第6話 竜印炉の火
赤い竜の印は、俺が意識を向けるたび鼓動のように明滅した。
壁の高さはガンツ二人分ほどあり、煤けた石板が半円形に組まれている。中央には翼を広げた竜の紋章、その下には拳ほどの窪み。左右へ走る溝は床下へ潜り、天井へ抜ける太い管にもつながっていた。
「炉だ」
ガンツが石板を叩く。
「旧鍛冶区画の竜印炉。話には聞いたが、動くものが残っていたとはな」
「何ができるの?」
ミーナは左前脚を浮かせたまま、熱を帯びた壁へ鼻を近づける。
「鉱石を溶かす。肉を焼く。湯を作る。乾燥にも使える」
「温かい寝床も?」
ポロの耳が立った。
「排熱を回せればな」
食料は尽きている。水も一日分。負傷者が二人いて、夜の冷気は殻の亀裂へ染みる。熱があれば治療も保存も変わる。何より、俺の孵化条件の一つは十分な熱量だ。
「ついに王にふさわしい設備が目覚めたか」
俺は荷台の固定枠から胸を張った。
「まだ光っただけだ」
入口で横になったグラウが冷たく返す。右翼は骨と皮で固定され、体を動かすたび羽毛の下で震えていた。
「俺の魔力へ反応した。ならば起動できる」
「できるか、調べてから言え」
「王族の血へ従う炉だぞ。俺が命じれば――」
「昨日、荷台に頭突きしてた卵が?」
ミーナまで口を挟む。
「あれは敵を止めるためだ!」
全員の前で軽んじられてはならない。ここで炉を起動し、龍王家の証を見せる。そうすれば、少なくとも王族だという話を笑う者はいなくなるだろう。
俺は炉の窪みだけへ鑑定を伸ばした。
【鑑定結果】
名称:竜印炉
状態:停止、燃料石装填済み、排熱溝二割閉塞、炉壁に亀裂
起動条件:竜系統魔力の注入
推奨操作:低出力から段階上昇
用途:加熱、精錬、乾燥、蓄熱
低出力から、と書いてある。
だが俺の魔力はまだ少ない。弱く入れて反応しなければ、皆の前で恥をかく。強く注ぎ、一度で目覚めさせるほうが王らしい。
「排熱溝が詰まっている。先に掃除しよう」
ガンツが床の格子へ工具を入れる。
「待て。起動して流れを作れば、煤も吹き飛ぶ」
「炉の中へ戻ったら詰まるぞ」
「俺が加減する」
「推奨操作は?」
ミーナに聞かれ、俺は一瞬黙った。
「王の魔力へ合わせて段階的に上げる、とある」
嘘ではない。主語を少し変えただけだ。
「なら、ガンツが溝を見るまで待てば?」
「問題ない。皆は下がっておれ」
俺は荷台を炉の正面へ寄せさせた。ガンツは納得していなかったが、竜系統魔力を持つのは俺だけだ。最終的には任せるしかない。
殻の中心へ意識を集める。昨日まで細い糸だった魔力を、腕の代わりに窪みへ伸ばす。赤い紋章が一段明るくなった。
足りない。
もっとだ。
全身の熱を束ね、一気に押し込む。
炉の奥で、どん、と重い音がした。
赤い線が白く輝く。床の溝を光が走り、天井の管から長い唸りが返った。
「見たか!」
俺が勝ち誇った直後、炉口の石板が内側から膨らんだ。
「下がれ!」
ガンツが荷台を蹴り、俺を横へ押す。
石板の隙間から炎が噴き出した。
熱風が通路を走り、ミーナの髭を焦がす。ポロは水袋を抱いて床へ伏せた。グラウが健全な翼を広げ、炎の正面から二人をかばう。
「止めろ、アルド!」
ガンツが叫ぶ。
「今、やっている!」
注入を切ろうとする。だが魔力の糸が窪みへ吸いつき、離れない。炉が俺の内側から勝手に熱を引き出している。
視界のない世界が赤く染まった。殻の中心が焼け、意識が薄くなる。
「切れぬ!」
初めて恐怖をそのまま口にした。
ガンツが窪みと俺の間へ石板を差し込む。魔力の糸は物をすり抜け、切れない。
「排熱溝を開ける!」
彼は床へ飛びつき、格子を工具でこじ上げた。黒い煤と小石が詰まり、熱気の出口を塞いでいる。
「ミーナ、上の管だ! 風を通せ!」
「左へ抜く? 右?」
「外気があるほう!」
ミーナが鼻を上げる。熱で匂いが乱れ、迷っている。
「左上だ!」
俺は初日に覚えた冷気の方向を叫んだ。
ミーナは右翼を振り、天井管へ風を送る。最初の一撃では、管の煤が逆流して全員へ降りかかった。彼女は咳き込みながら、風の角度を変える。二度目で、天井の奥からごうっと空気が抜けた。
