第55話 王がいない防衛線
命令を十七個伝えたところで、グラウが手を上げた。
百二十九日の夜明け前。北の捕虜列へ向かう隠し門の前で、俺は最後の確認をしていた。
「まだ途中だ」
「多すぎる。三つにしろ」
「三つで国が守れるか」
「十七を覚え違えて国を失うよりいい」
兵たちが俺とグラウを交互に見る。俺は喉まで出た反論を飲み込んだ。
「第一、民を守る。第二、敵を深追いしない。第三、予備隊を必ず残す」
「それでいい」
「東門の火矢は二列、西門の荷車は――」
「それは各隊長が決める」
また削られた。
俺は捕虜列を探るため、少数の偵察隊と城外へ出る。空環王国を作ってから、俺が戦時に全ての門を離れるのは初めてだった。
敵がその時を狙う可能性は高い。だからこそ、俺が戻らなくても守れる形を作らなければならない。
頭では分かっている。
足だけが、隠し門を越えたがらなかった。
「何かあれば、すぐ戻る」
「戻るな」とグラウ。
「国が危ない時もか」
「任された。だから戻るな」
その言葉は冷たく聞こえた。だが彼の拳は固く握られ、爪が掌へ食い込んでいる。
俺だけが怖いのではない。
「分かった。俺は捕虜を見つける。ここはお前に任せる」
「了解」
「ただし、無茶はするな」
「それは陛下に返す」
俺は鼻を鳴らし、城へ背を向けた。
右翼はまだ固定されている。地上を進む俺の後ろに、セラと六名の偵察兵が続く。捕虜列の座標まで、谷沿いに一刻。救出できる期限は今日一日だけだ。
国が見えなくなる曲がり角で、三つの警報が鳴った。
赤旗が上がり、鐘が短く四度響き、地面から振動術式の震えが来る。
三門同時攻撃。
俺は反射的に振り返った。
「陛下」とセラが呼ぶ。
「分かっている」
走れば戻れる。俺が竜圧を撃てば、中央の敵は散るかもしれない。
だが俺が戻れば、グラウへ任せたという言葉が嘘になる。捕虜列も移され、命令文を読む者を失う。
「進む」
言葉にした瞬間、胸の一部を城壁へ置き忘れたような気がした。
◇
中央門の見張り台からは、敵の大軍が真正面に見えた。
黒旗翼獣、地上の牙獣、氷甲をまとった大型種。数も魔力も三門のうち最大だ。
若い兵が叫ぶ。
「予備隊を中央へ! 門がもちません!」
グラウは動かさなかった。
「東はポロ。西はガンツ。中央はミーナ。予備隊は待機」
「ですが敵の主力が!」
「見える数が主力とは限らない」
グラウは地面へ手をつけた。中央から伝わる振動は大きいが浅い。獣たちは派手に踏み鳴らし、同じ場所を回っている。
一方、水路側の東門からは、静かで重い圧が間を置いて届く。
「本命は東。従属印つきの獣を水路へ入れる気だ」
「なら予備隊を東へ」
「まだだ。第一波を現有で止める。敵は、こちらが予備を出した後に第二波を入れる」
中央門ではミーナが城壁から降りず、敵の足元へ警告矢を撃っていた。突進したい衝動を抑え、土の弱い箇所だけを崩す。牙獣の列が斜めに傾き、互いの進路を塞いだ。
「正面から押し返さない! 踏んだ場所を壊して、立てなくして!」
彼女の副隊長が指示を受け継ぐ。石弾は敵の体ではなく、前脚の一歩先へ落ちた。
西門ではガンツが荷車を縦に積み、崩れる壁を作った。敵が押すたび、荷車の山は外側へ倒れ、牙と翼を絡め取る。
「壊される前に壊すんだ! 次を積め!」
東門のポロは、迂回水路へ泥水を流していた。敵の従属獣が水へ入ると、透明だった泥が首の命令札だけへまとわりつく。
「札があるところ、見えた!」
弓兵が泥の印を狙い、札の留め具を切る。従属獣は次々に止まり、水路の中で戸惑うように首を振った。
敵の指揮個体が、中央で黒旗を大きく振る。
予備隊を中央へ誘う合図だった。
グラウは動かない。
やがて東門の暗がりから、第二の群れが現れた。最初の倍。体内に命令核を埋め込まれ、外から札が見えない。
「今だ。予備隊、東へ」
温存された兵が一斉に走る。ガンツが用意していた杭を水路へ打ち、ポロが泥を凍らせる。第二波は狭い流れの中で折り重なり、城内へ一頭も入れなかった。
中央の大軍は、予備が来ないと知ると後退を始めた。
「追撃しますか」
若い兵が問う。
「しない。第一命令は民を守る。第二は深追いしない。第三は予備を残す」
グラウは、アルドが削りに削って残した三つを、そのまま答えた。
◇
谷を進む俺にも、都市核を通じて戦況の震えが届いていた。
中央門の圧が弱まる。東門に大きな衝撃。予備隊が動いた気配。
何度も足が止まる。
「戻られますか」とセラ。
「戻らない」
