89.ぴったりと、重なり合うように
木造のあばら家と、貧乏長屋の連なる一画に、彼らの家はあった。
帝都の中でも貧民窟以上、郊外未満というような、都市外縁の一区画にあるのは、例に漏れず、隙間風もおびただしい木造のあばら家である。
そういう界隈に住んでいる者たちも、また当然のことながら、行儀の良い連中ではない。まずもって、酔っ払い以外を探す方が難しいと思われるほど、往来を占める人いきれは、皆頭から浴びたように酒の匂いを狭い通りに充満させて、喚いたり、クダを巻いたり、木陰に反吐を吐いていたりする。
酔客の財布の紐が緩むのをアテにした大道芸人が、樽の上から宙返りをキメようと意を決して飛び上がるが、元より懐にカラっ風の吹く酔っ払いの、さらに呑み明かした残りの小銭を頂戴しようというくらいのケチな了見であるからして、その腕の方もタカが知れているものと見え、盛大に尻餅をつくと、腰をさすりながら同情を誘う愛想笑いを振りまき、往来の野次を浴びる。
戸口に立たせれば魔除けにでもなりそうな、ケバケバしい化粧をした女が、胸だか尻だかを触られたというので、前歯の抜けたハゲ親父に強烈な平手打ちを喰らわせると、人だかりからわっと歓声が上がった。
そういう混沌を眺めながら、「まあ、言うて、これも俺たちが守ったモンと言えなくもないわな」とソウタが呟く。
イワオは道端に突っ伏して寝ている中年男の肩を揺すり、「おっちゃん、アカンで。こんなとこで寝はったら、風邪ひくで」と声をかけ、その男が何事かうめいたのに適当な相槌を打ってから、「もうちょい、心温まる情景でもええはずやけどな」とうなずいた。
そのあばら家の前に着くと、2人はドアを開けた。
「忘れもん無いやろな」と物陰を確認しながらイワオが言うと、ソウタがため息のようにしみじみ呟いた。
「何も無くなると案外広いな」
「大した思い入れも無いつもりやったけど、何となく物寂しくはあるな」
備え付けの椅子に腰掛け、感傷のような何かに浸ろうとした瞬間、遠慮を感じさせないノックの後で、ドアが開いた。
「完済、おめでとうございます。無事、入金が確認されました」とドアから顔を出した女が言った。『ハロワのお姉さん』こと、アンナである。
ソウタとイワオがこの世界に来た時、当然、無一文だった彼らは金を借りねばならなかった。当面の生活費と家賃である。
貨幣価値が不安定であるこの社会においては、金を貸す方も利息を高く設定しなければ取りっぱぐれのリスクを担保出来ない。まして、担保物件を一切持たない異世界人を相手にするならなおさらである。
イワオとソウタもこうした利息の高い借金の返済に苦しんできたが、このほど、『勇者』と『魔王』の間を取り持った功績が非公式ながら認められ、帝国と魔界双方から、まとまった額の金が入ったのを機に、これを借金の返済に充てたのである。
「ギルドの方は、どうだったんですか?」アンナは部屋の壁や床に傷みがないか確認しながら尋ねた。
その非公式な報償金は、『転職神殿』から借入れた分はもちろん、さらに冒険者ギルドが負担している彼らの学費3年分を返還してもさらに釣りが来るほどだった。
「いや、あのおっさん、ほんまエグいで」イワオはギルドマスターであるオリヴィエ・メシアンの鉄面皮を思い出しながら、ため息混じりに言った。
ソウタが説明する。「ギルドが学費を負担する代わりに、卒業してから最低5年間はギルドで働かなあかん契約で、その権利を買い戻す取り決めが無いねんから、こっちから金払ってもアカン言うねん」
「あぁー……なるほど。メシアンさんらしいというか……」とアンナは苦笑いをした。
「そうなん? せやったら先に教えてぇや」イワオは抗議に近い調子で言った。
「交渉ごとで彼に敵う人は、ちょっと思いつかないですね」
「まあ、ええねんけどな。どの道、これで食うていくつもりやし。かえって金浮いたわ」とイワオは言った。
「いや、気分がちゃうやん。あのおっさんに飼い殺しにされると思ったら、ごっつ気分悪ない?」
「良く言えば、気に入られてる証拠ですよ。手放したくない冒険者ってことです。お二人も冒険者さんですから、どうやって稼いだかは聞きませんけど、あれだけのお金を用意出来たわけですから、並じゃない修羅場を潜ったと思われてるんですよ」
「まあ、そういうことになるんかなぁ」とソウタは首を傾げた。
『勇者』と『魔王』の周辺に関わる様々なしがらみについては、彼らもあらかた聞かされてはいたが、正直なところ、誰のどの話もいまいちピンと来ていなかった。
かつての世界で煮えきらない生活をしていた男が、この世界に来ても煮えきらない立場に置かれたことで癇癪を起こし、厄介なスキルで暴動を企てていたところを、それぞれの思惑と行動が絶妙に噛み合って、奇跡的に事をおさめるのに成功したらしい、というのをおぼろげに認識したという程度である。
「それと、イワオさん、ご結婚おめでとう御座います」とアンナが言うので、イワオはギョッとした。
「え、何? 何で知っとんの? まだ手続きも何もしてへんねんけど」
「『勇者』と『魔王』の和解の日、大陸中に知れ渡ったじゃないですか」
「いや、知らんねんけど。どういうこと?」口調に焦りが帯びる。
「え? だってあの日、空一面を眩い光が覆って、天から、大量の引出物が……」
ソウタもこれには、他人事ながら唖然とした。「天から大量の引出物……」
ちょっと耳に馴染まない言葉だ。
「ええ。ご丁寧に、熨斗まで付いて」
「何て?」とソウタが尋ねると、アンナはさも当然のように答えた。
「そりゃあ、『寿』って」
「いや、あるの? その風習」イワオは声を上げる。
「何でイワオの話やって分かるん?」
「だって、熨斗に書いてありましたから。『ゴズ・イワオ バーバ・ヤーガ』って」
ソウタはとりあえず「中身は何やったん?」と聞いた。
「鰹節」
鰹節は、3枚におろした鰹の半身をさらに2枚におろして作られる。背側の身で作られる「雄鰹」と、腹側の身で作られる「雌鰹」が2本ぴったりと重なり合う形になることから、円満な夫婦の象徴とされ、たいへん縁起が良いのである。
「いや、俺もう、外歩かれへんねんけど……」イワオはひどく赤面した。




