86. Whatever happened to humanity?
ソウタの脾腹を勇者の剣が貫いた。口の端から黒血が滴って、暁の空がおぼろげに照らす地面に、斑々としみを作った。
「鬱陶しいスキルだ。痛みも恐怖も感じないのか。だが、多少底上げしたところで……」勇者が吐き捨てるように言うのも聞かず、ソウタは自らの腹に突き立った刃を掴むと、さらに深くへとそれを突き刺した。
「何を……」と怯む勇者の首に、ソウタは噛み付いた。
勇者はこれを振り解こうと激しく身を捩ったが、イワオの魔法と自身のスキルで強化されたソウタの顎は、その喉笛を捉えて放さない。
勇者の仲間たちが加勢に加わろうと身構えるが、その横で、突然皮膚に膿疱をつくり、苦しみ悶える病に、1人、また1人と倒れ、足並みが揃わない。
「すまん、バーバ・ヤーガ。俺が間違っとった。俺の覚悟が半端やったばっかりに、痛い思いさせてもうて」イワオは抱きかかえていたバーバ・ヤーガを静かに地面に横たえると、戦斧を握り直して立ち上がった。「ソウタ、とどめは俺に譲れ」
しかし、その声は我を失ったソウタには届かなかった。
勇者と2人、もつれ合いながら、地べたを転げ回る間にも、ソウタの顎は勇者の喉笛を離さず、ついには、低い唸り声と共に勇者の首の肉を噛みちぎった。
勇者は苦鳴を漏らして噛まれた首を押さえたが、そこからは止めどなく血が溢れて地面に垂れた。
「お前、自分が【烈女】ハンナ・シュバルツと同等や言うたな。勘違い野郎が。全然やわ。
確かに、剣を振る力は同じくらいやったかもしらん。けど、教官やったら相手の腹刺したくらいで油断せえへん。
お前、自分より強いやつと戦ったこと無いねやろ。なんか、そういう打たれ弱さを感じるわ」
「黙れよ……!」と勇者はイワオを睨む。
「俺らは、大した思想なんか持ってへんわ。覚悟も足らんかった。けど、それでもまだ、仲間に殺しなんかさせたないっちゅう意志がある。お前、結局スッカスカやねん。それだけなら別に構へん。けど、他人を巻き込み過ぎやろ」
「お前に、“私”の何が分かる!」
「分からへんな。言うてることが全部、カラッカラのひゅるひゅるやねん。けど、結局、分かるまで話し合えば、なんとか出来るっちゅう考え自体が、間違っとったんやな。
状況もごちゃごちゃで、何が起きとんのかよう分からんけど、もうええわ。俺の連れと、女の腹刺した落とし前つけさしてもらうで」
イワオが戦斧を大上段み振りかぶったその時である。
「そこまでだ!」不意に野太い女の怒鳴り声が聞こえて、その場にいた全員が凍りついたように動きを止めた。
手を止めたイワオが声の方へ目をやると、そこにいたのは、甲冑に身を包んだ大柄な女だった。
「教官……?」イワオは呆然と呟いた。
「お前たちが戦いを止めようとしていたことなど、この俺が気付かんと思ったか」【烈女】ハンナ・シュバルツはイワオを睨みつけながら厳しく言い放つと、その声に反応して飛びかかったソウタの腕を掴み、捻り上げた。
ソウタは言葉にならない声を一声高くあげて、掴まれた腕の関節も顧みず、教官に噛み付く。
教官は自ら腕を差し出し、前腕をソウタに噛ませた。
「勇者よ。いいザマだな。こんな可愛らしい顎に喉笛を噛みちぎられるとは。首の筋肉を鍛えんからそうなる」
「【烈女】ハンナ・シュバルツ、あの時、お前を殺しておくべきだった」勇者は忌々しげに呟いた。
「出来もせんことを言ったところで反省にならんだろ」
「撃て!」と勇者は叫んだが、それに応えるものは、暁の空を抜けて返ってくる残響以外に何もなかった。
「これのことを言ってるのか?」そう言って教官の陰から顔を出したフィガロの手には、フリントロック式のマスケット銃が一丁握られている。
