第1話 星は昼にも落ちる
銀星が落ちた。鐘広場の旗も、人の帽子も、上へ引かれて空に浮いた。
鐘番のガルンさんが、旗を結ぶ腕を伸ばしたまま叫んだ。
「リッカ、赤い紐!」
私の手にあった紐は指をすり抜け、頭上へ走った。結び目の先で赤布がばたつく。雲海の上には青空しかないのに、広場の真ん中だけ空へ向かう風が立っていた。
星迎え祭りの飾り付けは、鐘楼の三本の塔を赤紐で結ぶところまで来ていた。外壁には祭り用の星図板が吊られている。雲海の上に見える星を点と線で写したものだ。トトは一番低い鐘の前で、紙の風車を胸に抱いている。
広場の端では、焼き菓子の籠が一つ転がった。店番の女の子が追いかけ、母親がその背中をつかむ。籠は石畳から半尺ほど浮き、見えない糸に引かれるように裂け目へ滑っていく。祭り客の手から、布袋や髪飾りが次々と離れた。
人垣の向こうから、ガルンさんの声が飛んだ。
「拾いに行くな! 石柱につかまれ!」
大人たちは互いの袖をつかみ、子どもを石柱の陰へ押しやった。ガルンさんは鐘楼の階段を降りず、両手で鐘の紐を押さえている。紐を放せば鐘が風にさらわれ、落ちた先に誰かがいるかもしれない。
三本の鐘を見比べ、トトが言った。
「ひとつ目はぼく。ふたつ目もぼく。三つ目は姉ちゃんと一緒に鳴らすんだよ」
赤紐を指に巻き直し、トトの風車を指さした。
「旗を先に結び直す。トト、風車をしまって」
空を見上げたトトが言った。
「まだ風がないよ」
風車の細い紙羽根は、回らないまま石畳を離れていく。ガルンさんが鐘の紐を両手でつかむと、揺れた鉄の鐘が広場へ低い音をひとつこぼした。
落ちたものを追う癖がある。目に入った足場へ先に手をかけると、同行者がどこにいるかを確かめるのが遅れる。今日はトトが隣にいるから、赤紐より先に彼の靴が石を離れるのを見つけた。
登攀壁なら、開始位置を決めてから次の三手を探す。外壁を登る時も同じ。足場を先に決め、手は体を支えるために添える。トトが浮いた瞬間、次の一手を探すより早く体が出た。
一段。
私の右足のすぐ前、空中に四角い面が現れる。四十センチ幅。靴底を置くと、風に押されず、三秒だけ私の体を受け止めた。
面を蹴ってトトの胴に腕を回す。二人分は載せられない。彼を抱き寄せたまま石畳へ戻ると、一段は消えた。トトは腕から離れ、帽子を押さえた。紙風車を握った手は開かない。
トトは靴の先を石に擦り付けた。
「姉ちゃん、ぼく浮いてた?」
風車を受け取ろうと手を伸ばす。
「靴が一足ぶん。次は風車を放して」
トトはその手を避ける。
「落としたら、三つ目の鐘を鳴らせない」
石畳に残る靴を確かめてから、首を横に振った。
「鐘は逃げないよ」
トトの目が、風にさらわれた帽子を追う。
「帽子は逃げてる」
たしかに、帽子は鐘楼の屋根へ飛んだ。赤紐を追うより先に、紐の根元を見た。広場の上、夜幕が垂れている。昼でも夜幕は空に張られている。星を留める薄い布だと、祭りの歌にある。そこに小さな裂け目が開き、銀色の星がぶら下がっていた。
広場に声を張った。
「ガルンさん、鐘の紐を石柱に結んで。トトは広場の端へ」
背中からガルンさんの怒鳴り声が追った。
「リッカ、近づくな! あそこは人が上がれる高さじゃない」
振り向かずに返した。
「次の足場を探します。星に手が届くか、確かめます」