炎が一瞬弱まる。
だが炉内で、細かな何かが動き始めた。
かさかさ。ざりざり。
「虫だ!」
ポロが床へ耳を当てた。
炉口の隙間から、赤熱した甲殻を持つ虫が這い出した。手のひらほどの大きさで、六本の脚と鋏のような顎を持つ。一匹、二匹、五匹。熱を浴びるほど甲殻が明るくなり、排熱溝へ群がっていく。
「あれが詰まりの原因だ!」
ガンツが工具で一匹を払う。虫は壁へ当たってもすぐ起き上がり、床の燃える欠片を顎でくわえた。
俺は魔力を吸われながら、虫を鑑定する。
【鑑定結果】
種族:火喰い虫(個体ランクF)
レベル:2
HP:31(ランクE)
MP:22(ランクF)
攻撃:7(ランクG)
防御:8(ランクG)
速度:8(ランクG)
技能:熱吸収:ランクF Lv3、群集閉塞:ランクF Lv2
状態:高熱活性
「熱を食って増える! 殺すより炉から離せ!」
「どこへ?」
ミーナが問う。
排熱溝から遠ざけるだけでは、寝床や荷台へ来る。水をかければ弱るかもしれないが、一日分しかない生活水だ。
「水は使うな。燃料石を一つ、右の空き部屋へ投げろ!」
「燃料を減らすの?」
ポロが水袋を抱いたまま目を見開く。
「炉を失うよりよい。熱い餌で誘導する!」
ガンツが炉脇の蓋を開け、火ばさみで赤い燃料石をつかんだ。だが右腕の打撲で持ち上がらない。
グラウが前へ出る。
「俺が風で飛ばす」
「翼を使うな!」
「飛ばない。溜めずに押すだけだ」
彼は健全な翼を小さく振り、燃料石の下へ風を送り込む。ガンツの力と重なり、石が炉から転がり出た。ポロが長い骨で方向を変え、右の空き部屋へ押す。
火喰い虫の触角が一斉にそちらを向いた。
数匹が燃料石を追う。だが三匹は排熱溝へ残り、煤を顎で押し固め始めた。
「賢いのか、こやつら!」
「群れを分けてる!」
ミーナが爪で一匹を弾く。虫は空中で脚を広げ、彼女の翼へしがみついた。赤い顎が羽毛を焦がす。
ミーナが悲鳴を上げ、翼を床へ打ちつける。虫は離れず、さらに熱を吸う。
「水を一杯だけ使え!」
俺は判断を変えた。
ポロが袋から小皿へ水を出し、ミーナの翼へ投げる。蒸気が上がり、火喰い虫の甲殻が黒く曇った。顎の力が緩み、ミーナが爪で排熱溝と反対へ飛ばす。
「水、効く!」
「全部へかけるな。離れぬ個体だけだ!」
生活水を守るという最初の判断に固執していれば、ミーナの翼が焼けていた。資源は残すためではなく、生きるために使うものだ。
ガンツが排熱溝の煤を掻き出す。ポロは骨の棒で虫を燃料石の方向へ追う。ミーナは風を溜めず、短く細い風だけを送り、虫の進路を変える。グラウは空き部屋の入口で、どの虫が戻ろうとしているかを数えた。
「左から二匹戻る!」
「ミーナ、床へ風!」
「分かってる!」
風が虫の脚を浮かせる。ポロが棒で押し、ガンツが石片を置いて退路を塞ぐ。
一度目は一匹が石の隙間を抜けた。二度目はガンツが隙間へ工具を差し、ミーナが風を上から当てた。虫は進めず、燃料石の熱へ引かれて向きを変えた。
残る一匹が排熱溝の奥へ潜り込む。
「詰まるぞ!」
ガンツが腕を伸ばすが届かない。
俺は殻へ入ってくる振動を探った。虫の脚音は煤の下を右へ進んでいる。先には細い枝溝。そこへ入れば取れなくなる。
「三歩右、床板の下だ! 先回りして叩け!」
ポロが走り、指示した床へ耳を当てる。
「ここ!」
ガンツが石槌を一度だけ振り下ろした。床板が揺れ、虫が溝から飛び出す。ミーナの風がすくい上げ、空き部屋へ運んだ。
グラウが入口の石扉を押す。片翼では力が足りず、隙間が残った。
「ガンツ!」
「排熱が先だ!」
彼は煤を掻き出す手を止めない。
ポロが石扉へ体当たりする。小さな体では動かない。ミーナは天井管の換気を維持している。
俺が行ければ、と焦った。だが固定枠の中で揺れることしかできない。
「グラウ、扉を閉めるな。床の楔を蹴れ!」
空き部屋の天井には、崩落防止の支柱が斜めに立っていた。その根元の楔を外せば、板が落ちて入口を塞ぐ。
