第52話 水を断つ牙
水の音が、日に日に小さくなる。
建国二日目、百二十六日の朝。空環王国の地下配水層では、石壁を伝う一筋の水が、細い桶へぽつ、ぽつと落ちていた。
その前に並ぶ列は、三つの曲がり角を越えている。
「王たる俺は、水など飲まずとも三日は――」
ぐうう、と喉が鳴った。
俺は咳払いでごまかした。列の先頭にいた子どもが、空の椀を抱えたまま笑う。隣のミーナは笑わなかった。
「翼の治療中は水分を多く取れ、って言われたでしょう」
「これは民を安心させるための演説だ」
「渇いた声で?」
「王の声には深みが必要なんだ」
ポロが桶の底をのぞき込み、鼻先を水面へ近づけた。小さな水棲魔物である彼のひれが、ぴくりと震える。
「まだ、下を流れてる。止まってないよ。でも、いつもの道じゃない」
俺は床へ爪を当てた。領域知覚を地下へ伸ばすと、主水路は北側で完全に凍りついている。だが岩盤の割れ目を縫うように、ごく弱い冷気が動いていた。
「残流か」
「うん。石の下で迷ってる」
列の後ろで言い争う声が上がった。工房の職人が、自分たちには冷却水が要ると訴え、畑の者が作物を枯らす気かと返している。互いに正しいからこそ、声は鋭くなる。
セラが木板を壁へ打ちつけた。
「本日から配分を公開します。第一は飲料、第二は治療、第三は調理です。工房と畑は再利用水のみ。王族分は最後」
視線が俺へ集まる。
「異論はない。俺の椀も最後だ」
「陛下の治療分は第二です」
「最後でいい」
「翼が腐れば、全員の負担になります」
言い返せない。俺は列の最後ではなく治療班の列へ移された。威厳が少し減った気がするが、公開された規則を王だけが曲げるよりはましだ。
ポロが突然、床の排水穴へ顔を突っ込んだ。
「こっち。水の匂いがする」
ガンツが石蓋を持ち上げる。湿った冷気が上がり、その奥から細い水音が聞こえた。
「旧排水管だ。北工房の下を通って、西槽へ抜ける」
「逆に使えるか?」
「途中が生きていればな。だが人が入れば崩れる」
俺は翼の固定布を見下ろした。飛べなくても、穴には入れる。
「俺が――」
「入らないわよ」
ミーナが固定布の結び目をつまんだ。
「まだ何も言っていない」
「顔が穴に入ってた」
代わりにポロが旧排水管へ滑り込み、ガンツが入口を広げた。俺たちは配水槽側で待つ。しばらくして、水位が指一本ぶんだけ上がった。
歓声が湧く。
次の瞬間、ポロが管から飛び出した。
「飲んじゃだめ!」
彼の体表が紫色に曇っていた。槽の水面にも油のような膜が浮かぶ。甘い匂いが鼻を刺し、舌の奥が痺れた。
「全員、槽から離れろ!」
俺が尾で柵を倒し、列を押し戻す。セラは即座に木板の「飲料」の文字へ赤い布をかけた。
ポロが水面へ両ひれを広げる。
「毒だけ、こっちへ集める。水まで凍らせたら足りなくなるから」
薄い氷が、紫の膜の下だけに生まれた。ポロは震えながら毒の層を一枚の板に固め、ガンツが鉄鉤で引き上げる。
氷板の中心には、拍動する袋があった。
黒い筋が伸び縮みし、旧排水管の奥へ根を張っている。
【鑑定結果】
対象:従属毒嚢
種族:従属器官
個体ランク:B
技能:水質汚染、命令中継
状態:地下従属体と接続中
「北の軍が入れたものです」とセラが言う。「水を止めるだけでなく、残った水を疑わせるつもりでしょう」
列の人々が槽を見る。さっきまで希望だった水が、今は誰にも触れられない。
「疑うのは正しい」
俺は皆へ向き直った。
「だから、飲む前にポロが確かめる。確かめた水だけを配る。敵が毒を入れたことと、俺たちが互いを疑うことは同じではない」
職人が椀を置き、深く息を吐いた。畑の者も黙って列へ戻る。
毒嚢が、びくりと脈打った。
旧排水管の壁が内側から溶ける。酸の泡が継ぎ目を走り、石材が白煙を上げた。
「下がれ!」
ガンツが鋼板を差し込むが、酸は板の縁を回ってくる。管の奥から、節のある牙が何本も突き出した。
「追うな」とグラウが言った。「奥で天井を崩す気だ」
「放置すれば配水層まで食われる!」
「本体を引き出す」
グラウは兵に、東側の空洞を掘らせ始めた。敵から見れば、迂回して追ってくる振動に聞こえる。俺は領域知覚を地面へ集中し、返ってくる揺れを読む。
酸を吐くたび、管の奥で三つの節が動く。だが東の掘削音が近づくと、最も大きい反応が西へずれた。
「罠に食いついた。西壁の裏だ!」
ガンツが支柱を一本抜いた。石壁の一部だけが崩れ、黒い甲殻の関節が露出する。
ミーナが踏み込んだ。
