第39話 若き天空竜
転生八十六日目。目を開けたつもりなのに、何も見えなかった。
身体が石になっている。前脚を動かそうとしても、どこにあるのか分からない。翼の痛みも、石床の冷たさも消え、代わりに全身を内側から焼かれるような熱だけがあった。
「水を、止めるな……」
声を出したつもりだった。実際には喉から空気が漏れただけらしい。
遠くでグラウが言う。
「命令は受けない。もう変態が始まっている」
何だと。余はまだ許可していない。
反論しようとした瞬間、背骨が軋んだ。裂けていた左翼だけではない。二枚の翼が根元から引かれ、骨の中へ新しい枝を差し込まれる。悲鳴すら出ない。意識が白く飛んだ。
次に浮かんだ時、俺は狭い殻の中にいた。
ガンツが作った耐圧殻だと、声で分かった。晶殻百足の板と岩鎧猪の皮を重ね、卵殻城の進化区画を丸ごと囲んでいる。俺の鱗から滲んだ白い液が内壁へ広がり、自分自身の殻を作っていた。
「圧力、上がった」
ポロの震える声。
「栄養水を一目盛り。温度は?」
「炉側、変化なし。殻内だけ上昇だ」
ガンツが答える。
「アルド自身の熱だ。冷やしすぎるな」
「四日分しかありません。予定より速く使ったら、最後に足りなくなります」
その四日分は、昨夜までの既存在庫一・五日分、旧外環の封鎖倉から回収した一日分、人間支援班と空牙狼班が差し出した各〇・七五日分の合計だ。食堂では健康な成体の配給を二日間だけ四分の三へ減らし、工房も弁と医療具以外は止めている。俺の進化が長引くほど、皆が先に払った代償だけが重くなる。
「一刻ごとに量る。今は増やせ」
管から冷たい栄養水が流れ、喉へ染み込む。飲んでいる感覚はない。それでも熱が少し和らいだ。
「余は、空環城へ……」
今度は声になった。
ミーナがすぐ近くへ来る気配がした。
「行かない。あなたは四日寝る」
「四日も寝たら、城が……」
「昨日、取り返す順番を間違えて撃ち落とされたでしょ」
「あれは二日目の話だ。三日目は勝った」
「三日目も痛みを隠した」
言い返す言葉がない。
「空環城の完全奪還より、進化防衛を優先する」
グラウの声が響いた。
「ガンツは殻と熱。ポロは水と栄養。ミーナは前線へ出ず、三拠点の見張りを組む。俺は残党と物流を見る。アルド、お前の仕事は眠ることだ」
「王へ眠れと命じるとは……」
「王命停止、二件目だ」
腹立たしい。だが、怒りより眠気が強い。
「勝手に……うまくやれ……」
「最初からそのつもりだ」
それが聞こえたのを最後に、俺の意識は沈んだ。
暗闇の中で、身体が一度ばらばらになった。
古い鱗が溶け、筋肉が熱い水へほどける。骨だけが残り、その骨も柔らかく曲がった。翼の裂け目は塞がるのではなく、傷ごと古い膜が剥がれ落ちる。肺の奥へ、今までなかった空洞が生まれる。吸った風を溜め、身体の各所へ送る器官だ。
痛い。怖い。
もしここで水が止まれば、溶けた身体は戻らない。炉の熱が消えれば、新しい鱗が固まらない。敵が殻を割れば、俺には爪一本動かせない。
卵だった頃より無防備だった。あの時は声で洞鼠を誘導できた。今は声すら長く出せない。
どれほど時間が経ったか分からない。
突然、冷たくなった。
栄養水の流れが細くなっている。
「主水路、圧が落ちました!」
ポロの声が殻越しに響く。
警鐘。遠くで三度、近くで二度。黒旗残党だ。
俺は起きようとした。身体がない。意識だけが殻の内側で暴れる。
「グラウ!」
声は出ない。