「中の燃料石は回収できなくなるぞ」
「今は虫を出さぬことが先だ!」
グラウが健全な翼で体を支え、後脚で楔を蹴った。一度では動かない。二度目で翼の固定がずれ、痛みに顔が歪む。
「やめろ、骨が!」
「他に手があるか!」
三度目。楔が抜け、支柱板が入口へ倒れた。火喰い虫が内側からぶつかり、赤い光が隙間にちらつく。それでも出てこられない。
同時にガンツが排熱溝の最後の塊を引き抜いた。
ごう、と炉の炎が床下へ吸い込まれる。天井管からも熱気が抜け、石板の膨らみが少しずつ戻った。
俺を吸っていた力が弱まる。
「どうやって切る!」
ミーナの声が遠い。
魔力を止めようとするほど、炉は不足分を引いた。ならば押し返すのではなく、糸を細くする。
大河をせき止めるのではなく、水路を一つずつ閉じるように。
俺は意識を一気に離すのをやめた。窪みへ伸びる魔力の幅を半分にし、さらに半分にする。燃えるような痛みを耐えながら、最後の一本だけを残す。
赤い紋章が白から橙、橙から暗い赤へ落ちた。
最後の糸を、内側へ引く。
ぷつり、と接続が切れた。
成功した、と言おうとした。
声が出ない。殻の中心から熱が消え、世界が深い水の底へ沈んだ。
最後に聞こえたのは、ミーナが俺の名を叫ぶ声だった。
目覚めたとき、炉の明かりは消えていた。
代わりに、頬のない頬へ冷たい布が当てられている。ポロが水を含ませた苔を、俺の殻へ載せていた。
「起きた!」
その声で皆が集まる。
ミーナは左脚に新しい固定を巻き、右翼の端が少し焦げている。ガンツの顔にも煤がつき、右腕は腫れていた。グラウの翼固定は巻き直されている。
「どれほど寝ていた」
「半日」
ミーナの答えは冷たい。
「そうか。炉は?」
「止めた」
「火喰い虫は?」
「閉じ込めた。燃料石一個と一緒に」
「水は?」
「半日分しかない」
一つ聞くたび、自分の失敗が積み上がった。
「すまなかった」
俺は言った。
誰もすぐには答えない。
「推奨は低出力だった」
正直に続ける。
ミーナの耳が立った。
「段階的に上げるって言ってたでしょう」
「王の魔力へ合わせる、と言い換えた。強く入れれば一度で動くと思った」
「どうしてそんなことしたの」
怒りの奥に、震えがあった。俺が目覚めなかったらという恐怖だと分かった。
「王族だと証明したかった。誰にも信じられておらぬから」
言葉にすると、ひどく幼稚だった。
ガンツが長く息を吐く。
「炉が反応した時点で、竜の血があるのは分かった。壊したら証拠も何もない」
「うむ」
「うむじゃない」
ミーナが俺の殻を軽く叩いた。
「次に同じことをしたら、起動役から外す」
「俺しか起動できぬぞ」
「だから、注ぐ量を決めるのはガンツ。換気ができたと確認するのは私。水の残りを決めるのはポロ。退避を決めるのはグラウ。全部そろわなければ、あんたは魔力を入れない」
王である俺が、全員の許可を待つ。
反発が喉まで出た。だが床には掻き出した煤が山となり、焦げた羽と濡れた苔が散らばっている。俺一人の判断で、全員が傷ついた証拠だった。
「受け入れる」
グラウが目を細める。
「本当に?」
「ただし緊急停止は、誰でも命じられるようにする。お前たちだけでなく、俺も止められる手順を覚える」
「今度は途中で切れたのか」
「細くすれば切れた。最初から小分けにすれば、吸われても戻せるはずだ」
失敗から得た唯一のものだった。
俺たちはすぐ再起動せず、炉を調べ直した。
ガンツが排熱溝を完全に掃除し、炉壁の亀裂へ耐熱泥を詰める。ミーナは天井管の出口まで風を送り、煤が戻らない角度を三度試す。ポロは生活水と冷却水を別の器へ分け、赤い線より減ったら停止と決めた。グラウは入口から安全な窪地までの退避順を作った。
最初はポロ。次に負傷の重い者。荷台を動かせるガンツとミーナ。俺は固定枠ごと最後に引く。
「王は最後だ」
俺が言うと、グラウが首を振った。
「動けない者を最後にしたら、全員が戻ることになる。お前はポロの次だ」