「二撃だけよ」
治療班との約束を自分に言い聞かせるように呟き、同じ場所へ拳を二度叩き込む。甲殻の継ぎ目が割れた。
地中の怪物が暴れ、鞭のような尾がミーナの背へ回る。
俺は前脚で受けた。鱗が削れ、酸が焼ける。
「三撃目はなしだ!」
「分かってる!」
ミーナは後退し、ガンツの鋼板の陰へ入る。俺も敵を追わず、尾を床へ押さえつけた。
「ポロ、袋だけを止められるか!」
「やる!」
ポロの冷気が、槽全体ではなく毒嚢へ細く伸びる。黒い拍動が一度、二度、三度と遅くなり、完全に止まった。
命令を失った地下の怪物は、酸を吐き散らしながら後退する。追えば天井が落ちる。俺は噛みつきたい衝動をこらえ、尾を放した。
敵は旧管の奥へ消えた。
「逃がしたな」
「水を守った」とグラウが返す。「目的を取り違えるな」
その言葉に腹が立たなかったのは、たぶん俺も同じことを考えていたからだ。
ガンツは壊れた旧管を調べ、壁へ印をつけていく。
「北の主水路へは届かん。だが旧排水管と西槽をつなぎ直せば、残流を七割まで拾える」
「全部ではないのか」
「七割を笑うな。今の俺たちには命だ」
昼までに、ガンツは二本の迂回管を組んだ。一方を飲料に、もう一方を排水に使い、非常時には人が這って逃げられる幅を残す。配水路がそのまま避難路になる。
ポロは水を三度ろ過し、一杯ずつ匂いを確かめた。最初の椀を子どもへ渡し、次を治療班へ。俺の分が来たのは、列が半分になってからだ。
冷たい水が喉を通る。
これほど旨いものを、俺は知らなかった。
「王は水など要らないんじゃなかった?」
ミーナが聞く。
「民が安全を確かめた後なら、王には味見の義務がある」
「三杯目も?」
俺は椀を背中へ隠した。
槽の脇では、セラが毒嚢を厚い硝子箱へ封じている。
「これは処分しません。毒の組成を調べれば解毒薬になる。腐敗を遅らせる性質だけ分けられれば、食料保存にも使えます」
「敵の牙を、冬の備えに変えるのか」
「使い方を決めるのはこちらです」
毒嚢の表面に、細かな震えが走った。
意味のない音だと思った。だが俺の血が、それを言葉として拾う。
『流れに沈め。名を捨てよ。北の主に従え』
命令だった。
黒旗の声と同じ、竜の言葉で組まれた従属命令。
俺が硝子箱へ近づくと、額の奥が熱くなる。誰かが遠くから、毒嚢を通して俺にまで命令を届かせようとしている。
「アルド?」
ミーナの手が肩へ触れた。
俺は歯を食いしばり、声を振り払う。
「箱を二重にしろ。通信核の破片とは別室へ。誰も一人で聞くな」
セラが俺の顔を見た。
「何が聞こえました」
「従え、と。毒を流す道具にまで、同じ命令を刻んでいる」
「ヴァルガの従属印と関係が?」
「まだ分からない。分からないから、同じものだと決めつけない」
俺は自分にも言い聞かせた。
夕方、迂回管から安定した水が落ち始めた。主水路は凍ったまま。七割の供給では畑も工房も以前どおりには動かせない。それでも列の椀は空にならずに済む。
ポロは配水図の中央へ座り、流量札を次々と動かしていた。
「飲む方を先。余ったら治療。洗った水はこっちで沈めて、畑へ。急に減ったら鐘じゃなくて青い板を三回」
昨日まで彼は、水の中で敵を止める役だった。今は王国全体の水を見ている。
「ポロ、水の管理を任せる」
「ぼくが?」
「一滴の残りまで聞ける者は、お前しかいない」
彼はしばらく口を開けたまま固まり、それから力強くうなずいた。
都市核が温かく脈打つ。
守った水、公開した順序、役目を得た仲間。三つの変化が俺の内側で重なり、硬い殻を一枚押し広げた。
力が増す。
だが喜ぶより先に、封じた毒嚢からまた声がした。
今度は、俺の名を探すような響きだった。
北の敵は、水を止めるだけではない。
命令を流す道そのものを、俺たちの国へ通そうとしている。
配水再開の直後、別の問題が起きた。迂回管に近い家だけは水が早く届き、南端の住居では椀一杯を満たすのに倍の時間がかかったのだ。
「先に並んだ者が先でいいだろう」と工房の男が言う。「こっちだって夜通し管を直した」
「南の治療所には熱を出した子がいる」と別の者が返す。
俺は二人の間へ尾を置いた。
「配る順番は、声の大きさで決めない。必要量と届くまでの時間を札にする」
ポロは配水図の上で考え込み、青い石を置き始めた。水が一刻で届く場所に一個、二刻なら二個。遠い場所ほど先に弁を開き、近い場所は後からでも間に合うようにする。
「同じ時に椀がいっぱいになるようにするんだ」とポロ。
