活費のかかる厄介な存在だった。
だから怜志にとって、マンションで過ごす一人の時間は気が休まる。蔑む目を向けられない。罵声を浴びせられない。いつ暴れ出すかもしれない母に怯えなくて良い。
一生、結婚なんてしなくていいと思ってきた。家族とさえ上手く関係を築けなかった自分が、他人と一緒に住むなんて無理に決まっていると思い込んでいた。
けれど陽彩との時間は、驚くほどすんなりと怜志の日常に溶け込んでくる。このままずっと、二人きりでこの空間に閉じこもっても良いくらいに、離したくない、帰したくない。
陽彩を楽しませたくて誘ったのに、本当は自分が必要とされたかったのだと気付かされた。もっと頼られたい。心の隙間を埋めたい。押し殺していた感情が溢れ出す。
「俺、ずっと陽彩と一緒にいるから」
指先にまで血が通っていると感じる。温かい。心に抱えていた蟠りが解かされていく。
陽彩に出会えて良かった。自分でも意識していなかった感情を浄化することができた。感謝してもしきれない。せめて一緒にいる間、楽しいと思って欲しい。
「ご飯にしようか」
「はい」
「陽彩、一旦離れてくれないとキッチンに行けないよ」
「……」
黙り込んで、子供みたいに顔を埋めたまま動かない。もしかすると、幼い頃から病院で一人で寝ていたから、今になってようやく『甘える』という行為を知ったのかもしれない。
「じゃあ、このまま移動しよう」
陽彩を前に向かせると、背後からすっぽりと包み込み、その状態でキッチンへ移動する。可能なか限り、ずっと陽彩に触れていた。ご飯を食べる時も、ダラダラとした時間を過ごしている間も、怜志は陽彩から離れなかったし、陽彩も触れていることで怜志の存在を認識しているようだった。
陽彩の中にはなかった感情がどんどん溢れ出しているように感じる。怜志は何よりもそれが嬉しいと感じた。
映画までの時間はマンションから出られない。普段なら時間を持て余して退屈しているところだが、不思議と二人なら一緒にいるだけで満たされている。陽彩は記憶喪失ではあるが、話題に困ることはなかった。話疲れて昼寝してしまうほど会話は途切れなかった。アルコープでの出来事や陽彩が書いている小説のこと。好きな本や映画の話。大学での話もしてくれた。
時間はあっという間に過ぎ、早めの夕食を済ませてマンションを出る。
あからさまに浮き足立って口許が緩んでいる陽彩を見て可愛いと思わずにはいられない。何をしても何を話していても怜志は頭の中でずっと『可愛い』がリフレインしている。
スーパー同様、レイトショー鑑賞も肩透かしを喰らうほどゆったりと観られた。カップルシートを予約していたので、映画の間も離れずにいられた。怜志も「カップルシートは初めて」だと言うと、一緒に初体験できることを「特別な思い出だ」と、陽彩は喜んだ。
まだ明日も一緒にいられるという安心感もあり、随分とリラックスしているように思える。
クライマックスのキスシーンに重ねて、怜志たちも唇を重ねた。
「うわ、雨降ってる」
映画館から出ると予報外の雨が降っていた。駐車場までは徒歩数分を要する。車を回してくるからここで待っててというわけにもいかず、かと言って足許の悪い中走らせるのも憚れる。
考えた末、怜志はいきなり陽彩を横抱きにして飛び出した。
「れ、怜志さん?」
「しっかり捕まってて。これが一番早いから」
深夜でも人は活動している。周りから怜志たちの行動を煽る声が聞こえてきたが無視した。
これも特別な思い出にしたい。深夜の雨の中、お姫様抱っこをされて街中を走り抜けるなど、早々できる経験ではない。
これが映画なら、雨の中キスを交わしてハッピーエンドを迎えたに違いない。
これが、映画なら……の話だ。
残念ながら、これは映画でなく、現実世界だ。
マンションに帰ってしっかりとお風呂で暖まり、抱きしめて暖をとって寝たものの、翌朝、陽彩は高熱を出した。
「れい……し……、苦しい……」
「ごめん、夜に無茶させた俺が悪い。薬、多分なんでも飲めないよな? 鳴海さんに電話するから。水、飲める?」
体を起こしストローを近付けるも、ぐったりとしていて咥えられない。仕方なく怜志は自分の口から直接移した。陽彩は口付けられたことに刹那目を瞠ったものの、最低限の水分補給は叶った。
再び寝かせると直ちに鳴海に電話をかける。
「鳴海さん、すみません。今朝から陽彩が酷い熱で……。昨日の夜、外出させたら雨に打たれて……申し訳ありません。それで、このまま病院へ連れて行こうと思うのですが」
怜志がついていて、なんということだと罵倒されるのを覚悟していたが、鳴海はそこは重要視していなかった。しかしあからさまな動揺は見せている。
