第十三話
そんなに日が経たないうちに、ダンから提案がある。
「スイ、隣の家解約してここ住んだら?」
「んー……」
「ご両親にも挨拶した方がよければするし」
「うん」
「なんか乗り気じゃない?」
「ううん、そんなことないよ」
たしかに乗り気じゃなかった。なぜだろうと思った。
ほぼ毎日ダンの家にいて、自分の家にいるよりも、ダンの家にいる方が居心地だっていいし、今契約している部屋を解約したら、その家賃の支払い分が浮いて、そのお金でわたしだってオサジやアヤのように、将来のために有意義な何かに取り組めるかもしれなかった。その分できた時間でユズカのように大学生活をめいっぱい楽しむことだってできるかもしれなかった。受けるべき提案なはずだった。
「ありがとう、そう言ってくれて。でもちょっと、考えたいかも……」
オサジから、ポンさんが留学に行く前に見送りの会をやろうと思っているのだけれど来ないかと連絡がある。
〈え、ポンさん留学しちゃうの??〉
〈あれ、聞いてなかったか。そうだよ、ドイツに半年行くんだって〉
オサジの企画回以降本人とも会えていないし、そもそも夏休みに入ってからサークルの活動や飲み会に、全然行かなくなっていたわたしには初耳で驚く。とともに、陰ながら慕っていたポンさんとこれまで以上に会えなくなってしまうことに寂しさを感じる。
〈そうなんだ……寂しいなあ ポンさんのお見送り会絶対行く!ありがとね、誘ってくれて〉
〈よかった!!!ポンさんも、サークルのみんなもスイ元気かなって話してたよ〉
〈元気げんき笑、久しぶりに会えるの楽しみにしてる!〉
同じ柄のスタンプをオサジと送り合ってやりとりを終える。
ポンさんを見送る会は、ポンさんが最近ハマっているという本格派メキシコ料理のお店で開催された。
会場のお店が地図アプリを見ても少しわかりづらいところにあって、オサジが迎えに来てくれる。メッセージでのやりとりは定期的にぽつぽつしていたけれど、久しぶりに対面して、どことなく自信がついて垢抜けた様子のオサジを目前にして、オサジと二人でカクテル同好会の新歓へ行った日のことが、もっと昔のことのように思えた。
店に入るとすでに顔ぶれは揃っていて、でもユズカの姿がなかった。あれ、ユズカは?とオサジに聞くと、ユズカは九月いっぱい実家に帰っているとのことだった。
主役のポンさんは場に合わせたのか律儀にフリンジたっぷりのポンチョを着ていて、髪色はカートゥーンネットワークに出てくる赤毛のキャラクターを実写化したようなブラッドオレンジ色に染まっていた。
「スイちゃん、ご無沙汰。元気してた?」
ジュンさんに話しかけられる。
「はい、」と答えて、ジュンさんと久しぶりに会えたのも嬉しいなと思っているものの、そのあと自分の状況を端的に説明するうまい言葉が見つからなくて、
「ジュンさんもお元気でした?」と尋ねる。
「元気よ、……僕ねバーテンのバイト始めたのよ」ジュンさんは言う。
「え!そうなんですか」
「そうなのよ、それで今日の二次会、バイト先のお店貸し切れることになったから、そこでやろうと思うんだけど、スイちゃんもどうかな?」
「行きたいです……!」
そう言うと、ジュンさんはほっとした様子で、
「ポンくんも喜ぶよ」と言った。
わたしが、ん?とえ?の間くらいの声になりきらない声で、頭にはてなマークを並べたような反応すると、
「ポンくん、スイちゃんのファンなんだって」とジュンさんが言う。
「え!ほんとですか?!それはこっちのセリフです」と返すと、
「なんだここ両想いだったのね」と、ジュンさんは笑った。
会の終わりに、みんなで記念撮影をしようということになって、片言の日本語を話す店員の男性が、店に飾ってあった本場のメキシカンハットを持ってきてくれて、ポンさんに手渡す。麦わら帽子の頭頂部を少し上に伸ばして、つばの部分をかなり横に広げたような、その特徴的な帽子をポンさんがかぶるとすごくさまになっていた。