先に見て、戻る。それならすぐだ。私の一段は、目に見える二メートル以内にしか置けない。風に飛ばされないが、三秒で消える。登る代わりにはなる。飛ぶ道具にはならない。
鐘楼の石段を二段ずつ駆けた。屋根の縁で足を止める。裂け目はそこから腕一本ぶん上に見えた。銀星の下で幕がたわみ、赤布も紙風車もそちらへ吸われている。吹き上げ風の中心は、穴の真下だ。
石段の最後の段は幅が狭い。靴の縁を角に合わせて腰を低くする。練習壁なら手を伸ばして次の色付きの突起を取るところだけれど、今は掴める壁がない。目を上げたまま、右足を出せる距離を測った。
二度目の一段を置く。右足を移し、消える前に三度目の面を前へ作る。二枚目で屋根の縁を越え、三枚目はたわんだ布の端へ。布は指にかかるが、荷重を預ければ破れそうだ。四度目を少し横へ置き、風の中心を回る。
落ちた星の重さは手のひらほどだろう。けれど、赤布はそちらへ真っすぐ引かれず、斜めに巻いていた。風が渦を描いている。星へ一直線に進めば、幕の垂れたところに膝を取られる。
屋根の縁から離れると、足元が広場ではなく青空になった。右足、左足。靴裏の縁を面の真ん中へ運び、腰をひねる。子ども用の登攀壁で何度もやった動きだ。手を伸ばしすぎず、次の足場が消える前に重心を移す。三秒は短い。鐘の揺れる音を数える間もない。
鐘楼の下からトトが叫んだ。
「姉ちゃん! ガルンさん、紐を結んだよ!」
五度目を置いた時、巻き上がる赤布が肩を打ち、視界が揺れた。指を開いて閉じる。五回。まだ進める。銀星の音が、裂け目の右から鳴る。風に負けず、かすかな金属音だけは耳に届いた。
五度目の面は星の左に出た。足を移すと、銀星の表に刻まれた三本の浅い筋が見えた。風で姿勢を崩しては、筋の向きを確かめる。穴の形と合わせるには裏を見たい。あと一枚。足りないかもしれない。
六度目をつくる。面が足裏に当たった瞬間、頭の中で鐘が二つ鳴った気がした。使ったのは六回。ここで十分休まなければ、次の一段は出せない。
銀星は手の届く先で揺れている。表に刻まれた三本の筋が、裂け目の向きを示しているはずだ。風が星を回すたび、筋の先が穴の縁をかすめる。
星の裏に小さな輪がある。穴の縁にも同じ輪が見えた。飾りではない。星の向きを確かめ、両手でまっすぐ押し込む。
かちん。
薄い音がして、星が布に収まった。風が止まる。赤布も帽子も紙風車も、広場へ落ち始めた。屋根に落ちた帽子を拾うと、私は腰を下ろした。十分間は動かない。鐘の音が戻るまで、ここで待つ。
腕の力は残っている。頭だけが、遅れて揺れる。無理に立てば、次の一段を作る時に面の位置を誤る。壁登りの練習でも、指先が開き始めたら一度降りた。高い場所で休むのは落ち着かないけれど、今の私はここから降りられる。
広場ではガルンさんが三本の紐を確認していた。トトが帽子と風車を拾い、最後の鐘の前へ走る。
トトは最後の鐘を見上げ、屋根へ声を投げた。
「三つ目、一緒にって言ったのに!」
私は屋根から返事をした。
「今は一人で鳴らして。屋根から聞いてるから」
トトが一拍だけ置き、鐘紐を引く。高い一音が広場を越えた。拍手はその音を追って広がり、何人かが鐘楼の屋根を見上げる。手を振ると、トトが風車を持った手を振り返した。
押し込む直前に見た銀星の裏には、細い線で見たことのない印が刻まれていた。
星図板の空白に形を重ねると、ぴたりと合う。夜幕の裏からナイロ段と雲海を見てみたい。印のある場所は、そこへ続く道かもしれない。




