第3話 北端の旗だけが逆を向く
古い星図の道筋と、広場に残った旗の流れが正反対を指す。
紙筒を机に戻すと、巻き癖が残り、端は机から浮いている。ガルンさんが石を置き、図の北を鐘広場の外壁に掛けた星図板の北へ合わせる。青墨の線は、空白の帯を避けるように町の北端へ伸びていた。
物置の戸口から外を見る。赤い旗は、まだ全部は結び直されていない。広場の低い位置に戻された二本が、どちらも南へたなびく。紙片が石畳を這っていった。
「星図の線は北です。旗は南を向いている。どこで流れが割れたんでしょう」
「旗は今の風だ。星図は星の場所を写したものだろう」
「じゃあ、線は道じゃないの?」
トトの問いに、ガルンさんは鍵を腰へ戻す。古い星図には説明書きがない。点と線、それに削られた帯だけだ。絵を見ても、何のための線かは決められない。
「外の星図板と重ねれば、どこを指すのか分かるかもしれません」
「行くなら旗を触るな。結び直したばかりだ」
ガルンさんは私より先に小物置を出た。私は古図を紙筒に納め、トトと続く。鐘広場では祭り客が、倒れた屋台を起こしたり、濡れた布を広げたりしていた。焼き菓子の籠は机の脚に結ばれ、風車を持つ子どもたちは石柱の内側に集まっている。
星図板は鐘楼の外壁に戻されていた。青い点を古図に重ねる。北端の角にだけ、細い三本線が集まっていた。銀星の裏に刻まれた印と似ている。線は鐘楼から北へ出て、石段の先で途切れている。
赤旗は広場の低い柱へ結び直されていた。どちらも南向き。けれど、鐘楼の北階段を上ると、踊り場の旗が一度だけ反対へ引かれた。風の向きが入れ替わったのかと思って足を止める。もう一度見ると、下の旗は南へ、上の旗は北へ傾いていた。広場の上では雲の表面が東へ流れているのに、鳥返し棚へ続く細い影だけは北へ走り、旗と同じ向きを崩さない。
「ガルンさん、余った赤布はありますか」
「飾りの切れ端ならある。旗の結び目は外すなよ」
彼が差し出したのは、手のひらより少し長い布だった。先端には白い縫い糸が一本残っている。私は石段の手すり脇にしゃがみ、布を膝の高さでつまんだ。先が南へ伸びる。
次は胸の高さ。布の先が持ち上がり、斜めに揺れた。頭の上へ腕を伸ばすと、指先を引かれる。北へ。踊り場の旗と同じ方向だ。
布を離して、石段を二段下りる。立つ位置を変えたなら、旗が向きを変えるのは場所のせいかもしれない。けれど同じ段に戻り、足をそろえたまま布を低くすると、先は南へ伸びた。胸の高さでは斜め、腕を上げると北。私は足を動かさず、布の高さだけを替える。二度目も同じ向きだった。石垣が広場を回る低い風を遮り、頭より上を通る風だけが階段の外へ抜け、北端の旗を引っ張っているらしい。
突風ではない。鐘の音も揺れない。
石段の上から吹く風と、手すりの下を抜ける風が違う。地面の赤旗は屋台の隙間から来る風に引かれ、踊り場の旗は石垣を越えてくる流れを拾っていた。布を離すと、上端がぴんと張る。そこだけ細い糸が通っているみたいに、指先を北へ引いた。
石垣の外側は、すぐ雲海へ落ちる。風の筋がどれだけ遠くまで続くのかは、ここから見えない。北階段を上り切れば旗の向きは分かるが、同じ流れに沿って進めるとは限らない。壁の縁をなぞるように、幅の狭い道が空中を走っているのかもしれない。
赤布を手すりの上から外へ、少しずつ押し出す。石垣に近い場所では北へ張り、腕一本ぶん遠ざけると、先がすとんと落ちた。階段を一段戻せば南へ折れ、踊り場ではまた北を向く。壁に沿って三歩ぶん移ると、北を向く赤布は二歩目で急に垂れた。横へ吹く風は壁際から離れられない。旗の端は、見えない道の境目を指でなぞる鉛筆みたいだ。
風は階段の外壁沿いを走っているらしい。手を伸ばす距離を数センチ変えるだけで、赤布は北を向いたり、力を失って垂れたりする。離すと落ちる。風の境目は旗そのものではなく、石段の高さに引かれた線らしい。
登攀壁では、次のホールドに手を伸ばす前に靴の置き場を決める。今回はその逆で、風の向きを見てから足を置く場所を探す。手すりの外に一段を置けば渡れるだろうか。三秒のあいだ、次の面まで届く距離を測る。けれど、一歩先に進んでも、その先の風が同じとは限らない。
「高さで向きが違う」
「ひとつ、ふたつ、みっつ。下、まんなか、上」
トトが指を折って数えた。彼の手には紙風車が残っているが、羽根は回っていない。風車は地面の風を受けているらしい。無理に空へ投げれば、昨日の赤布みたいに戻らないかもしれない。トトは手のなかで風車を握り直した。
「その紙風車も試したい?」
「これは持って帰る。持ったままなら、いいよ」
トトは手すりの内側で、風車を腰の高さに置いた。羽根は動かない。胸まで上げると、一枚だけ紙が鳴る。頭の上へ伸ばしたとき、羽根が半回転した。
トトは手首に力を入れて、風車を離さない。私は彼の指の間から、北へ引かれる紙の先を見る。風車を支える手は揺れていない。吹き飛ばすほどではないが、風の通り道がある。
すぐに追いかけようとはしなかった。踊り場から手すりの外へ腕を伸ばすと、風は指先をかすめ、壁から離れるところで消えてしまう。北向きの流れは細い。
「旗が指す道は、荷物を運ぶ道ではないな」
ガルンさんの言う通りだ。人を押し上げる強さはない。紙切れ一枚で、やっと行き先が見えた。
「でも、古図の線はここへ続いてる。星の道とは別に、風の通り道もあるんじゃないですか」
北階段の踊り場には、祭りの見張りをしていた年配の女性が、濡れた旗の結び目を締めに来た。彼女は赤布を指さす。
「その旗は昔から北へなびくよ。鳥返し棚の見張りが、朝の風を読むのに使ってる。広場の風と同じだと思うと、道を間違える」
「鳥返し棚の見張りも、この細い風を?」
「風が通るかどうか見るだけ。人が乗るもんじゃないよ」
彼女は結び目を二度引き、緩みがないのを確かめる。私も古図を開き、北端の三本線を指でなぞる。地図の細い線は、あの階段の先まで伸びている。けれど、そこから先は白紙だ。
星の印が示す道は、旗だけでは分からない。旗が示す風も、地面から見上げるだけでは届かない。ふたつを重ねたら、今まで見えなかった細い道が出てきた。
「荷物をここに置いて、先に見てくる」
トトの指が、鐘の紐を探すように動いた。
「姉ちゃん、ぼくも行く?」
「三つ数える間だけ確かめる。すぐ戻るよ」
石段の一番上で、北端の旗がもう一度、風を受けて伸びた。旗の先は鳥返し棚を向いている。私は赤布をガルンさんへ返し、荷物を石段の脇へ置く。