「今のは三度目です」
「確認しているだけだ」
「誰にですか」
答えずに歩く。
やがて谷の向こうに、鎖の音が聞こえた。捕虜列はすでに移動を始めている。灰色の外套を着た北軍兵が十。鎖につながれた捕虜は十五ほど。
正面から奪えば、捕虜を盾にされる。
俺は領域知覚を絞り、兵の足音と鎖の間隔を数えた。最後尾だけ、三歩ごとに遅れる者がいる。
「セラ、先頭へ落石の音を。兵が前へ寄ったら、最後尾の鎖を切る」
「十七の命令ではないのですね」
「三つで十分だ。気を引く、切る、逃げる」
セラが少し笑った。
偵察兵が谷上の小石を落とす。北軍兵は先頭へ集まり、捕虜を伏せさせた。俺たちは岩陰を伝い、最後尾へ近づく。
そこにいたのは、煤色の羽を持つ成鳥の鳥人だった。
嘴は途中で折れ、左目を革帯で覆われている。足鎖を三度、一定の間隔で鳴らした。
合図だ。
俺が爪を伸ばした瞬間、護送兵が振り向く。
「何をしている、役立たずの物真似め!」
兵は鳥人の背を蹴った。
怒りで視界が狭くなる。だが俺は咆哮せず、岩の陰から尾だけを伸ばして兵の足を払った。セラの拘束布が口と腕を巻く。
一人を倒した音で、列全体が動いた。
「発見! 竜だ!」
「捕虜を盾にしろ!」
俺は地面へ竜圧を流す。兵ではなく、鎖の輪だけを震わせた。金具が浮き、偵察兵の刃が順に入る。
全員を今ここで連れ出すのは無理だ。護送兵は残り九、谷の出口にも増援の反応がある。
「右壁の割れ目へ!」
三人の捕虜が鎖を外され、岩陰へ滑り込む。鳥人は立ち上がろうとして崩れた。俺が背を低くすると、彼女は一瞬ためらい、首元の鱗へしがみつく。
黒い矢が飛ぶ。
右翼で受けるわけにはいかない。俺は左肩を向け、鱗で弾いた。
「撤退!」
捕虜列全部は救えない。今日の目的は命令文を読む者の確保だ。残る捕虜の顔を見れば、胸が裂けそうになる。
鳥人が喉の奥で三度鳴いた。
残された捕虜たちが一斉に伏せる。
次の瞬間、彼女は谷壁の脆い箇所を指した。俺が尾で打つと土煙が上がり、北軍の視界を塞ぐ。
俺たちは四人の捕虜を連れ、横穴へ退いた。
追手の足音が遠ざかるまで、誰も声を出さない。
鳥人は俺の背から降りると、折れた嘴を震わせた。声は石を擦るようにかすれている。
「その血統なら、命令文の罠を聞け」
左の革帯の奥から、鋭い視線が刺さる。
「聞こえないなら、王族ごっこは今すぐやめろ」
助けた相手から最初に言われた言葉が、それだった。
俺は腹を立てるより先に、背筋が冷えた。
「俺には聞こえる。毒嚢からも、黒旗からも」
「聞こえるだけなら、なお悪い。返事をするな。意味を考えるな。命令文は、理解した者の選択に化ける」
俺が自分で選んだと思ってきたことの中に、敵の声が混じっている可能性。
鳥人はそれ以上話さず、傷んだ喉を押さえた。
「国へ戻る。そこで治療する」
「国?」
「空環王国だ」
「王が留守にしても残っているなら、そう呼べ」
試すような言葉だった。
帰路で、三つの警報が解除された。都市核から届く圧は安定している。門は持った。
城へ戻ると、中央広場に負傷者はいたが、死者はいなかった。三門すべてが立っている。グラウは報告板の前で、部隊の損耗を数えていた。
「戻ったぞ」
「見れば分かる」
「王がいない間に勝手をしたな」
周囲が静まる。
俺は口元が上がるのを隠せなかった。
「よくやった。今日からグラウを正式な第一副官とする」
兵たちが拳を上げる。グラウは嫌そうな顔をした。
「仕事が増える」
「王の命令だ」
「命令は三つまでにしろ」
俺たちは、その日のうちに規則を決めた。王が不在の時の指揮継承。命令へ異議を唱える手順。どれほど苦しくても残す最低予備数。
俺がいなくても国は動いた。
それは寂しい。
そして、誇らしい。
◇
入隊したばかりの兵は、三門の戦いで一度も竜王を見なかった。
それでも命令は届き、水は流れ、負傷者は運ばれ、予備隊は最後に本命を止めた。
彼は隣の古参兵へ尋ねる。
「王がいないのに、どうして皆、動けたんですか」
古参兵は、泥だらけの三枚の命令板を示した。
「王が、自分なしで動けるようにしたからだ」
新兵は初めて、この小さな城を国だと思った。
◇
救出できた捕虜は四人。残りは北へ移送された。次に列へ追いつけるのは、遅くとも明日の夜明けまで。
鳥人は治療室で毒嚢の記録を聞き、鎖を三度鳴らした。
「その命令文には、二重目がある」
「何を命じている」
「今は読むな。王が自分の命令と他人の命令を分けられるか、先に確かめる」