「しかし王は民を先に――」
「救助の手間を増やすな」
言い方は冷たいが、正しい。
「……よかろう」
燃料石は、閉じ込めた一個を除いて三日分。炉壁の亀裂は応急処置で、強火には耐えない。食料はゼロ。再起動へ失敗すれば、得るものより失うものが多い。
それでも熱は必要だった。
全員の確認を終え、俺は再び窪みへ魔力を伸ばした。
今度は髪の毛ほど細い一本だけ。
赤い紋章が淡く灯る。
ガンツが炉壁へ手を当てる。
「まだ低い。ほんの少し上げろ」
俺は糸を二本にする。
ミーナが天井管の風を確かめる。
「抜けてる。煙は戻ってない」
ポロが水の器を見る。
「冷却水、足りてる」
グラウは全員の位置を確認した。
「退路、空いてる。続けろ」
三本目。
炉の奥で、小さな火が生まれた。
暴れる炎ではない。手のひらほどの橙色が、燃料石の表面を静かに舐めている。床下の溝へ温かい空気が流れ、冷えた作業場の床がゆっくり熱を持ち始めた。
誰もすぐ歓声を上げなかった。
炉壁、排熱、水、虫の音を一つずつ確認する。
異常がないと分かってから、ポロが最初に笑った。
「あったかい」
ミーナも翼を畳み、熱の近くへ座る。グラウは少し離れた入口側にいたが、固定した翼へ温風が届く位置を選んだ。ガンツは満足そうに炉壁を叩いた。
「今度は成功だ」
「うむ。俺の完璧な魔力操作で――」
四人の視線が集まる。
「……皆の手順があったからだ」
言い直すと、ミーナが小さく笑った。
炉の低温で湯を作り、傷を洗った。食料はないが、採取した白い根を炙ると苦みが減り、わずかな腹の足しになった。濡れた皮を乾かし、寝床へ温風を引く溝も掘った。
ポロは白い根の一本を鼻先で転がし、端に残った三本並びの歯痕を見つけた。
「ぼくの群れの噛み方。古いけど、ここまで来てた」
歯痕は乾き、根の匂いも薄い。今すぐ近くにいる証拠ではない。それでも、崩れた水場の奥だけでなく、旧鍛冶区画まで移動した手掛かりにはなった。炉と退路を安定させたら、この区画から続く道を調べると決めた。
さらに鑑定すると、床下の蓄熱石へ熱をためれば、火を消した後も孵化床を温められると分かった。
孵化条件の一つへ、初めて輪郭が現れた。
十分な熱量。まだ不足。だが、蓄積可能。
胸が高鳴った。俺は孵れる。すぐではなくとも、必要なものを一つずつ作ればよい。
「ここを拠点にする価値がある」
俺が言うと、グラウが炉の赤い光を見た。
「追手に見つかれば、火は目印になる」
「だから警報と退路を作る。火を捨てて逃げる手順もだ」
「捨てられるのか」
「今日、学んだ。設備を守って全員死ぬより、生きて作り直す」
ガンツがうなずく。
炉当番は交代制。燃料を入れる上限を決める。排熱溝を毎回確認する。緊急停止は誰でも命じられ、理由の説明は安全な場所へ移ってからでよい。俺が反対しても停止を優先する。
最後の規則を口にするのは、少し悔しかった。
だが、王の誇りより仲間の命が重い。
「次に俺が勢いで魔力を入れようとしたら、止めよ」
「どうやって?」
ミーナが問う。
「殻を叩けば気が散る」
「割れない程度にね」
「そこは優しくせよ」
「努力する」
確約してほしい。
夜、炉の火を最低まで落とした。橙色の光が皆の顔を照らす。腹は空いている。水も少ない。俺は半日を失い、炉の亀裂も完全には直っていない。
それでも、昨日まで冷えた暗闇しかなかった場所に火がある。
俺たちは失敗して、傷つき、資源を使った。そのうえで手順を作り、もう一度火をつけた。
最初から一人で成功するより、この火のほうがずっと頼もしく思えた。
俺が眠りに落ちかけたとき、壁の向こうから硬いものを噛む音がした。
がり。ごり。がり。
一匹ではない。十、二十、それ以上。音は炉の振動へ引かれるように近づき、旧鍛冶区画へ通じる道を埋めていく。
グラウが入口で身を起こした。
「群れだ」
ガンツが炉壁へ耳を当て、顔色を変える。
「石噛み。こいつら、炉の壁まで食うぞ」
せっかく灯した火の向こうで、無数の牙が鳴っていた。




