第5話 部室前のベンチ
五月に入り、放課後の風は少しだけ暖かくなってきた。
朝陽は今日も練習開始より三十分早く体育館へ向かう。
コートでは三年生たちが黙々とシュートを打ち、二年生はパス練習の準備をしていた。
「おっ、朝陽。また一番乗りか」
一ノ瀬が笑う。
「はい! 早く来ると気持ちが落ち着くので」
「いい心掛けだ。その分、一本でも多く打て」
「はい!」
朝陽はボールを受け取り、リングへ向かう。
まだフォームはぎこちない。
それでも一本一本を丁寧に打ち続ける。
「ナイスシュート」
御門が声を掛けてくれた。
「ありがとうございます!」
先輩たちに認められたい。
そして――。
葵にも、少しだけでも成長したと思ってもらいたい。
その気持ちが朝陽を動かしていた。
◇
練習はあっという間に終わる。
モップ掛けを終え、部室へ向かおうとしたときだった。
「朝陽くん」
聞き慣れた声に振り向く。
「硯先輩!」
葵がタオルで汗を拭きながら近づいてくる。
「今日も最後まで残ってたね」
「まだまだ下手なので」
「そうかな?」
葵は少し首をかしげる。
「入部した日より、パスもシュートも良くなってるよ」
「本当ですか?」
「うん。本当」
その一言が、何よりもうれしかった。
見ていてくれた。
ちゃんと見ていてくれた。
「ありがとうございます!」
思わず笑顔になる。
「ふふっ」
葵もつられて笑った。
「少し休んでいかない?」
「え?」
「部室前のベンチ、空いてるし」
「は、はい!」
朝陽は緊張しながら葵の後についていく。
◇
部室棟の前。
男子と女子の部室の間にある木製のベンチ。
夕日がちょうど差し込むその場所は、思っていた以上に静かだった。
二人並んで座る。
少しだけ距離が近い。
朝陽は意識しすぎて、どこを見ればいいのか分からなかった。
「朝陽くんって、中学でもバスケしてたんだよね?」
「はい。ポイントガードでした」
「やっぱり」
「分かりました?」
「パスを出すタイミングが上手だから」
褒められるたびに照れてしまう。
「硯先輩は、いつからバスケを?」
「小学校三年生かな」
「そんなに前から!」
「お兄ちゃんの影響」
「なるほど」
話題は自然と続いた。
好きな食べ物。
得意教科。
苦手教科。
休日の過ごし方。
気づけば十分以上話していた。
「葵ー!」
遠くから紬が手を振る。
「帰ろー!」
「ごめん、呼ばれちゃった」
葵が立ち上がる。
「今日はありがとう。また話そうね」
「はい!」
朝陽は何度もうなずいた。
また話そう。
その約束が、胸の奥で何度も響く。
◇
「また話そう、か……」
帰り道。
朝陽は思わず独り言を漏らす。
「誰と?」
隣を歩く結翔がすぐに反応した。
「……硯先輩」
「やっぱり」
結翔は大きく笑う。
「お前さ、最近本当に分かりやすいぞ」
「そんなに?」
「硯先輩の話になると、顔が全部変わる」
「……そうかな」
「そう」
朝陽は少し照れながら空を見上げた。
夕焼けが広がっている。
今日の景色は、いつもより少しだけきれいに見えた。
◇
【葵 side】
部室へ荷物を取りに戻る途中、紬がにやりと笑った。
「朝陽くんと、ずいぶん話してたね」
「少しだけだよ」
「少し、ねぇ」
紬は肩をすくめる。
「あの子、葵と話せてすごくうれしそうだった」
「そうかな?」
「うん。それに葵も楽しそうだった」
その言葉に、少しだけ考える。
朝陽くんは、一緒にいて不思議と気を遣わない。
素直で、一生懸命で、話していると自然に笑ってしまう。
「いい後輩だよ」
そう答えると、紬は意味ありげに微笑んだ。
「今は、それでいいか」
その言葉の意味を、このときの葵はまだ深く考えていなかった。