それなのに、卵殻城の水路がぼんやり見えた。
目で見ているのではない。石管を流れる水、歩く者の足音、風袋の震えが、一つの広い感覚として頭へ入ってくる。近くは鮮明、遠くは霧。俺の周囲二十歩ほどが、殻の外から感じ取れた。
水路入口に黒翼兵四体。三体が水管へ鎖杭を打ち、一体が見張りを牽制している。こちらの防衛班は五名。俺が命じれば――。
命じられない。
ポロが自分で叫んだ。
「主水路を捨てます! 予備地下水路へ切替! 残量札、青から白へ!」
見張り二名が敵へ向かい、残りが弁を閉じる。黒翼兵の初撃が皮盾へ刺さる。一枚目は耐えた。二撃目で縫い目が裂け、持ち手が転倒する。
「盾を重ねないで、角度を変えて!」
ポロは戦士ではない。声が震えている。それでも前へ出ず、管の影から指示を続ける。
二枚の盾が斜めに開く。三撃目の針は一枚目を滑り、石壁へ刺さった。見張りがその隙に縄矢を放ち、一体の脚へ絡める。
敵は縄を切り、水管へ刻印を投げた。紫の鎖が流量板に「全開」と命じる。
「私はポロ! 目的は進化区画の給水維持! 白弁だけ開けます!」
肉声復唱。予備管の水が細く戻る。
俺の喉へ冷たさが染みた。
一方、炉の音が弱まった。
領域の端で、別の衝撃。工房側の排熱口を黒翼兵三体が塞いでいる。熱を止めるのではない。排気を逆流させ、炉を過熱させるつもりだ。
ガンツが停止板へ走る。
「主炉を切る!」
工房班の若者が叫んだ。
「切ったら進化区画が冷えます!」
「主炉を捨て、卵殻城の小炉二基へ分ける。全部を一つで温めるから狙われる」
ガンツは白管を槌で切った。最初の一撃では割れない。逆流熱が工房へ吹き出し、作業員二人が腕を火傷した。
二撃目の前に、黒翼兵が排熱口から針を放つ。ガンツの背へ向かう。
避けろ、と叫びたい。
革職人が岩鎧猪の皮幕を投げ、針を受けた。一度目で皮が裂け、二本目が男の肩を掠める。
「縫い目を二重にした!」
男は歯を食いしばり、幕を広げ続ける。
ガンツの二撃目で白管が割れた。主炉の熱が落ちる。殻の中が冷え始め、俺の新しい鱗が軋む。
すぐに床下から二つの小さな熱が近づいた。移動式小炉だ。工房班が左右へ一基ずつ運び、ガンツが交互に熱を送る。
「同時に上げるな。右一目盛り、左は待て。殻の収縮を見ろ」
一度目、右の熱が強すぎた。新しい翼骨が痛み、殻に細い亀裂が走る。
「下げます!」
「止めるな、半分だ!」
二度目の調整で、温度が戻る。敵に主炉を止められても、熱は消えなかった。
残る一方向、外部狩場から振動が来た。
敵は進化区画を直接襲っていない。食料と薬を運ぶ物流路へ六体。こちらの三方向へ合計十三体。中継個体を失っても、残党は考えている。
グラウが旧運搬路で待っていた。
荷車は三台。栄養肉、薬、水袋。敵が急降下すると、物資隊は荷を捨てて散った。
俺は驚いた。四日分しかない栄養を捨てるのか。
黒翼兵が中央の荷車を掴む。布が裂け、中から石が落ちた。偽荷だ。
本物の栄養肉は、荷車ではなく狩猟班が小分けに背負い、地下の細道を走っている。
「一台に積めば速い。でも、一台を失えば終わる」
グラウの声が聞こえた。
敵は偽荷に気づき、二体が細道へ向きを変える。空牙狼班が左右から飛び、先頭の翼へ噛みつく。黒翼兵は一頭を振り落とし、爪で背を裂いた。
グラウの風弾が一撃。敵の頭がずれる。二撃目を同じ翼へ当てるが、黒翼兵は仲間を盾にして防ぐ。
「撃つな!」
グラウは射線を止め、風を地面へ当てた。砂煙が上がり、敵の視界が消える。その間に負傷した空牙狼を二頭が引き、細道の奥へ退く。