「連絡……直ぐに連絡しなくちゃ……」そう繰り返し呟いているのが聞こえた。
「鳴海さん、掛かりつけはクロノス総合病院なんでしょう? 俺、今から向かうので、鳴海さんもきてもらえますか?」
体は強くなったと言っても、万全ではない。このまま入院も充分あり得る。なのに鳴海は「違うの。それではダメなの」と訳の分からない発言を繰り返す。断片的に言われても理解ができない。どうするべきなのか、指示を煽ってほしい。そう言おうとした時、鳴海の口から怜志もよく知る名前が飛び出した。
「伊角先生じゃないと。病院ではダメ。伊角先生に電話しなくちゃ」
聞き間違いでなければ、クロノス総合病院に伊角が数人存在していない限り、怜志の知っている伊角しか思い浮かばない。
「あの、伊角さんってクロノス総合病院の研究室にいる、伊角透さんですか?」
「……伊角先生を知っているの?」鳴海はそれまで慌てふためいていたのに、ぴたりと立ち止まったように声を鎮めて訊いた。
「はい、俺が仕事で取引をしているのが伊角さんの研究室なんです。俺から連絡して状況も説明しておきます」
「お願い。急いで私も向かうから」
先日の定期検診では特に異常はなかったはずだが、鳴海は不自然なほど慌てていた。とにかく急がなくてはならないのだけは伝わってきた。怜志は電話を切ると直ぐ様伊角の番号を履歴からタップする。
コール二回目で伊角と繋がった。
『週末なのに、どうしたの?』
伊角がこの番号で出るということは、研究室にいる。
「すみません。緊急です。今、鳴海陽彩と一緒にいるのですが、今朝から高熱で……鳴海さんに伺ったところ伊角さんではないといけないって。それで、どうすればいいですか?」
『陽彩?』伊角は怜志と陽彩が一緒にいるのは何故だと疑問が浮かんでいるように陽彩の名前を呟く。
「伊角さん、陽彩が苦しそうなんです。お願いです。とにかく指示を出してください」
『あ、あぁ。今すぐ研究室へ連れてきて欲しい。鳴海さんには僕から連絡を入れていおくから、青柳さんは陽彩を連れてくることだけに専念して』
「了解です。直ぐに向かいます」
電話を切り、怜志のアウターで陽彩を包み込む。ぐったりとして、目を閉じている。額から汗の粒が流れていく。そっと丁寧に横抱きにして車に運び、後部座席に寝かせた。
「陽彩、頑張れ」呟き、車を走らせる。スピードを上げたいが、陽彩が寝ている。なるべく揺らさないように、座席から落ちないようにバックミラーで確認しながら向かった。
何故、研究室なのかは想像もつかない。伊角が病院で患者を持っているとは聞いたことがない。それとも陽彩の幼少期には病院にいたとか? いや、それも聞いていない。それなら伊角からではなくとも鶴見か要から聞くはずだ。
そして伊角もまた、陽彩が怜志と一緒にいることに疑念を抱いていたのは明らかだった。
鳴海にしてもそうだ。あれだけ狼狽えていたにも拘らず、怜志が伊角を知っていると言った側から僅かに戸惑う間があった。
「何かを、隠しているのか……」鳴海まで? そこが気に触る。正直、伊角だけなら怜志には教えられないことくらいあっても可笑しくはない。けれど、鳴海は陽彩を預けるくらいには怜志を信頼しているのではなかったのか。気付けば下唇を強く噛み締めていた。ハンドルを握る手にも力が込められている。
早く伊角と鳴海に話を聞きたい。ここまで来れば、きっと真実を教えてくれると信じている。
移動中、ずっとやきもきしていた。陽彩にとって、自分は少なからず必要な人間になっていると思っていた。伊角と鳴海は一体何を隠しているのだろうか。真実を聞くまで、二人を説得する心の準備はできている。クロノス総合病院の外周に沿ってぐるりと裏に周り、人気のない通行口から駐車場に入る。
伊角の指示で研究所の入り口に担架を準備させているとのことだったので、車を横付けした。そこには伊角と数人の看護師の服装をした男女が待ち構えていた。
「陽彩は後部座席です」
窓を開けて叫び、ドアを開けた。
「運んで」伊角の一言で看護師たちが担架に陽彩を移動させた。伊角も一緒に屋内に入っていく。
怜志は車を停め、走って伊角の後を追ったが、廊下には既にもぬけの殻だった。
「はぁ……はぁ……」
息切れを起こし、呆然と立ち尽くす。この長く続く廊下の奥、どこかに陽彩は運びこまれたと思われた。陽彩に負けないほど、怜志も汗をかいていた。袖で額を拭い、ゆっくりと注意深く歩いていく。
いつもは伊角たちの研究室までしか入ったことがなかった。けれどその奥にもドアは沢山並んでいるし、合間にエレベーターだってある。
「……陽彩」呟くと、背後でまた別の人の気配を感じた。
「青柳さん!!」
振り返ると、入ってきたのは鳴海だった。