「できるのか?」
「水は、近いところへ行きたがる。でも入口を少し狭くしたら、遠いところにも行く」
ガンツが木栓を削り、管ごとに太さを変えた。最初の試験では南槽があふれ、二度目は工房側が止まった。三度目に、七つの槽の水位がほぼ同時に印へ届いた。
子どもたちが拍手し、ポロは照れて水へ潜った。
俺は毒嚢の研究室へ移った。硝子箱の周囲には、セラが三重の線を引いている。内側は触れてよい者、中央は記録係、外側は見張り。誰かが命令を聞いても、単独では箱を開けられない。
「ヴァルガの三鍵拘束と同じ考えか」
「一人の正しさを信用しすぎないためです」とセラ。「陛下も例外ではありません」
「俺は従属などしない」
「命令されている者ほど、自分の意思だと思うかもしれません」
胸へ細い棘が刺さった。毒嚢の声を聞いたとき、俺は箱を壊したいと思った。それが自分の怒りだったのか、壊せという隠れた命令だったのか、証明できない。
「なら記録しろ。俺が箱へ近づいた時に考えたことも、全部だ」
「公開しますか」
「軍機に触れない範囲でな。王が命令に揺らぐ可能性を隠せば、他の者が申告できなくなる」
セラは少し驚き、それから新しい記録板を出した。
夕刻、試験用に毒嚢から針先ほどの液を採った。解毒草へ一滴落とすと葉は黒くなったが、薄めた液では腐りかけの肉の変色が遅くなった。毒と保存の境は量で変わる。
「今日から口へ入れる試験は禁止」と俺は告げた。「まず虫、次に小動物、その後も全員の同意がなければ人には使わない」
空腹を恐れるあまり、毒を急いで食料へ使えば敵の思うつぼだ。
配水槽へ戻ると、遠い南区の老女が空の水甕を持って待っていた。俺は自分の椀を差し出しかける。
老女は笑って首を振った。
「王様、それは薬を飲む分でしょう。私の水は今、管の中を来ています」
本当に、遠い管から水音が近づいてくる。ポロが調整した流れは、やがて老女の甕へ落ちた。
力で奪い返した水ではない。順番を決め、毒を見つけ、誰も見えない管の中まで仲間がつないだ水だ。
俺は最後の一杯をゆっくり飲んだ。喉の渇きだけでなく、国全体に張りついていた焦りが少し和らいだ。
その夜、ポロは配水図を抱いたまま眠った。青い石は七つの槽を結び、旧排水路の先まで続いている。逃げ道にもなる管を、彼は一滴も無駄にせず覚えようとしていた。
俺は眠る彼へ毛布をかける。
毒を流す者がいるなら、こちらは命を運ぶ流れに変える。
それが、この国の返事だった。
深夜、迂回管の流量が一度だけ落ちた。敵の再襲撃かと兵が武器を取ったが、原因は泥の塊だった。ポロは管へ入り、詰まりを抱えて戻ってくる。
「戦いじゃなかったね」
「戦いでなくても、水が止まれば同じ結果になる」
俺たちは見張り表へ、敵の有無ではなく流量の数値を書く欄を足した。異常があれば鐘を鳴らす前に二人で測り直す。恐怖で全軍を動かせば、敵は小石一つで俺たちを疲れさせられる。
ポロは七つの槽をもう一度巡り、耳で水音を確かめた。俺も後を歩く。翼の痛みで遅れると、彼は急かさず各槽で待った。
最後の南槽には、昼の老女が蓋を作っていた。布と木を重ね、埃も毒針も入らない形だ。
「守られるばかりでは悪いからね」
国の水は、ポロだけのものでも王だけのものでもない。受け取った者が次の一滴を守る。その輪が七つの槽へ広がっていた。
毒嚢の声はまだ壁の向こうにある。それでも今夜、誰も一人では箱へ近づかず、誰も確かめない水を口にしなかった。
敵の命令より先に、自分たちで決めた手順が働いている。
主人公ステータス
【鑑定結果】
名前:アルド
種族:若き天空竜(個体ランクA)
Lv:51
HP:598/最大598(最大値ランクA)
MP:735/最大735(最大値ランクA)
攻撃:194(ランクC)
防御:200(ランクB)
速度:159(ランクC)
総合:709(個体ランクA)
技能:鑑定:ランクD Lv2(ランクD Lv2)/竜圧制御:ランクD Lv4(ランクD Lv4)/天空飛行:ランクD Lv3(ランクD Lv3)/領域知覚:ランクE Lv4(ランクE Lv4)/小隊指揮:ランクD Lv5(ランクD Lv5)/都市核接続:ランクF Lv2(ランクF Lv2)/合意接続:ランクE Lv3(ランクE Lv3)/合意制ダンジョン管理:ランクD Lv2(ランクD Lv2)
状態:右翼膜裂傷治療中、従属毒嚢を無力化、主水路は封鎖継続、迂回供給は平時比七割
【鑑定終了】