敵は煙を突き抜けた。予測より速い。先頭の狩猟者へ爪が迫る。
ミーナの声が響いた。
「右へ三歩! 伏せて!」
彼女は前線にいない。翼膜の治療を受けながら、高い見張り台で三拠点の鐘を聞き、伝声管へ指示を送っている。
狩猟者が右へ飛ぶ。爪が背負い袋を裂き、栄養肉の一部が落ちた。敵が肉へ降りる。
「拾いに戻らない!」
ミーナが続ける。
「残りを進化区画へ。落とした分は敵へ渡していい!」
惜しい。四日分の一部だ。それでも、拾う者が死ねば残りも届かない。
グラウが第三の風弾で敵を肉から離し、工房製の網が下から開く。最初の網は爪で切られた。二枚目を同じ位置ではなく、上へ逃げる進路に置く。黒翼兵二体が絡み、高度を失った。
空牙狼班は仕留めに行かず、物資隊の後ろへ戻る。目的は撃破ではない。栄養を届けることだ。
三方向の攻防が重なり、俺の領域感覚は痛いほど広がった。水の一滴、炉の火、運搬路の足音。すべてへ手を伸ばしたくなる。
だが、俺の手は動かない。
ポロが予備水路を選び、ガンツが小炉へ分け、ミーナが見張り台から戻るなと命じ、グラウが偽荷を捨てる。誰も俺の命令を待っていない。
悔しいはずなのに、胸の奥に安堵が満ちた。
眠っていても、国は止まらない。
戦いは半日続いた。
水路班は黒翼兵を倒そうとせず、最後の刻印杭を逆流弁ごと切り離した。主水路は失ったが、予備水路は守った。工房班は排熱口へ泥と濡れ皮を詰め、敵の逆流を止めた後、小炉の熱を維持した。物流班はその便に積んだ栄養肉の二割を失ったが、残りを三回に分けて届けた。四日分の本体備蓄は進化区画と二つの地下庫へ先に分散してあり、失った量は予備〇・二日分の範囲だった。
残党は一ヶ所も完全には壊せず、負傷した仲間を連れて北へ退いた。
勝鬨は聞こえない。代わりに、負傷者の名と失った物資が読み上げられる。
空牙狼一頭重傷、作業員三名火傷、見張り二名刺傷。主水路停止、主炉停止、輸送便の予備栄養肉二割、〇・二日分を損失。進化用の本体備蓄四日分は維持。対圧杭は残り二本のまま。
そのすべてを聞いた後、俺の意識はまた沈んだ。
四日目、感覚が消えた。
音も熱も水もない。自分が生きているのか分からない。恐怖が喉を締める。目を開けろ。爪を動かせ。誰か呼べ。
何もできない。
遠い記憶だけが浮かぶ。暗い卵の中。ミーナが引いた蔓。ポロが見つけた水。ガンツの荷台。折れた翼で食料を奪おうとしたグラウ。
弱かった俺を、皆がここまで運んだ。
胸の中で何かが鼓動した。
一つではない。新しい肺の周りに、小さな風の室がいくつも脈打つ。そこへ魔力が流れ、全身の鱗を内側から押す。
殻が割れた。
最初の一枚が額から落ちる。光が眩しい。瞼を閉じても、周囲が見える。ガンツが左、ポロが正面、ミーナが入口、グラウが背後。目ではなく、風と振動で位置が分かる。
二枚目、三枚目。俺は前脚を伸ばした。
大きい。
爪が以前の倍近く長く、青白い光を帯びている。鱗は濃い群青から、縁だけ銀へ変わった。翼を開くと、耐圧殻の左右へ届いた。二枚だった翼の後ろに、風を整える小さな補助翼が一対ある。
「アルド?」
ミーナの声が震えた。
俺は立ち上がった。最初の一歩で天井が近い。身体の重さが変わったのに、地面の位置が分かる。領域感覚が足場を教えてくれる。
嬉しさが胸から溢れた。
「見よ! 余はついに、若き天空竜となった!」
声と同時に竜圧が漏れた。
