第54話 空路を三つに裂け
食料は、あと二日。
百二十八日の朝、中央管制塔の卓上には、その現実が小さな赤札で置かれていた。
水は迂回管で七割まで戻った。だが北農場の半分が沈み、地上路と水路は敵に閉ざされている。空路も一本だけ残っているが、黒旗の斥候が雲の上下を往復していた。
「補給隊を正面から通す」
俺が言うと、全員が黙った。
「なぜ誰も賛成しない」
「昨日も似たことを言ったからよ」
治療班の診察を終えたミーナが、右翼の固定布を締め直す。彼女自身も前線制限の最終確認を受けたばかりだ。
「飛行は十五分。近接戦闘は禁止。進路指示と警告射撃だけ」
「俺の制限ではない」
「あなたは飛行禁止」
「王に禁止という言葉は――」
治療師が無言で俺の翼膜を押した。痛みで声が詰まる。
「あるようだ」
セラが卓上へ三本の紐を置いた。
「補給路を分けます。高空の囮、地表すれすれの低空路、雲に隠れる雲上路。敵がどこへ食いつくかを見て、一便だけでも通す」
「囮は俺がやる」
「飛行禁止です」
「塔の上で目立つだけでも――」
「敵はあなたの魔力を知っている。目立てば全軍がここへ来ます」とグラウが切る。「囮は荷だ」
ガンツが薄い木箱へ獣皮と骨の枠を取りつけた。箱の底を翼のように広げ、落ちても滑空する形にする。
「補給獣が落とされても、荷だけは城内へ流れ着く。中身を詰めすぎれば翼が折れる。軽い乾燥肉と薬だけだ」
ポロは箱を透明な水膜で包んだ。
「匂いを閉じる。敵に肉だって分からないように」
俺は管制塔の窓から空を見た。領域知覚では、敵の姿より魔力の濃さがよく分かる。黒旗は高空に八、低空に三。雲の上にも何かいるが、距離が遠い。
「敵は魔力の強い荷を狙う。黒旗の反射布と同じ感覚で探している」
「なら入れ替える」とグラウが言った。
彼は救援物資の箱から、治療師が施した保冷術式を外させた。代わりに空の樽へ強い発光石を入れる。
「魔力のない箱に本物を。魔力の強い樽は空。敵の常識どおりなら、樽を追う」
「敵も罠だと読む」と俺は言う。
「読む。その後、どの道を本物だと選び直すかを見る」
囮は高空へ。低空路には無魔力の救援箱。雲上路には空箱と少量の薬。三つが同時に城外の中継岩から放たれた。
俺は管制塔の都市核板へ両前脚を置く。
「高空、接触まで四十。低空は岩壁沿い。雲上、気流が西へずれる」
ミーナは城壁上から翼を広げた。まだ完全には治っていないが、姿勢はまっすぐだ。
「私が雲上を導く。副隊長、低空は任せる」
以前なら、彼女は敵の中央へ飛び込んでいただろう。今日は補給獣の前へ出ず、横から羽ばたきの合図だけを送る。
敵の黒旗が、高空の空樽へ群がった。
「食いついた!」
兵が歓声を上げる。
「まだだ。静かにしろ」
翼将は樽へ矢を一本放ち、中身が空だと確かめた。黒旗が反転する。高空の半数は雲上へ、残りは低空へ向かう。
敵は罠を読んだ。
そして低空路を選んだ。
「低空へ七。雲上へ三。本命を当てられた」
低空の補給獣は岩壁と地面の隙間を飛ぶ。上から矢を受けにくい代わりに、逃げ場がない。黒旗翼獣が鉤爪を伸ばし、先頭の箱へ迫った。
ガンツの箱鎧が鉤を受けた。表板が剥がれたが、中身は落ちない。
「二番箱、速度低下!」
「副隊長、列を詰めないで。二番を外へ出して!」
ミーナの声が飛ぶ。彼女は低空路へ向かわない。城壁上から警告矢を放ち、敵の進路だけをずらす。副隊長が補給獣へ旗を振り、一箱を列の外へ切り離した。
敵がその箱へ集中する。
「アルド、風!」
ミーナに言われ、俺は塔の風路術式へ魔力を流した。直接飛べなくても、都市核を通じて城壁の風板を動かせる。
横風が岩壁へぶつかり、下へ巻く。補給獣の翼が一斉に傾いた。敵の鉤爪が空を切り、滑空箱だけが風に乗って城内側へ抜ける。
「通るぞ!」
そのとき、敵の翼将が鳴いた。
黒旗翼獣の一頭が、首の札を強く光らせる。
【鑑定結果】
対象:黒旗翼獣
種族:翼獣
個体ランク:A
状態:遠隔自壊命令、解除不能
「離れろ! そいつを捨て駒にする!」
叫びは間に合わなかった。
翼獣の体が内側から膨らみ、紫の光が裂け目から噴き出す。爆発が低空路を覆い、岩壁が崩れた。
副隊長は補給獣を上昇させず、地面へ伏せさせた。ミーナも接近せず、警告矢で最後尾を反転させる。
二つの箱が岩の下へ消えた。
三つ目は滑空翼を失い、城外へ落ちた。
それでも先頭の箱列は、横風に押されて門を越えた。
「低空路を閉じろ」とグラウが命じる。「二度目は崩落へ誘い込まれる」
