第51話 建国鐘を裂く黒い空
建国の鐘が、途中で死んだ。
祝宴のざわめきが残る空環王国の中央広場で、俺は空になった杯を高く掲げていた。干し果実を煮た祝い酒は甘いくせに、喉の奥だけを妙に熱くする。
「民よ、安心せよ! この空環王国の王がいるかぎり、宴の火は消えぬ!」
言い切った直後、北水門の方角から鳴っていた鐘が、二打目の途中で途切れた。
ごん、と鈍い余韻だけが夜空を転がる。
俺の足元が、ほんの少しだけ揺れた。酔いではない。都市核を通じて伝わった衝撃だ。
隣で杯を取り上げたミーナが、獣の耳をぴんと立てた。
「その口上、あとにして。アルド、北よ」
「分かっている。今のは民を落ち着かせるための王者の――」
「声が裏返ってたわよ」
「酒のせいだ」
「一杯で?」
言い返す前に、黒い矢が広場の上を走った。
矢は人を狙わず、建国旗をつるした綱を射抜いた。白い環を描いた旗が落ち、焚き火のすぐ脇へ沈む。悲鳴が上がったが、ミーナが踏み込み、燃え移る寸前の旗を蹴り上げて俺へ寄越した。
俺は翼で風を起こし、火の粉を払う。
「宴を中止する! 子どもと負傷者は地下広間へ。走るな、隣の者の手を取れ!」
「聞いたでしょう!」
ミーナの声が俺の命令を支えた。さっきまで笑っていた者たちが、訓練どおり二列に分かれる。恐怖は消えない。それでも恐怖の向きをそろえることはできる。
夜空を見上げる。
星を隠す黒い塊が、北から滑ってきていた。翼の長い魔物が十二、短い翼が二十以上。その背に結びつけられた細長い旗は、夜よりも濃い黒だ。旗の縁だけが紫色の魔力を帯び、飛ぶたびに空気を薄く鳴らす。
北の水路と二本の空路は、昼のうちに氷で塞がれた。今度は夜襲。だが矢は祝宴の旗を落としただけだ。
殺すためではない。
見せるためだ。
「全員に告ぐ。先に殴るな」
俺が言うと、門へ駆けようとしていた若い兵が踏みとどまった。
「しかし陛下、鐘が!」
「鐘より命だ。北の畑と水上工房に、まだ帰っていない者がいる。ガンツ、北水門の受けを固めろ。グラウ、外の作業班を数えろ。セラは敵の目的を読む。俺は空を見る」
「王が一番危ない場所を見るって意味じゃないでしょうね」
ミーナが低く言う。
治療班から受けた前線制限は、三日後まで続く。彼女を飛ばすつもりはない。俺も胸を張った。
「当然だ。俺は賢い王だからな」
「賢い王は今、杯を靴で踏んでる」
足元で木杯が割れた。
誰も笑わなかった。だから俺は、わざと鼻を鳴らした。
「国費で新しいのを作る。行け!」
号令と同時に、広場が動いた。
俺は都市核へ意識を沈める。北の輪郭が、冷たい痛みとして頭に浮かぶ。北水門の鐘楼は上半分を削られ、鐘を打つ横木が落ちている。門外には七つの小さな反応。帰還途中の水上工房班だ。そのさらに北、氷に閉ざされた水路沿いに、黒旗の魔力が網のように広がっていた。
敵の先頭へ鑑定を向ける。
【鑑定結果】
対象:黒旗翼獣
種族:翼獣
個体ランク:A
技能:高所射撃、進路封鎖
状態:遠隔命令受信中
二列目で、ひときわ旗の長い個体を読む。
【鑑定結果】
対象:黒旗翼将
種族:翼獣
個体ランク:S
技能:編隊指揮、魔力反射
状態:遠隔命令受信中
その旗の向こうに、姿のない重さがある。鑑定は像を結ばず、ただ額の奥を焼いた。
【鑑定結果】
対象:遠隔圧力源
個体ランク:SS相当
状態:鑑定遮断