「お前、さも自分が戦って奪い取った風の雰囲気出してんじゃねえよ」と横合からドラベッラが抗議した。
フィガロはそれに対して何か反論しようと口を開きかけたが、途中でやめて、代わりに、イワオに向かって告げた。「安心しろよ。俺らはまだ、誰も殺してない」
「バーバ・ヤーガが……」混乱するイワオの口から、辛うじて出た言葉はそれだけだった。
「ああ、一刻を争うな」と教官は頷くと、自分の前腕に執念く噛み付いているソウタをその腕ごと持ち上げて、残った片手でしたたか頬を打った。
「そこは、優しさで手懐ける感じじゃ……」フィガロが気の毒そうにソウタの顔を覗き込んだ。
地面に尻餅をついたソウタは、はっと我にかえり、「何が……どうなってん……?」とキョロキョロ辺りを見回す。腹の傷はイワオのかけた魔法ですでに閉じかけていた。
教官はソウタの襟ぐりを引っ掴んで立たせると、高らかに叫んだ。
「端的に言う! 投降せよ! 我が方の魔道士が疫病をばら撒いた。魔法によって作られた黒死病だ。これを解除出来るのはその魔道士だけ。こちらは【冬の魔女】が瀕死だが、我々の到着で治療の目処は立つ。一方そちらはおよそ3分の1から半分が、日が昇り切るまでには死ぬだろう。勇者は頸動脈を噛み切られた。
決断するまで何人死ぬか、こちらはゆっくり見物させてもらおうか」
「治療の目処……それは、ホンマですか?」イワオがすがるように尋ねると、教官はうなずいた。バーバ・ヤーガの方を見ると、横たわる彼女のそばにはすでに、【薬師】ジェミマの姿があった。
「もう大丈夫。魔法じゃなく、肉体の治癒力を高めて傷を治す傷薬を塗った」
「これは、禁薬だな」とバーバ・ヤーガは尋ねた。
「とても貴重な薬」ジェミマははぐらかすように答えた。
「何にせよ、助かった。後で褒美をとらす」
「マタタビがいいわ」とジェミマが言うと、バーバ・ヤーガは笑った。
「よかろう。我が領地にマタタビのよく生る一角がある。山ごとくれてやる」
ジェミマは喉を鳴らした。
イワオは安堵のあまり戦斧を取り落とし、それに伴って、ふっと湧いた疑問を、ほとんどため息のように尋ねた。「いや……何でここに……?」
「パミーナはお前たちの雑嚢に、『疫病ネズミ』を仕込んでいた。これによって、お前たちの位置を捕捉出来たわけだ。その上で敵地に疫病を撒いた。我々『別班』には、あらかじめ抗体を付与することで、感染を予防出来る。これはかなり便利な魔法だな。
パミーナの魔力は今、ちょっととんでもないことになっている。今回作戦を実行するにあたり、少々無茶をしてもらわねばならなかったのでな、嫉妬を煽ったが、少々やり過ぎたようだ」
「いや、嫉妬煽るって、何言わはったんすか……」とソウタが恐る恐る尋ねた。
「お前がアレの時、私の右の乳ばかりを吸うとか、まあ、そういう話だ」教官は臆面もなく言い放った。
「嘘やん! なんでそういう事言うてまうんすか!」
「可哀想すぎるやん……」とイワオは心底同情した。好きな相手のクセを、その恋人から聞かされるというのはどういう気分なのか、想像するだけでも怖気が走る。
「だがお陰で、南北両大陸の各地で起きていた暴動はほとんど沈静した」
「え……まさか……」イワオは耳を疑う。
「『疫病ネズミ』は両大陸の全土にばら撒かれた。今この地は未曾有のパンデミックに震撼している。暴動などしている場合じゃない」
「悪魔が……!」と勇者が呟いた。
イワオは思わず同意した。
「もう、終わりだ」と教官は言った。
イワオは自分とソウタにかけた『超回復』の魔法を解除すると、首を傾げた。この場合、一番の悪党は誰になるのだろうか。




