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第十二話

 大学の夏休みは八月、九月とほぼ丸々二ヶ月間の休みで、減っていく通帳の預金残高に頭を悩ませていたわたしはここぞとばかりにバイトを入れようと思った。

 いつものバイトに加えて短期バイトを入れる。時給の高さに夜勤バイトも入れようかと思うけれどそれはダンにめずらしく強めに反対されやめておく。

「夜勤なんて女の子がするもんじゃないよ」

 ダンが何気なく口にしたその言葉に少し引っかかりを感じるけれど、まあそういうものかと自分をなだめる。

 八月の半ばにカクテル同好会の夏合宿が二泊三日であるのだけれど、それは会費が四万円らしく、行くのを諦めた。

「うちのサークル人数少ないから、大人数での割引とか効かなくてどうしても高くなっちゃうんだよね」

 それを知ったオサジは、残念そうにしていた。

 偶然その場にいたユズカも、

「えー、スイ来れないんだ。残念。じゃあ参加するのは、ジュンさん、オサジ、……、……ちゃん、……くん、わたし、……」と言って、それをスマホにメモしていた。

 ユズカはサークルの細かな事務作業を厭わず率先してやってくれていて、ジュンさんとオサジもサークルの運営上とても助かっているようだった。

 ユズカは飲みサー的なサークルにも籍を置きつつ、というより、そちらの方がメインで、その他にもいくつかのサークルに所属しており、カクテル同好会はそのうちの一つという位置付けらしかった。でも自分で作れるカクテルが増えていくのは楽しいらしく、ほぼ毎回の活動に顔を出していた。ユズカは一人暮らしだけれど、特にバイトなどはしていないようで、いわゆる兼サーという、複数のサークル活動に熱心に参加していて、大学生活というものを存分に楽しんでいるように見えた。

 ユズカとは住んでいる路線が一緒で、ユズカの方がわたしよりも数駅都心の方に住んでいた。だからダンと出かけたり一緒に帰ったりする様子を何度かユズカから遠目に目撃されていた。

 その日は珍しくサークルの定例会後の飲み会にユズカが参加せずに、わたしと帰りが一緒になって、とうとう二人になった電車内で、「あの最近よく二人でいる人、あれ誰???」と聞かれる。

「付き合ってる人」

「え!やっぱそうなんだ」

「スイってオサジと最初付き合ってるのかと思ってた」

「そう?友達だよ」

「そっかぁ、すごい仲良さそうに見えたから。付き合ってる彼は何してる人なの?」

「学生」

「どこ大?」

「他大学、」

「そうなんだ……」

「ってかわたしの話よりも、ユズカはそういえば例の彼とはどうなったの?」

 ユズカはわたしの話もまだ気になる様子だったけれど、それよりももっと自分の話が溢れ出しそうな状態でもあったみたいで、意中の彼との話を始めた。

「この前二人で飲み行って、それでもういろいろあったんだよ」

「えー、そうなんだ」

「そうそう、スイ、リュクスってお店知ってる?」

「なにそれ、」

「最近オープンしたお店なんだけど、すごい人気で」

「あー!あの、お店の壁画みたいなところでみんな写真撮ってインスタにあげてるとこの?」

「そうなの!そこの予約取ってくれてて」

「すごいじゃん、いいなあ」

「そう、ほんと楽しかったの」

「いい感じじゃん!」

「そうかなぁ」

「そうでしょ……」

 ここで、ユズカの最寄り駅に到着するけれど、ユズカは降りようとしなかった。

「ちょっとスイの最寄りまで乗って引き返す」と言って、話を続けた。

 そしてユズカは意中の彼との悩み事について話し出す。

 でも別にアドバイスなんかを求められているわけでは決してないのだろうと、特に内容のあることは何も言わず、聞き役に徹した。

 どっと疲れが押し寄せて、これで何を得られるんだろう?と思った。自分を犠牲にして、自分は何を守っているのだろう?と思った。

 アヤだったらこういう話に関してはきっと早めに切り上げているんじゃないかと思った。

 ユズカは彼との悩み事の形をした惚気話を熱心に一通り話し終わって、一呼吸つくくらいのときに、わたしの最寄り駅へ到着した。

 ユズカはまだ話し足りないといった様子だったけれどわたしは「じゃあ、また話聞かせてね!」と言って、下車した。




 わたしのダンとバイトばかりの夏休みが終わろうとしていた頃、アヤにご飯に誘われる。

「アヤ、後期って何曜日大学行くの?」

 わたしは後期もアヤと定期的に会えたらいいなと思い、アヤが大学に行く曜日を尋ねる。

 アヤのこちらを見つめる大きな瞳が少し潤んだ。

「ずっと言わなきゃと思ってたんだけど、私休学することにしたの」

「え……、休学……?どうして?」

「あの……、私前にも話したことあると思うんだけど、動物関連の道に進みたかったなって思ってて、それでやっぱり獣医師を目指そうと思って、獣医学部を再受験しようと思うの。で、私理系科目を受験で使ったことないし、でもできたら国立大学の獣医学部に入りたくって、そうなると今の大学入るのに使った英・国・社以外に、結構新たに受験勉強しなきゃいけなくて、多分数学なんて数IAから復習しなきゃだし……、だから今の大学の授業受けながら再受験の勉強もしていくのは時間的にもモチベーション的にも難しいかなぁって思って、休学することにしたんだ。あっ、でも正式には休学じゃなくて、学費もまるまるかかっちゃって、そのまま放置って形になっちゃうんだけど……、だから仮面浪人ってことになるのかな、多分。なんか事務に問い合わせたらうちの大学では再受験での休学は現状認められないんだって」