彼女の名を、まだ誰も知らない。
だが一日の猶予しかないことだけは、全員が知っていた。
戦後確認では、三門に別々の欠点が見つかった。中央門は見える敵へ兵が集まりすぎ、西門は荷車を使い切り、東門は泥で飲料路まで濁った。
「勝ったのに欠点を書くのか」と新兵が不満そうに言う。
グラウは報告板を裏返した。そこには、死亡者零、重傷三、軽傷二十七とある。
「次も死亡者を零にするためだ。勝利と無傷は違う」
俺は三門の隊長を集めた。
「異議手順を決める。命令が目的に反すると考えた者は、所属と理由と代案を一息で言え。上官は却下しても、記録を消すな」
「戦闘中に議論するのですか」と副隊長。
「長話は禁止だ。『東隊、飲料汚染のため泥停止、網へ変更』なら一息だ」
「陛下の命令にも?」
「当然だ」
答えたあと、皆が本当に異議を言う場面を想像して少し怖くなった。
「ただし、俺が正しかった場合は従え」
ミーナが腕を組む。
「今の一文、いらないわね」
記録係が本当に削り、兵たちが笑った。
最低予備数は全兵の五分の一とした。門が破られても、その数だけは最後の避難路を守る。王や副官が倒れた時の継承順も、グラウ、セラ、各門隊長まで木板へ刻んだ。
「俺が戻れば済む」と言いかけ、やめる。
今日、俺は戻らなかった。それでも三門は残った。
治療室では、煤色の鳥人が温かい水を少しずつ飲んでいた。ポロが喉に合う温度を確かめ、セラは質問板を伏せている。傷ついた者へ、情報より先に水を渡す。それもこの国の順番だ。
鳥人は右目だけで俺を見た。
「なぜ、残りを捨てた」
「捨てていない。今日救えた四人を連れて退いた。明日、残りへ戻る」
「全部を欲しがる竜ではないのか」
「全部を欲しがる。だから今日全部を失う賭けはしない」
彼女は初めて、わずかに嘴の端を上げた。
「少しは王らしい」
「最初から王だ」
「王族の血と、王であることは違う」
また胸へ刺さる言葉だ。
鳥人は鎖の欠片を卓上へ置き、三度叩いた。一度目は短く、二度目は長く、三度目はまた短い。
「命令文には入口がある。聞き手が知っている言葉、恐れているもの、欲しいもの。そのどれかへ似せて入る。お前の場合は何だ」
俺は答えられなかった。
強くなりたい。皆を守りたい。王だと認められたい。
どれも俺自身の願いだ。だからこそ、その声へ敵の命令が似れば見分けにくい。
「明日までに考えろ」と鳥人。「残る捕虜の鎖には、聞いた者を護送側へ変える文が刻まれている。力だけで切れば、お前の兵が次の看守になる」
救出期限が一日という意味が変わった。
急がなければ列は北へ消える。急ぎすぎれば仲間を従属させる。
俺は命令板の三項目を見る。民を守る。深追いしない。予備を残す。
「明日の命令も、三つで足りるか」
グラウはしばらく考えた。
「足りるように、今夜準備する」
俺たちは王の帰還を祝わなかった。王がいなくても守れた防衛線を確かめ、次は敵の命令が届いても自分で選べる救出隊を作り始めた。
夜明けまで、もう長くない。
中央塔の鐘が一度鳴った。警報ではなく、次の当直へ時刻を渡す音だ。王がいてもいなくても、国の時間は同じ速さで進む。
俺は三項目の命令板へ爪を置き、明日の救出隊全員に読ませた。読めない者には隣の者が声にする。異議がある者には今ここで言わせる。
二つの代案が出て、一つを採用した。
命令文の罠を破る最初の力は、命令へ問い返せることなのかもしれない。
俺は鳥人が叩いた三度の音を覚え、夜明け前の暗い北門を見た。
次は、皆で帰る。
必ず。
主人公ステータス
【鑑定結果】
名前:アルド
種族:若き天空竜(個体ランクA)
Lv:52
HP:606/最大606(最大値ランクA)
MP:745/最大745(最大値ランクA)
攻撃:197(ランクC)
防御:203(ランクB)
速度:161(ランクC)
総合:719(個体ランクA)
技能:鑑定:ランクD Lv2(ランクD Lv2)/竜圧制御:ランクD Lv4(ランクD Lv4)/天空飛行:ランクD Lv3(ランクD Lv3)/領域知覚:ランクE Lv4(ランクE Lv4)/小隊指揮:ランクD Lv5(ランクD Lv5)/都市核接続:ランクF Lv2(ランクF Lv2)/合意接続:ランクE Lv3(ランクE Lv3)/合意制ダンジョン管理:ランクD Lv2(ランクD Lv2)
状態:右翼膜裂傷治療中、三門同時攻撃を撃退、グラウを第一副官へ任命、捕虜四名を救出、残る捕虜の救出期限は一日
【鑑定終了】




