87.Around the world
「仲間を、助けてくれ」と『勇者』は力無く呟いて、その場に膝をついた。
頸動脈を噛み切られた首は、イワオが魔法で回復したが、失われた血を取り戻すことが出来るわけではない。
「『勇者』の捕縛を完了した」と【烈女】ハンナ・シュバルツは報告した。相手は帝国ではなく、【ヒヨコの魔王】グリンカムビである。
──「【烈女】ハンナ・シュバルツ以下、精鋭たちに最大限の賛辞と謝意を表する」──
『勇者』の額から拳1つほど前の空間が、陽炎のように歪んだと思うと、そこに1匹のヒヨコが姿を現した。
「小さいんだな……」と勇者は言った。
──「左様。余は、見ての通りちっぽけな存在だ。現在の魔界の安寧は、『魔王』によりもたらされたのではない。魔族たちの不断の努力と、帝国との友好によりもたらされておるのだ」──
「“俺”にはそれが、我慢ならない……」
──「それは、其方が『宿命』に取り憑かれておるからだ。其方自身が、『宿命』というものに魅入られておる」──
「それの、何がいけないというのか」
──「其方の生きる意味は、其方が自ら見出さなければならぬ。この世に神がいたとして、それが我らに『宿命』を与えたとして、その『宿命』に従うか否かも自分で選べぬとすれば、人生はつまらぬ」──
「“俺”は、自ら、『宿命』を受け入れることを選んだのだ! これがなければ、“俺”には何も無い!」
──「其方の怒りの源は、自分自身の存在に意味を見出せなかったことなのであろう。だから、『宿命』に縋り付いた」──
「知った風な口をきくな!」勇者は叫んでから、目眩を感じて項垂れた。
────彼は孤独だった。
とは言っても、同情すべき家庭の事情があったわけでもなければ、熾烈ないじめに遭ったわけでもない。ただ、周りの空気に馴染むことが出来ず、彼の言葉や行動のテンポが、周囲のそれと微妙に噛み合わなかったというだけに過ぎない。
例えば、クラスメートが昨日のバラエティ番組の話をしている。彼もそれに加わろうと、少しでも印象に残るような発言をするためにあれこれと考えを廻らせ、一言を放つ。それは彼の考え得る限り最大限のウィットと示唆を含んだ、渾身の一言であるが、クラスメートの会話は、すでに次のトピックに移り変わっている。そういう具合である。
彼のクラスメートは、多くの場合、冷淡ではなかった。拍子外れの彼の言葉にも、一応の相槌を打ち、時には話題を戻しさえした。
しかし、クラスメートたちの引きつった愛想笑いに、善人であろうとする努力の影を見る時、彼は言い知れぬ孤独感を感じるのである。
このような、わずかな噛み合わせの齟齬は、彼と世界を、緩やかなスピードで、しかし確実に隔てていった。
自分は誰からも必要とされておらず、誰からも憎まれていない。
むしろ、誰かが悪人であってくれたなら、そして自分を虐げてくれたなら、どれほど良かっただろうと思いさえした。
そうすれば、少なくとも自分は誰かを憎むことが出来る。ことによれば戦うことさえ出来たかもしれない。
しかし、かつての世界における彼の人生に、そうした戦いの機会はついぞ訪れなかった。
そこそこの進学校からそこそこの大学へ進み、常識的な採用面談に何度か失敗した挙句たどり着いた町工場での退屈な業務に辟易し、彼が退職を申し出た時でさえ、職場は円満な態度で彼を送り出した。
明日からもその工場は、彼がそこに存在したという事実さえ初めからなかったように回っていくのだ。
自分はこの世界の何にも結びついておらず、どことも噛み合っていない。
新たな世界で目を覚ましたとき、彼はかつての記憶を失ったわけではなかった。しかし、かつての人生について、彼は語るべき物語を持ってはいなかった。
そういうことを鑑みれば、この世界で、自身が『勇者』であると告げられた時の彼の興奮は、推して知るべしというものである。
そして、この平和な世界に、『魔王』との戦いは必要でないと聞かされた時の落胆も。
かつての世界から比べれば、古代や中世と呼べるような、この未発達な世界でさえ、自分を含まずに完結していたのである。
しかし、彼は、諦めなかった。そして、彼に与えられた力は、そういう彼の意志を強く後押しした。
今度こそは、この世界に爪痕を残す。例えそれが、誰からも望まれぬことであったとしても……。
────「俺は、自分という歯車に噛み合って、世界が回るのを見たかった……」
勇者がそう漏らした時、ソウタとイワオは目を見合わせた。そして、大きく頷いた。
「お前が言うた言葉で、初めて納得したわ。同情はせんけどな」イワオはバーバ・ヤーガの肩を抱いて言った。
「殺せ。俺のいない世界を、明日も回していくがいい」
──「其方は魔界に仇なした罪人である。其方の処遇はもはや、其方の決めることではない」──
『魔王』の声が響くと、勇者は自嘲気味に笑った。
「ならば、どうとでもしろ。幽閉でも拷問でもな」
──「『魔王』の在任する間、魔界に法は無い。『魔王』が法そのものとなる。当代『魔王』グリンカムビの名において、罪人『勇者』と、その一党に申し渡す。其の方らは、この魔界において、田畑を耕し、子をなして天寿を全うせよ。
これはあくまで勇者が魔界において犯した軽微な罪に対する刑罰であり、元より双方の間に争いは無かった。
其方が弾丸に加工した『聖剣』デュランダルと、余の所有する『魔剣』ダインスレイブは共に鋳溶かして平和を象徴する像か何かに加工し、これを以て、『魔王』と『勇者』は和解をみたものとする」──
「俺がそれに納得するとでも?」と勇者は嘲るように吐き捨てた。
──「『聖剣』はすでに押収された。其方には余を害する手段が無い。そして、余も、其方を害する手段を手放す。戦いたければそれも良かろう。だが、永遠に決着はつかぬ」──
「ソウタに噛まれて死にかけとったやん」とイワオは素朴な疑問を口にした。
──「『勇者』はあれしきのことでは死なぬ。一般にはあまり知られておらぬことだが、死に瀕すると教会に転送され、完治して目を覚ます。『勇者』を殺すことが出来るのは、魔王の剣ダインスレイブか、寿命だけだ。そういう風に出来ておる」──
「どういう仕組みやねん」
「ていうか、流石に甘ない?」とソウタは尋ねた。
──「『勇者』は仲間を思いやる心を残しておった。そうでなければ殺していた。
そして、魔界は今、食料自給率の増加と、魔界産農作物のブランド化に取り組んでおる。従って、就農人口の増加が急務である」──
「今更、畑など……」と勇者は呟いたが、病に伏せっていた彼の仲間の1人(ソウタたちがコミューンに足を踏み入れた時に突っかかってきた、ならず者風の若い男である)が、喘ぎ喘ぎ呟いた。
「やろうぜ……。俺は、アンタに拾われて……、生きていることを……実感出来た……。アンタと同じ……多分、何でも良かったんだ……、誰かに必要とされて、何かを成し遂げたかっただけだ……」
『勇者』は諦念めいたため息を吐くと、小さく頷いて、それから、「もう一度頼む……。仲間を、助けてくれ」と請うた。
【烈女】ハンナ・シュバルツが手を挙げて合図を出すと、彼女の側の地面に水溜りのような黒い影がさし、そこから這い出るように、パミーナが現れたが、その目は暗い輝きをたたえ、頬がわずかに赤らんでいた。その複雑な表情は、焦っているようにも、喜んでいるようにも見えた。
「あの……ごめんなさい、それが、上手く出来なくて……」