「そうなんだ……」

 初めて聞く、仮面浪人や再受験という言葉を頭の中で反芻する。

「そうなの、でも休学しちゃうけど、スイとはこれからもこういう風にご飯行ったりできたらいいな」

「それはもちろんだよ。休学して、そのー、塾とかに入るってこと?」

「そうそう、また予備校入るんだ」

「そうなんだぁ」

 そういえばこの前オサジも後期から予備校に入ると言っていたなぁと思い出す。専門性なくサラリーマンをやっていける自信がないから、と親の勧めもあり公認会計士の資格取得を目指すのだそうだった。

 そのあといつものように他愛のない話をした。けれどどこか落ち着かなかった。アヤがアイスティーの下に敷いた薄くて白い紙ナプキンが水滴で湿り切っていた。


 その日は久しぶりにダンの家ではなく、自分の家に帰った。

 外階段を一段登るたびに金属がうるさく音を立てて、腹立たしく思った。家のドアを開けると、先週服を取りに入ってから換気をしていない室内は、築30年ほどのこの部屋に、歴代住んできた人たちの気配を感じさせるような、他人の家のにおいがする気がした。

 窓を開けて換気をしようとすると、ベランダにそのままにしていた入学式用に買った黒いバッグの存在が目に入った。

 梅雨の雨と真夏の暑さをベランダで越した合皮のバッグは、心のどこかでそう期待していたほど傷んではいなかった。

 そういえば、買ったときについていた商品タグに《撥水加工》と書かれていたことを思い出して、その計らいにも腹が立った。

 未だに当初の形状と質感を保持して、圧力を滲ませるそのバッグを、わたしはもう捨てようと思った。

 キッチンのシンク下の棚からゴミ袋を一枚取り出して、カバンを中に入れ、袋の口を固く何重にも縛る。念のため袋も二重にした。

 夜のうちからゴミを出しておくと一階に長年住んでいる、近隣に住む大家さんからゴミ捨て場の清掃を委託されている住人に怒られるから、誰にも目撃されないようにそっと階段を降りて、こっそりゴミ捨て場に出す。

 家に戻ると、いつのまにかずっと背負っていた荷がひとつ下りたような気がした。なんとも言い難い解放感だった。すっきりした気分のまま、いい機会だからと思い部屋の掃除を始める。

 そうして自分の家、という感じをちゃんと取り戻した室内で、この家を契約したときのことを思い出して、感慨深く思った。

 契約書の契約者本人の欄に自分の名前を書いて、自分の名義で家を借りられたことの、この世に自分が自分のままいてもいい、誰かの許可なんて要らずに生きることがゆるされている、安全で揺るぎない場所ができたことの、深い安堵の感覚を思い出した。


