第2話 順番を戻す鐘
三つ目の鐘の音が、祭りの順番を追い越したまま広場に残っていた。
鐘楼の石段を降りるとき、足を出す前に段の縁を見る。最後の十段はひとつずつ。頭の奥の揺れは引いたが、空を見上げると視線が半拍遅れた。
屋根の端では、ほどけた赤旗が石の雨樋に引っかかっていた。下から伸びる手が二つ、三つ。風が止まったあとも、祭り客は互いの肩を押さえ、拾った品を持ち主へ渡している。私は急がず石段を下りた。
トトは一番低い鐘の前で、私が降りてくるのを待っていた。紙風車は胸の前。帽子は頭に戻っている。彼は三本の鐘紐を一本ずつ指さした。
「ひとつ目から、もう一度鳴らしたい」
「三つ目は、さっき鳴らしたよ」
「風に鳴らされた音だよ。ぼくの手は紐を持ってなかった」
「ぼく、姉ちゃんと一緒に鳴らすって言ったもんね」
トトは返事のかわりに、紐を親指へ二度巻いた。ほどくのは早い。約束を忘れたわけじゃないと、私にも見える。最初の鐘を鳴らす前からずっと、第三の紐だけを見ている。
鐘のそばではガルンさんが留め金を順に確かめていた。祭り客は広場の端へ寄り、赤布や帽子を拾い集めている。焼き菓子の籠を追っていた女の子が、母親と一緒に戻ってきた。
女の子は籠を持ち上げた。
「これ、籠の底に残ってた。食べる?」
女の子が、籠から拾った小さな焼き菓子を一つ差し出す。私より先に、トトが受け取った。
「ありがとう。紙の風車は、まだ飛ぶからね」
女の子は籠の持ち手を両手で握ってから、うなずいた。
「今度は、ちゃんと持ち手をつかむ」
籠はひっくり返さずに持ち上がった。母親が横から支えて屋台の台へ戻す。祭りが終わるまで、籠は机の脚に紐で結ぶらしい。
それで十分だった。女の子は母親と屋台へ戻り、籠を机の下に置いた。さっきまで浮いていた焼き菓子は、ひっくり返った一つを除いて形が残っている。祭りの太鼓が一度鳴り、手伝いに来た人たちが屋台の脚を起こした。
「ガルンさん、三つ目から鳴らしてもいい?」
トトはもう三つ目の紐を見ている。ガルンさんは留め金を押し、鐘の腹を指の背で軽く叩いた。低い音がひとつ返る。
「待て。さっきの風で、鐘の綱が石柱に巻いた。留め金も傾いている。戻してからだ」
「ぼく、紐を結び直したよ」
「助かった。だが、結び目を見ただけでは足りん。鐘が揺れずに鳴るか、順に確かめる」
トトは三本の紐の前で、片足ずつ石畳を踏み直した。さっき浮いた時に手放さなかった風車は、紙の先が少し折れている。彼は折れ目を爪で押さえ、私が降りてくる前から鳴らす順番を頭の中で繰り返していたのだろう。
星図板の空白に印が合った場所は、まだはっきり覚えている。屋根へ戻れば、もう一度見比べられる。けれどトトの指が三本の紐を順にたどるあいだ、私の足は石畳に留まった。
「一段はもう使いません。どこが巻いていますか」
「柱の裏だ。紐を引くな。そこだけほどけ」
鐘楼の柱は石段より太く、裏側へ回ると赤い飾り紐が鐘の綱にからんでいた。風に引かれた太い綱は柱を一周し、その上から飾り紐が結び目を押さえている。どこを先に緩めるか見ずに引けば、どちらも固くなる。
「飾り紐を押さえているのは俺の仮留めだ。鐘の綱まで結んではいない」
「なら、仮留めを先にほどきます」
膝を石に寄せ、首だけ回す。結び目は表から見えないが、綱の擦れた粉が登攀壁のチョーク跡みたいに一本の線を残し、鐘のほうから伸びた跡は柱の裏を折り返して赤紐の下へ入っていた。引く向きを逆にすれば、締まる力を外せる。