「雲上路も敵に見られた」とセラが言う。
「高空囮は通用しない。三本のうち二本を捨てる」
俺は奥歯を噛んだ。せっかく作った道を、自分で捨てる。だが全てを守ろうとすれば、残った一つまで失う。
「雲上の三体を、低空の煙へ引け。雲上便は荷を放棄して退避。本命の先頭だけを通す」
ミーナが十五分の砂時計を見る。残りはわずかだ。
「了解。私は戻る。副隊長、最後の誘導を」
彼女は戦場を部下へ渡し、時間どおり城壁へ降りた。悔しそうに翼をたたむが、命令を破らない。
低空から生き残った補給箱は九。予定の三分の一にも満たない。乾燥肉、薬草、修理布。食料は一日ぶんしか増えなかった。
歓声を上げるには少なすぎる。
それでも、箱を開けた子どもは肉の匂いに目を輝かせた。
ガンツは落ちた敵の残骸を調べる。
「肉は毒抜きすれば食える。翼膜は滑空箱に使える。骨は新しい港の支柱だ」
「敵まで補給にするのか」
「向こうが置いていった」
俺たちは一つだった空港を三つの小さな発着場へ分けた。本物の旗を立てる港は一つだけ。残る二つには、風向きと時刻で変わる偽標識を置く。敵に見つかることを前提に、見つかった印が翌日には嘘になる仕組みだ。
ミーナは副隊長を連れ、誘導手順を書き直していた。
「私がいない時も、同じ判断ができるように。警告射撃は敵を落とすためじゃない。補給隊に空きを作るためよ」
狩る者だった彼女が、運ぶ者を生かすために空を見ている。
都市核が強く脈打った。
一箱ずつ運び込まれる食料、三つに分かれた港、役目を渡したミーナ。その変化が俺の体へ流れ込み、鱗の下に新しい熱が走る。
俺はレベル五十二へ上がった。
◇
黒旗の斥候は、崩れた低空路の上で旋回していた。
彼には理解できなかった。竜の王がいるなら、敵を追うはずだ。自壊した翼獣の仇を討つでも、斥候を捕らえるでもなく、城内の者たちは落ちた箱を数えている。
勝敗より物資を優先する。
それは臆病に見えた。
だが翌朝も国が飢えないという意味だと気づいたとき、斥候は初めて城の小ささを怖いと思った。
◇
回収した補給箱の底をポロが洗っていると、泥の下から細い刻印が現れた。
「これ、ぼくたちの印じゃない」
セラが紙へ写す。数字と竜語が組み合わさった座標だった。北の捕虜列が通る谷、その東端。時刻は明日の夜明け前。
「罠でしょうか」とセラ。
「罠でも行く」
「救出隊を出せば、三つの門が薄くなります」
「だから王国を任せる」
俺はグラウを見る。
捕虜の中には、命令文を読める鳥人がいる。
食料は一日ぶんしか増えていない。同じ手は二度使えない。
次に失敗すれば、飢えと命令の両方が国へ入ってくる。
届いた九箱は、中央広場で開封された。セラは中身を一つずつ読み上げ、誰がどこへ運ぶかまで記録する。
「乾燥肉、百二十食。止血草、四十束。翼膜補修糸、十二巻。幼体用の穀粉、三袋」
民の顔に安堵が広がりかけ、最後の数字で止まった。国全体なら、一日で消える量だ。
「宴にするか」と俺は言った。
「正気?」とミーナ。
「一食だけだ。全員で同じ肉を食べる。明日から減らすなら、今日の成功を一緒に味わう」
セラは配給板を計算し直した。
「治療食と幼体分を除けば、一人ひとかけらです」
「十分だ。大きさが違えば俺の分を削れ」
広場の鍋へ乾燥肉が落ち、迂回水路の水で薄い汁になった。一口にも満たない者もいる。それでも補給獣を操った者、箱を作った者、風板を動かした者が同じ鍋を囲むと、戦果が誰のものか分かった。
「陛下は何をしたんです」と子どもが聞く。
「風を吹かせた」
「それだけ?」
「非常に重要な風だ」
ミーナが笑いをこらえている。
「飛べない王様でも、役目はあったのね」
「最初から計算していた」
「囮になろうとしてたでしょう」
子どもが笑い、周りへ広がった。俺も肉の欠片を噛む。硬くて塩辛い。それでも建国の祝い酒より旨かった。
食後、三つの小港を歩いて確認した。第一港は石壁の陰、第二港は旧塔の屋根、第三港は水抜き穴の上。どれも大きな補給獣は降りられない。荷を小さく分け、何度も運ばなければならない。
「大港一つなら管理は楽だ」とガンツ。「だが壊されたら終わる。小港三つなら一つが見つかっても二つ残る」
「人員も三倍要る」とセラ。
「毎日全部は開けない」とグラウが答える。「使う港だけ朝に決める。決定は二人で封を切る。敵に読まれないよう、前夜には誰も知らない」
