第7話 少しだけ、近く
五月中旬。
朝陽は、いつものように朝練が始まる少し前に体育館へ向かっていた。
毎朝交わす「おはよう」が、いつの間にか当たり前になっている。
その当たり前が、朝陽にとっては何よりもうれしかった。
「おはようございます」
「おはよう、朝陽くん」
今日も葵は笑顔で返してくれる。
「最近、朝の挨拶が日課になったね」
「……そうですね」
照れながら返事をすると、葵は少し楽しそうに笑った。
「そのうち私が寝坊したら、朝陽くんに心配されちゃうかな」
「そ、それは……」
「ふふっ、冗談」
こんな何気ないやり取りができるようになった。
少しだけ。
本当に少しだけ、距離が縮まった気がする。
◇
昼休み。
朝陽と結翔、それに榊原凪は中庭のベンチで昼食を広げていた。
「朝陽」
凪がサンドイッチを食べながら言う。
「最近、部活楽しいか?」
「うん、すごく」
「それだけか?」
「え?」
「男子バスケ部だけじゃないだろ」
結翔が吹き出す。
「やっぱり分かる?」
「分からないほうがおかしい」
凪は冷静に続ける。
「朝陽は硯先輩が近くにいるだけで表情が変わる」
「そんなに?」
「そんなに」
二人同時に言われ、朝陽は頭を抱えた。
「俺、分かりやすいのかな……」
「安心しろ」
結翔が肩を叩く。
「硯先輩は気づいてない……たぶん」
「その”たぶん”が怖いんだけど」
三人で笑い合う。
こんな時間も、高校生活らしくて心地よかった。
◇
放課後。
男女合同で基礎体力トレーニングを行う日だった。
体育館の外周を走り、最後は校庭まで続くランニング。
葵は女子の先頭。
朝陽は男子一年生の先頭を任される。
「朝陽、ペースいいぞ!」
一ノ瀬の声が飛ぶ。
「はい!」
その直後。
「朝陽くん!」
横から聞こえた声に振り向く。
ちょうど女子の列と並ぶ位置に葵がいた。
「無理して飛ばしすぎないでね!」
「はい!」
「最後まで走り切ることが一番だから!」
「分かりました!」
ほんの数秒。
それだけの会話だった。
でも、不思議と足取りが軽くなる。
その様子を見ていた結翔が、小声で笑った。
「先輩に応援されたら元気百倍だな」
「……否定できない」
◇
練習が終わり、体育館のモップ掛けをしていると、女子部も同じタイミングで片付けを始めていた。
モップを器具庫へ戻そうとした朝陽の前に、葵が立つ。
「朝陽くん」
「はい」
「ちょっとお願いしてもいい?」
「もちろんです」
「このボールかご、一緒に運んでくれる?」
「はい!」
二人でボールかごを持ち上げる。
「重くないですか?」
「大丈夫。でも助かる」
部室棟まで歩く数十メートル。
沈黙は不思議と気まずくなかった。
「朝陽くん」
「はい」
「入部した頃より、笑顔が増えたね」
「そうですか?」
「うん。最初はすごく緊張してたから」
「まだ緊張してます」
「え?」
「硯先輩と話すときは、特に」
言った瞬間、朝陽は「あっ」と口を押さえた。
変な意味ではない。
でも、どう聞こえただろう。
「……私?」
葵は少しだけ目を丸くしたあと、小さく笑った。
「そんなに緊張しなくても、私は怖くないよ?」
「もちろん分かってます!」
「じゃあ、もっと気軽に話してね」
その言葉が、朝陽の胸に優しく残った。
◇
【葵 side】
部室で着替えながら、今日の会話を思い返す。
『硯先輩と話すときは、特に』
あの言葉。
きっと深い意味はない。
そう思う。
でも、少しだけうれしかった。
「朝陽くん、本当に素直だよね」
私がそうつぶやくと、紬は意味ありげに笑う。
「素直な子って、応援したくなるでしょ?」
「……うん」
その返事は、驚くほど自然に出ていた。
朝陽くんは、ただの後輩。
そう思っているはずなのに。
気づけば私は、あの真っすぐな笑顔を探すようになっていた。