登攀壁でホールドを探す時と同じだ。両手で引くと体が浮く。片手は石に押しつけ、もう片方の指だけを隙間へ差し入れた。身体を柱へ預ければ、赤紐を動かす余裕が戻る。
絡みの上を通っているのは飾り紐ではなく、鐘を鳴らす太い綱だ。私がほどく端を間違えれば、トトの手に全ての重さが移る。手のひらを石に押し当てた。
「トト、先に鐘の綱を少し持って。引かないで、たるませて」
「これくらい?」
「半分。そう、そのまま」
トトが綱を持つ間に、石の継ぎ目へ指を差し入れた。赤い紐の端が柱と金具の隙間に挟まっている。手首をひねり、指先で端を押し上げる。綱の重さが一度だけトトの腕に移り、結び目がゆるんだ。
「外れた」
「よし。留め金を戻す。リッカ、綱を放せ」
ガルンさんが金具を締め、鐘をもう一度確かめる。今度は音がまっすぐ広場へ返った。高い屋根の鳥が羽をたたみ、祭り客の何人かも手を止める。トトは三本の紐を握り、順番を声に出して数えた。
「ひとつ。ふたつ。三つ目は、姉ちゃん」
「聞いてるよ」
一番低い鐘から鳴らした。トトが一本目を引くと、乾いた音が屋台の布を震わせる。二つ目は少し高く、屋根の端に止まった鳥が首を上げた。三つ目の前で、トトは私の手を待つ。
二人で紐を握る。目を合わせる必要はない。トトの指が結び目を二度叩き、私がうなずく。せえの、で引いた。
高い音がひとつ、広場の真ん中を通り抜けた。最初に鳴った三つ目の音より、ずっとよく響く。女の子が両手を叩き、母親が籠を胸に抱いて笑った。私は最後まで紐を持ち、音が消えるのを待った。広場の人たちも手拍子を重ねたが、トトは最後の余韻まで聞いてから手を離した。トトが私を見上げ、私はうなずく。
「今度は、順番に鳴らせたね」
帰ってからの約束を、今度は私から口にする。
「帰ってきたら、祭りの初めから一緒にいよう」
「うん。その時は、三つとも姉ちゃんと鳴らす」
紙風車の折れた羽を、トトは爪で少しずつ伸ばした。次の祭りでは、風より先に並んで鐘の前へ立つ。
ガルンさんは鐘の鍵を腰へ戻した。それから屋台脇の小さな物置を開け、油布で包んだ紙筒を取り出す。
「リッカが見た印を、もう一度説明してくれ。形だけでいい」
三本の線と小さな輪を指で描くと、ガルンさんは包みを広げた。古い星図だった。紙は黄ばみ、何度も折られた跡がある。角に残る青墨は今の星図板より濃く、星の点の並びは同じなのに、真ん中に細長い空白が一つあった。
ガルンさんは地図の端を石で押さえる。空白の帯は紙を折った筋と交わり、色褪せているのに、削られた跡だけは白いまま残っていた。端の小さな星印は欠けていない。消えた形のところだけ、紙の厚みが薄くなっている。
「この帯は、昔から空白だったんですか」
「知らん。祭りの歌には、星が夜幕を留めるとある。誰が幕を張ったのか、なぜ星をそこへ置いたのかまでは歌っていない」
「じゃあ、星を置いた人は?」
トトの問いに、ガルンさんは紙の角を押さえたまま黙った。古図と祭り用の星図板を交互に見る。星を記す点は重なるのに、空白の帯はどちらにもあり、そこだけが紙の色を変えていた。
銀星の裏で見た印は、この帯に収まる。けれど帯の端には、紙の繊維が短く立っていた。古くて破れたなら毛羽は外側へ向く。ここは違う。刃物で表面だけを削った跡に見える。星のないところが空白なのではない。誰かが印を消したのだ。
「星がなかったんじゃない」
私は紙筒を押さえた。
「誰かが、ここから消したんだ」