「主力はA、指揮個体がS。その背後にSS相当の遠隔圧力。来ているのは軍の爪先だけだ」
セラが落ちた旗を拾い、灰を払った。祝宴用の白い上着の裾が汚れても、目は北から離れない。
「なら目的は占領ではありません。今夜のうちに恐怖を植え、退路を断ち、明日の降伏を容易にする。威圧と封鎖準備です」
「作業班を見殺しにすれば、奴らの勝ちだな」
「救えば追撃されます」
「それでも救う」
言葉が早すぎたかと思った。けれどセラは一度だけうなずいた。
「では、救う順序を決めてください。全軍を出せば城内が空になります」
そこへグラウが走ってくる。酒は飲んでいなかったらしく、足取りに乱れはない。
「門外七名。水上工房班五名、警備二名。北畑の班はすでに南地下口へ入った。敵編隊は三層。上の十二が射撃、中の九が旗、下の群れは見せ札だ」
「どうして分かる?」
「下の群れは翼音がそろいすぎている。攻撃隊なら互いの風を食う配置だ。こちらの目を下へ向けたい」
俺も領域知覚を絞り直した。黒い影の下ではなく、その後ろ。北水門から城内へ戻る道の両側に、小さな反応が伏せている。
「退路側に別働隊か」
「おそらく。外班を走らせ、門前で挟む」
胸の奥に熱が湧く。敵の策を読めた喜びではない。俺たちの七人を、恐怖を見せる道具にしようとしていることへの怒りだ。
「俺が飛んで上を散らす」
「翼を狙われる」
「なら竜圧で落とす」
「旗が魔力反射だと、さっき自分で鑑定しただろ」
グラウの返事には遠慮がなかった。
俺は牙を見せかけ、引っ込めた。王が腹を立てる場面ではない。
「代案は」
「二段階で退く。外班は鐘楼跡まで走る。ガンツが盾壁を出す。敵が門前へ寄ったら、俺の隊が偽の退路を西へ開く。本当の退路は鐘楼の床下だ」
北水門の鐘楼には、修理用の細い通路がある。人間なら通れるが、翼獣は入れない。
「門はいつ閉じる」
「七人が床下へ入った後。陛下は閉門まで上を抑えてくれ。ただし旗へ圧を撃つな」
「俺に我慢しろと言うのか」
「王ならできる」
卑怯な言い方だ。
「できるに決まっている」
俺は北水門へ駆けた。
飛べば早い。だが黒旗はそれを待っている。屋根から屋根へ跳び、低い位置を進む。追ってくるミーナが、俺の右側から離れない。
「お前は広場に残れ」
「前線制限は飛行と突撃。走って王の無茶を止めるのは治療よ」
「そんな治療法は聞いたことがない」
「今できたの」
北水門では、ガンツが鉄板と荷車を積み上げていた。完成した壁ではない。外側へ倒せば盾になり、内側へ倒せば門の補強になる角度だ。
門外から七つの灯りが揺れてくる。
「帰還班、鐘楼跡まであと百二十!」
見張りが叫ぶ。
同時に空から矢が降った。
黒い雨は灯りの前後へ刺さり、七人の足を細い道へ追い込む。直接狙わず、進路を作っている。道の先には伏兵がいる。
「右へ寄れ! 青灯を追え!」
グラウの隊が、鐘楼の西に青い灯りを三つ掲げた。敵に見せる偽の退路だ。七人は一瞬迷ったが、先頭の警備兵が青灯へ向かう。
「違う、床下は東――」
俺が声を上げる前に、青灯が一斉に西へ走り出した。帰還班はその場で地へ伏せる。ガンツが荷車の留め具を斧で切った。
鉄板の壁が轟音とともに外へ倒れ、七人を矢から隠す。
その音に釣られ、道の両側から伏兵が飛び出した。毛の抜けた四足獣が八。首に黒い札を打ち込まれている。奴らは動く青灯を追い、西へ曲がった。
「今だ! 床板を上げろ!」