 日付が変わる前にはダンの家に行こうと思っていたけれど、いつの間にか寝てしまっていた。

 目が覚めると深夜1時を過ぎていて、スマホを見るとダンからの着信が何件も入っていた。

 とりあえず電話をかけると、ダンはすぐに出て「今どこ?」と聞く。

「ごめん、家で寝ちゃってた」

「え、家って隣の?」

「うん」

「どうしたの?」

「たまには掃除しないとなぁって思って、掃除してたら寝ちゃってた」

「……そっか、無事ならよかったけど」

「ごめんね、心配かけて。今からそっち行っていい?」

「いいよ、もちろん」

 外に出るとわざわざダンが下まで迎えにきていた。

「いいのに、家で待ってれば」

「いいじゃん、そんな冷たいこと言わなくても」

「冷たくないよ、風邪ひいたりしたらよくないなぁと思って」

「心配してくれてたの」

「そう」と言うと、ダンはわたしの手をぎゅっと握る。


「ねーねー、」

 セミダブルのベッドで、間接照明の薄明かりのなかわたしの右隣に寝ているダンの左腕を掴んで、天井に掲げる。筋肉の重みをずしりと感じる。

「なに?」

 ダンはそう言って、自ずから腕を上げてくれる。すっと重みが引く。

 ダンの腕のタトゥーを眺める。

「これはなんの柄なの?」

「……いまさら???」

 ダンが吹き出すように笑う。

「なに、今更って。ダメなの?」

「ダメじゃないよ。大体新しく知り合った人、初回か二回目くらいには聞いてくるんだけど、スイは全く触れてこなかったから、興味ないんだろうな、と思ってた」

「興味あるよ」

「そっか、ちょっとは俺に興味あったんだね」

「あるに決まってるじゃん、で何の柄なの?」

「なんだと思う?」

「クイズ形式やめて?」

「お願い、当ててみて」

「……くらげ」

「ちがう」

「うーん、じゃあ水流」

「惜しい」

「惜しいとかあるんだ」と笑う。

「…………静脈?」

「あ、ほぼ正解。血管。インク青だけど、特に静脈に限定してたつもりではなかった」

「そうなんだ、なんで左だけなの?」

「気に入らなかったときに自分で手直しできるかなぁと思って。俺利き手右だから」

「えっ、彫刻できるとタトゥーも自分で彫れるってこと?」

「いや、そういうわけじゃないんだけどさ」とダンが笑う。「練習重ねたらちょっとは彫れるかなーって。わかんないけど」

「手直ししたの?」

「ううん、してない。結構よく掘ってもらって気にいってる」

「よかったね、わたしもいいと思う」

 血管柄のタトゥーをあみだくじをするみたいに手の甲から腕に向かって辿っていく。

「どうして血管なの?」

「飽きないモチーフかなあって」

「ふーん、」

「うん、血管というかそれが通ってる肉体って、生きてる限り離れられないものだし、飽きるもなにもないかなぁって思って」

 ダンのタトゥーと、本物の血管の浮き出たところが重なった部分を見つけ、爪の先でぷちっとさす。

「痛っ、スイすごい爪伸びてない?爪切った方がいいよ、切ってあげようか?」

 ダンはわたしの指先を確認する。

「飽きないって大事だよね。わたしも前にタトゥー入れようかと思った時期があるんだけど、ざっくり言うと飽きそうで結局やめたんだよね。タトゥーってさ、こういう、なんていうかぱっと見なんの柄かわからないようなデザインなのってあんまり見かけなくて、なんか主張強めなのが多くない……?忘れたくないことや決意、信念を刻んだり、何らかの志向を表現したりするものが多いでしょ」

「たしかに」と言って、ダンはわたしの右腕を手にとってタトゥーが入っているところをイメージしているのか、何かを描くように指先で撫でる。

「わたし今日がさ、昨日から繋がっていて、そして明日にも繋がるって感覚がいつからかあんまりしないんだよね」と、打ち明ける。

「というのは?」ダンの手が止まる。

「うーん、自分や時間の連続性みたいなものが薄いというか、あとたまに急に途切れるの。いきなり何もかもからブツっと分断されて、たった一点に置かれてるみたいな、そういうふうに感じるときがあって、わたしは誰でここはどこ?なんでわたしは今ここにいるんだろう?って感覚に突然なるの。でも記憶や意識はちゃんとあるんだけどね。あくまでも感覚だけの話であって」

「そうなんだ……連続性……、うーん、そんなこと今まで考えたことなかったから、俺にとっては当たり前の感覚なんだろうなぁ」

「うん……多分大体の人はその感覚をあたり前に持っているんだと思う。だからわたしも、自分が過去現在未来ってちゃんと連続しているって感覚、自分の存在の連続性って言ったらいいのかな……なんか仰々しい言い方になっちゃうけど……、それをどうにかつねに実感できる方法はないかなと思って、思いついたのがタトゥーだったの。肉体が続いていることは、髪も伸びるし傷も残るしで目に見えるものがあるから、なんていうか……たしかなのかなぁ……とは思えて、そこに同じタトゥーがずっと入っていたら、その肉体の連続性が強調されて、その結果感覚の連続性も強化されるかなぁと思ったんだけど……、でもきっとどんな文言やモチーフでも今日の自分の選択を明日の自分も気に入ってくれるかと考えたら、そんな今日の自分に対する自信も、明日の自分に対する信頼も、全然なくて、逆に自分の感覚が分断されていることを強調するものになってしまうかなぁと思ってやめたの……なんか変な話しちゃったかも」

「変な話じゃないよ、スイのこと聞けてうれしいよ」

「それならよかった。言いたかったのは、ダンのその血管モチーフのデザインだったら、なんかそういう話抜きにしても単純にイケてるし、主張って感じじゃなくフラットな感じだから、どの点の自分ともうまくやっていけそうでいいなって思ったの。……わたしもそのタトゥーを入れたいって話じゃないよ?ダンに似合う本当にいいタトゥーだねってこと。ダンのタトゥーを、褒めてるんだよ」と言って、ダンの首元に顔をうずめて深呼吸する。

「ありがと」とダンは言って「……なにしてんの?」と続ける。

「いま自分はここに生きてる、って感覚を得てる」

「俺を嗅いで?」と笑う。

「そう」と言って、私も笑う。

「ずっとしててもいいよ」

「それはいい」

「そっか」

 そのあともダンと話し続けていたらカーテンの隙間から覗く空が白んできて、朝日がのぼり切る前に眠りにつき、二人して昼前に起きた。ダンもわたしもその日の大学の授業へは午後から出席した。

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