「似合いすぎ」とあちこちから感想と笑いが沸き始める。
「この帽子、ソンブレロ・デ・チャロって言うんだよ」
ポンさんが早口言葉のように言う。
その言い方に、ジュンさんがツボに入ったらしく変な引き笑いをし始めて、それにつられてみんなが笑う。わざわざ椅子の上に立って、全体が写るようにと、上から写真を撮ってくれようとしている店員さんが「テキーラ!」と言って、シャッターを押した。
「俺はさ、ほんとに感謝してるの」
二次会の会場に移って、飲むペースを上げたオサジはまさに酔っ払いみたいな喋り方で語る。
「俺、大学入学当初、全然馴染めなくて絶望しかけてて、でもそんなときにカク同に出会えて、ほんとうによかった。やっと自分の居場所が見つかったなっていうか」と、熱っぽく話す。
「それ、僕がサークル作ったときの目標でもあったのよ、このサークルが誰かの居場所になったらいいなって」ジュンさんが言う。
その話に他のサークルメンバーも深く頷き、感動のムードが醸成され始める。そのムードの上昇、膨張に伴って、そうは共感できない自分が浮き彫りになる。ポンさんの着ているポンチョを賑わせるフリンジの、そのうちの一本が先から長い糸を垂らしてほつれているのがぼんやり気になった。
「あのとき、スイが声かけてくれて、本当によかった。ほんっっとうにありがとね」
オサジが急にこちらを直視して、わたしに向けて語りかけてくる。
反応に困った。
わたしがいま唯一居場所だと信じられるのは、強いて言うならば、あの家だと思った。人、ましてや集団を居場所として信じられるだんて、全然ピンとこなかった。誰かを好きとか、一緒にいて楽しいとか、そういう一瞬の、でも確かな気持ちと居場所という感覚との間には大きな隔たりがあるように感じた。自分はそれを乗り越えられる気がしなかった。でもそんなことを言っていい場ではないことなんて分かりきっていた。
思考を巡らそうとするけれど“居場所”という言葉が頭のなかで反響して、周りの音がくぐもって聞こえ始める。
自分の視点が、今オサジから感謝されている自分を斜め上から見下ろすような画角になってしまって、自分が自分から抜け出したように感じた。こうなったのは、そういえば大学に入ってからは初めてだと思った。
なんで今自分はここにいるんだろう、なんでわたしはこの人たちの輪のなかにいるんだろう、どうしてこの人たちはわたしを慕ってくれているんだろう、この人たちが見ているわたしは一体何なんだろう。
わたしの外側を薄い繭のような膜が覆う。
すべての感覚が、遠い。
家に帰りたいと思った。
あの、古くて狭くて、でもわたしを脅かすことのない、あの家のベッドで眠りたいと思った。そして起きたら自分が自分の中に戻ってきてくれているだろうと思った。
それからダンに触れて、そのことを確かめたいと思った。
〈終電逃したから始発乗って帰るね〉ダンへ連絡を入れて、自分の家へ帰った。あの白い猫がまたすり寄ってきて、往復で二撫でして、階段を登った。
「ただいま」
部屋に入ってひとり呟くと、昔を突然思い出してぼろぼろ涙が流れた。
悲しいわけではないつもりだった。
翌日、ダンの腕のなかくつろいでいると、メキシコ料理店で撮った賑やかな集合写真がグループLINEに届く。輝かしい青春のひと時を切り取ったような、眩しささえ感じさせる一枚だった。そこに写る、写真のなかの自分は大学生活を謳歌する、一、大学生に見えた。不思議な気持ちと、どこかもどかしさとがあった。
ダンの左手首をつかんで、脈動がとくんとくんと触れるのを感じた。
わたしたちは生きているだけで、連続している。それは事実だと思えた。それで十分なのではないかとも思った。
試しに、生き続けてみようと思った。