グラウが叫ぶ。
伏せていた七人の下で板が開く。一人、二人、三人。工房の職人が警備兵に押され、地下へ滑り込む。
上空の翼将が甲高く鳴いた。
黒旗の縁が紫に光る。反射の準備だ。
俺は喉に溜めていた竜圧を、あえて旗ではなく北の空へ放った。圧の壁が矢の軌道を押し曲げる。何本かは落ち、残りは鉄板へ突き刺さった。
翼将が旗をひねる。
俺の圧が空中で折れた。
見えない刃になって、北水門へ戻ってくる。
「アルド!」
ミーナの声より先に、俺は右の翼を広げた。門前には、最後の一人が残っている。翼を盾にして圧を受け流す。
膜が裂ける音は、濡れた布を乱暴に破ったときに似ていた。
熱い痛みが肩から翼端まで走る。足が石畳を削り、爪が一本割れた。それでも圧の向きはわずかに上へ逸れた。
逸れた先で鐘楼の残骸が吹き飛ぶ。
鐘は二度と鳴らなくなった。
「全員、入った!」
地下から声が上がる。
「門を閉じろ!」
俺は叫んだ。
ガンツが鉄板を引き戻し、兵たちが鎖を巻く。重い北水門が閉まり始める。敵は追わない。黒旗の編隊は高度を保ったまま、俺たちが門を閉じる様子を見下ろしていた。
逃げ道を一つ奪った、と見せつけるように。
最後の隙間が閉じる寸前、翼将の旗から低い声が響いた。
人の言葉ではない。
俺の骨の内側が、その意味を勝手に理解した。
『逃亡王家の卵は、孵ったか』
門が閉じた。
誰も死ななかった。
だが勝った気はしなかった。
ミーナが俺の裂けた翼へ手を伸ばし、触れる直前で止める。
「痛む?」
「王の翼だ。この程度――」
「痛むのね」
「少しだけだ」
彼女の眉が寄った。叱る顔なのに、指先は震えている。
「次に同じことをしたら、左も殴るわ」
「左右をそろえる必要はないだろう」
「冗談を言えるなら歩ける。治療班へ」
俺は閉じた門を見た。北水門は使えない。鐘楼も失った。氷で塞がれた本流から汲み置いた水は、一日分しかない。
救った七人が地下口から上がり、俺を見る。水上工房の老職人が帽子を胸へ押し当てた。
「陛下、助かりました」
「礼はガンツとグラウに言え。俺は門を壊されただけだ」
「それでも最後まで門の外を見ていたのは、陛下です」
胸を張りたくなった。けれど俺の翼から落ちた血が、石畳に小さな輪を作っている。
今夜の敵は、俺たちを殺しに来たのではない。
何を守れば苦しむのか、確かめに来たのだ。
「セラ。明けるまでに警報を三つに分ける。空からの敵は色旗、門の破損は鐘、地下からの接近は振動術式だ。一つを止められても、残りで伝わるようにする」
「鐘は壊されました」
「南と東の鐘を使う。北には打音板を置け。音の種類を変えればいい」
「承知しました」
「ガンツは門の仮補強。グラウは今夜の退避を全隊へ教えろ。七人が生きた理由を、明日には全員が再現できるようにする」
「陛下は?」
グラウの問いに、俺は裂けた右翼をたたもうとした。痛みで顔が引きつる。
「治療だ」
「珍しく正しい」
「王はいつも正しい」
その声がまた少し裏返り、今度だけは皆が笑った。
◇
国境砦の人間兵は、遠眼鏡から目を離せなかった。
北の空に黒旗が並んだとき、彼は新しい魔物の国が一夜で潰れると思った。竜の王なら、怒りに任せて飛び上がり、敵と地上の者をまとめて焼くだろうとも。
だが若い竜は門前へ残り、人間の職人たちが地下へ消えるまで翼を広げていた。
黒旗が去ったあと、砦の副官が尋ねた。
