85.iNSanE
「『超回復』……」イワオは、自らとソウタに魔法を施した。心臓が一拍強く脈打ち、筋肉の引き攣れと共に骨が軋む。
彼が扱えるようになった魔法は、結局、回復と防壁の2つきりだった。致命的に才能が無かったのだ。
しかし、生きる限りはそれでも戦い続けなければならない。
彼の唱えた魔法は、強化魔法ではない。あくまで回復魔法である。元来、回復魔法とは、傷ついた部位の細胞分裂を魔力で強制的に促すものである。では、傷ついていない筋肉に対して回復魔法を施せば、筋細胞を増殖させて肉体を強化出来るのではないか。
イワオのこの発想は、ある面では正しかった。致命傷になり得る深い傷でさえ、ほんの数分で完治させる速度で、筋細胞を増殖させ、身体能力の飛躍的な向上を得ることが出来る。
ただし、本来分裂すべきでない細胞が、野放図に分裂することによって引き起こされる疾病は、彼らが元居た世界では、極めてポピュラーだった。そのような細胞集団を、こう呼ぶ。
──『悪性腫瘍』すなわち、『癌』──
「早よ勝負決めや。身体保たんで」とイワオが釘を刺すと、ソウタは振り向くなり笑った。
「ダサっ! お前、鼻血出とんで」
「お前も出とるわ」イワオはソウタの顔を指す。
「嘘やん」とソウタが右の鼻の穴を指で押さえると、今度は左の鼻の穴から鼻血が一筋垂れ落ちた。「何でやねん」
「もうええわお前。早よ行けや」
「上手いこと、避けてくれや」ソウタはそう言うと、腰に提げた鞘から剣を抜き払い、大きく息を吸い込んで呟いた。「『狂気』……」
ソウタの発動させたこのスキルは、飛躍的な戦闘能力の向上と引き換えに自我を失う『狂戦士』唯一の任意発動型スキルである。これは通常、常時発動型スキルである『痛覚鈍化』と共に、『狂戦士』へのジョブチェンジと同時に獲得するものであるが、ソウタがこのスキルを獲得したのはつい最近のことだった。彼もまた、壊滅的に才能が無かったためである。
ソウタは勇者目掛けて手にした剣を投げつけた。
(お前、何しとんねん! 素手で戦うんか!)とイワオが思うよりも速く、勇者は投げ付けられた剣を叩き落としたが、その先にはすでにソウタが滑り込んでいた。
地面を跳ねる剣の刃を素手で掴んで、鍔を叩きつける。勇者は身を翻してこれを躱すと、獣のように唸るソウタを蹴飛ばした。
天幕の柱が倒れて覆いかぶさる幕体を、イワオは戦斧で裂き、外へ出た。「ソウタお前、ムチャクチャやがな」
周囲を見渡す。敵には銃を持った者がいるはずだ。
「撃つな! その弾丸は貴重だ!」と勇者は叫んだ。
地面を転がったソウタは、血の滴る拳を握り、獣のように唸ってから、何かを呟き始めた。
イワオはソウタの呟きに耳を澄ます。
「……スーパー玉出のお寿司は辛い……わさびゴツ盛りやねんかぁ……オバハン……牛乳奥から取らはんの?……手前の牛乳どないなんねん……」
「お前、狂い方ダッサ! 玉出でワンカップ買うてるおっさんみたいなってもうてるやん」そう言いつつ、ソウタに斬ってかかる勇者の前に立ちはだかり、その剣を戦斧で受ける。
しかし、勇者の膂力は魔法で強化したイワオの筋力をもさらに上回り、交わる剣の刃が徐々にイワオの肩口に食い込みはじめた。
「イワオさん! さっきの、もう一度言って!」とバーバ・ヤーガが叫んだ。
「何? さっきのって!」勇者の刃が肩の皮膚を裂いていくのを感じながら、イワオは聞き返した。「今ギリッギリやねんけど!」
「さっき、妾に言ったことを!」
「嫌やわ! 何で2回言わすねん! あんなん、キメ台詞のつもりで言うたやんけ。もっかい言えて言われてる時点でハズいわ!」
背後でソウタがけたたましく嗤った。「ギャハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
「何笑てんねん!」
イワオが叫ぶのに構わず、ソウタは腰の剣帯を引きちぎり、そこに差してあった剣の鞘を握った。「俺は、プロ野球選手に、なるねん!」
「お前野球のルール知らんやん」
周囲には、勇者の仲間たちが遠巻きに、しかし、事によればすぐにでも加勢しようと身構えて、こちらに睨みをきかせている。
ソウタは出し抜けに、手に持った鞘をその内の1人(それはコミューンで最初に会った中年の男だった)に投げつけた。鞘は現実離れした速度で一直線に男の頭を打つと、倒れる男と共に地面に落ちた。
「せやから、何で投げるねん! そっちやないし! せめてバットとして使えやアホ!」と苦言を吐く間にも、勇者の剣が肩に深く沈み込んでいく。「アカン! これほんまアカン!」
この時横合から不意に、黒いローブの裾を翻して、勇者に掴みかかる者が無かったとすれば、イワオはここであえない最後を遂げていたのに相違ない。
当代で最も古く、生ける神のごとく畏敬を集める【冬の魔女】バーバ・ヤーガは、その魔法の力に依らず、威厳も体面もかなぐり捨てて、掴みかかったのである。
魔法がなければ、彼女は健康でやや大柄ではあるものの、普通一般の女に過ぎない。しかし、勇者もこれには不意を突かれたと見え、バランスを崩してよろめいた。
肩に食い込んだ刃が抜けると、イワオはものの拍子に尻もちをついたが、すぐに立ち上がって、猛烈な掴み合いを演じるバーバ・ヤーガと勇者の間に割って入ろうと駆け寄る。
が、その時、バーバ・ヤーガの身体が一拍脈打つように仰反ると、そのまま地面にうずくまった。
イワオは横なぎに戦斧を振るい、勇者を飛び退かせると、そのまま覆いかぶさるようにバーバ・ヤーガに駆け寄った。
彼女の脇腹に、一本の短刀が深く突き立っている。
「おい! 嘘やろ!」イワオは堪らず声を上げる。
彼女は低く呻吟の声を漏らしながら、喘ぎ喘ぎ、イワオの頬に手を触れた。
ソウタが勇者に飛びかかって行くのを、イワオは横目に見た。
不意に、彼らを取り巻いていた勇者の仲間たちの中から、悲鳴が上がった。彼らの内の何名かが、前触れもなく苦しみだし、バタバタと倒れ始めたからである。
倒れた者の手は、赤黒く腫れ上がっていた。
「黒死病……」と誰かが呟いた。