俺は港ごとに異なる偽標識を置かせた。白旗が本物の日もあれば、罠の日もある。風板の角度、煙の色、鐘の間隔を組み合わせ、同じ合図を繰り返さない。
「味方まで迷わないか」とミーナ。
「迷う。だから到着前に一度だけ、近距離の光で正解を知らせる」
「敵がその光を見たら?」
「見てからでは進路変更に間に合わない距離で出す」
空を狩場ではなく、時間と距離の重なりとして考える。ミーナは各港から見える雲の形を描き、副隊長へ渡した。
「私は十五分しか飛べない。次便では、あなたが判断する。私の合図を待って補給隊を落としたら失格よ」
「しかし隊長の許可なく――」
「許可を待つ時間で箱が落ちる。目的は私の命令を守ることじゃない。荷と運び手を着かせること」
副隊長は緊張した顔でうなずいた。
その夜、敵翼獣の肉を毒抜きする煙が工房から上がった。翼膜は洗われ、次の滑空箱へ張られる。爆発で奪われた二箱の破片さえ、風向きを測る小羽根になった。
敵の自壊命令は、一頭の命だけでなく道を二つ奪った。
俺たちはその残骸から、次の一便を作る。
補給箱の座標刻印を見つめる。わざと残された可能性は高い。けれど鳥人の捕虜がいるという証言とも一致する。
「罠の中に本当の情報を混ぜるのは、命令文と同じです」とセラ。「疑って捨てれば、相手の望みどおりになる」
「なら罠だと知って使う。俺は捕虜を探す。国はグラウに任せる」
その決定を口にすると、飛行を我慢した時より胸が痛んだ。
国を守るために作った三つの空路。
次は、王がいない時にも残る一本を、仲間の中へ作る番だった。
出発前、俺は各港の当直を抜き打ちで回った。第二港では偽標識の布が風に絡み、本物と同じ向きになっている。第三港では見張りが一人で封書を開けようとしていた。
「二人で開ける決まりだ」
「交代が遅れております。補給時刻に間に合いません」
「なら開けずに港を閉じろ。一便を惜しんで、敵へ合図を渡すな」
見張りは悔しそうに封書を戻した。制度は、都合が良い時だけ守る飾りではない。急いでいる時にこそ、自分たちを敵の読みから守る壁になる。
第一港では副隊長が、補給獣なしで進路変更の訓練をしていた。石に羽根をつけ、風へ投げ、落下地点を兵に予測させる。ミーナは口を出さず、答えが出てから理由だけを尋ねた。
「東風が強いから第三港です」と兵。
「敵が第三港を見ていたら?」
「第二へ変えます」
「第二の標識が絡んでいたら?」
兵は詰まった。
「荷を捨てて戻します」と副隊長が答える。「通すことより、次便の存在を隠す方を選ぶ」
ミーナはうなずいた。以前の彼女なら、一便を守るため敵へ飛び込んだかもしれない。今は次の便、その次の便まで見ている。
「十五分を越えて飛ばなかったな」と俺は言う。
「誰かさんと違って、約束は守るの」
「俺も飛行禁止を守った」
「塔から落ちかけたでしょう」
「風を見るためだ」
「翼を広げて?」
そこへ治療師が来たので、俺は話題を変えた。
三港の訓練を終えると、使用する港を決める封書が保管箱へ入れられた。鍵はグラウとセラが一本ずつ持つ。俺には渡されない。
「王なのに鍵がないぞ」
「陛下が捕まっても、敵は港を開けられません」とセラ。
それもまた、俺がいなくても国を残す仕組みだった。
北の雲に黒旗が一つ浮かぶ。敵は今日の成功を見ている。次は同じ風も、同じ箱も、同じ嘘も使えない。
だから俺たちは勝ち方を保存せず、判断の仕方を残した。
一度きりの奇策より、失敗しても次を選べる仲間の方が、北の封鎖を長く耐え抜く力になる。俺はそのことを、空になった補給箱へ刻んで第三港に置いた。
主人公ステータス
【鑑定結果】
名前:アルド
種族:若き天空竜(個体ランクA)
Lv:52
HP:606/最大606(最大値ランクA)
MP:745/最大745(最大値ランクA)
攻撃:197(ランクC)
防御:203(ランクB)
速度:161(ランクC)
総合:719(個体ランクA)
技能:鑑定:ランクD Lv2(ランクD Lv2)/竜圧制御:ランクD Lv4(ランクD Lv4)/天空飛行:ランクD Lv3(ランクD Lv3)/領域知覚:ランクE Lv4(ランクE Lv4)/小隊指揮:ランクD Lv5(ランクD Lv5)/都市核接続:ランクF Lv2(ランクF Lv2)/合意接続:ランクE Lv3(ランクE Lv3)/合意制ダンジョン管理:ランクD Lv2(ランクD Lv2)
状態:右翼膜裂傷治療中、食料一日分を確保、三小港と可変偽標識を整備、捕虜列の座標を発見
【鑑定終了】