「連中は何を守った?」
兵は遠眼鏡を下ろす。
「人です。魔物も人も、区別なく」
「竜の国が?」
北水門は壊れ、鐘も止まっている。それでも城内では、新しい色旗が上がり始めていた。
「はい。だから、まだ国なんだと思います」
◇
治療布で翼を固定されながら、俺は黒旗の言葉を何度も思い返した。
逃亡王家の卵。
それは、俺のことなのか。
問いに答える者は、敵陣の向こうにいる。
都市核から、水位低下を知らせる震えが届いた。
王家の謎を追う前に、明日の水を守らなければならない。
国は、待ってくれない。
治療室を出るころには、夜が白み始めていた。俺は飛べないまま、三つの警報を確かめて歩いた。南塔では赤、黄、青の布を昼夜で見分けられるよう、縁へ異なる数の切れ込みを入れている。東鐘楼では一打を空、二打を門、連打を避難と決めた。北の地下では、振動板を踏むたび石床の別々の場所が震える。
「目の見えない者には色旗が分からん。耳の聞こえない者には鐘が分からん。地下にいる者には両方届かん」
俺が言うと、セラは三種の札を一本の紐へ結んだ。
「だから同じ危険を三つの方法で伝えます。誰か一人へ伝われば、その者が隣へ伝える」
避難した子どもたちにも試してもらった。鐘の数を間違えた子には、叱る代わりに旗を上げさせる。足の悪い老人は、振動板の合図が速すぎると教えてくれた。戦う者だけで決めれば、逃げる者が使えない制度になる。
北門へ戻ると、救出された七人が壊れた鐘の破片を拾っていた。
「捨てるのか」と尋ねると、老職人は首を振る。
「溶かして、地下の打音板にします。止められた鐘が、次の警報になる」
敵に壊されたものが、別の形で国を守る。その考えは、俺の傷よりずっと強い。
夜明けの最初の光が、裂けた右翼の治療布を照らした。黒旗は北の雲へ退いている。去ったのではない。こちらが眠り、渇き、互いを責め始めるのを待っている。
俺は三つの警報を同時に鳴らさせた。
赤旗が上がる。鐘が響く。足元が三度震える。
驚いた民が戸口から顔を出し、すぐ訓練だと気づいて所定の場所へ動いた。昨夜より速い。完璧ではない。それでも誰も一人ではない。
「聞こえるか、北の軍」
俺は黒い空へ呟いた。
「お前たちが一つ裂くたび、俺たちは三つ作るぞ」
返事はなかった。だが三つの合図は朝の城壁を越え、凍った水路の向こうまで響いた。俺はその余韻が消えるまで、空から目を逸らさなかった。
主人公ステータス
【鑑定結果】
名前:アルド
種族:若き天空竜(個体ランクA)
Lv:50
HP:590/最大590(最大値ランクA)
MP:725/最大725(最大値ランクA)
攻撃:192(ランクC)
防御:198(ランクC)
速度:157(ランクC)
総合:700(個体ランクA)
技能:鑑定:ランクD Lv2(ランクD Lv2)/竜圧制御:ランクD Lv4(ランクD Lv4)/天空飛行:ランクD Lv3(ランクD Lv3)/領域知覚:ランクE Lv4(ランクE Lv4)/小隊指揮:ランクD Lv5(ランクD Lv5)/都市核接続:ランクF Lv2(ランクF Lv2)/合意接続:ランクE Lv3(ランクE Lv3)/合意制ダンジョン管理:ランクD Lv2(ランクD Lv2)
状態:右翼膜裂傷、飛行禁止で治療中、北水門と鐘楼は使用不能、飲料水備蓄は残り一日分
【鑑定終了】