石床の埃が円形に吹き飛び、ポロが尻餅をつく。棚の薬瓶が三本落ち、グラウが翼で受け止めた。
「出力を絞れ!」
「今のは挨拶だ」
「挨拶で棚を壊すな」
ミーナは泣きながら笑っていた。翼膜の包帯を引きずり、俺の前脚へ額を押しつける。
「本当に、戻ってきた」
「当然だ。余を誰だと思っている」
言いながら、俺も泣いていた。四日間の恐怖と、皆の声を聞くしかできなかった悔しさと、目を開けて全員がいる安堵が一度に込み上げる。
ポロが震える手で鑑定板を差し出した。
俺は自分へ鑑定を向ける。
【鑑定結果】
名前:アルド
種族:若き天空竜(個体ランクA)
Lv:40
HP:510/最大510(最大値ランクA)
MP:625(ランクA)
攻撃:164(ランクC)
防御:170(ランクC)
速度:135(ランクC)
技能:鑑定:ランクE Lv9
技能:竜圧制御:ランクD Lv1
技能:天空飛行:ランクD Lv1
技能:領域知覚:ランクE Lv1
技能:小隊指揮:ランクE Lv9
技能:都市核接続:ランクF Lv2
状態:進化完了、出力制御不安定
翼竜の時から、最大HPは九十、MPは百五、攻撃は二十五、防御は二十七、速度は二十五増えている。個体総合は五百一から六百二へ、百一増加。数字だけではない。補助翼、風室、目を閉じても周囲を捉える領域知覚。身体の仕組みが変わった。
「試すぞ」
「まず水を飲んで」
ミーナが止める。
「一度だけだ。浮く程度」
俺は翼をゆっくり開き、風室へ空気を入れた。以前は床を蹴てから風を掴んだ。今は羽ばたく前に、身体がふわりと浮く。
喜びで頭が熱くなる。
「飛べる!」
力を少し足した。
少しのつもりだった。
身体が矢のように上へ飛んだ。領域知覚が天井を告げる。止まれ。翼を閉じる。だが新しい風室に溜まった力が抜けない。
「待っ――」
頭から天井を突き破った。
石片と一緒に外へ飛び出し、卵殻城の上空へ出る。歓喜は一瞬で恐怖へ変わった。止まり方が分からない。
補助翼を逆に開く。身体が横回転した。次に尾で姿勢を直そうとして、回転が速くなる。
「アルド、翼を開ききらないで!」
下からミーナの声。
俺は片翼を半分、補助翼を左右逆へ動かした。上昇は止まった。今度は斜めに落ちる。
「地面が近いぞ!」
「見れば分かる!」
領域知覚では三十歩先まで見える。だからこそ、地面が恐ろしい速さで迫るのが分かった。
最後に翼を広げ、速度を殺す。半分は成功した。残り半分の勢いで畑の柔らかい土へ突っ込み、頭から三畝を削った。
しばらく誰も喋らなかった。
土から顔を出すと、ミーナが震えていた。心配かと思ったら、笑いを堪えている。
「初飛行で天井を壊して、畑に墜落」
「着地場所を耕してやったのだ」
ポロが畝を見た。
「苗が十二本、埋まりました」
「……植え直す」
グラウは壊れた天井を見上げた。
「強くはなった。制御は前より悪い」
悔しいが、その通りだ。以前の失敗では翼が弱くて届かなかった。今は力が強すぎて止まれない。
「明日から速度ではなく、停止を練習する。飛行は一度二十息まで。領域知覚も三十歩を越えると霧になる。竜圧は仲間の近くで使わない」
俺は自分で制限を口にした。
「それと、天井と苗は余が直す」
ガンツが頷く。
「新しい身体で最初に覚えるのが修理なら、悪くない」
黒い竜旗は北に残っている。S級本体へ、今の俺が一人で勝てるわけではない。
それでも、敗れて届かなかった空へ、もう一度上がる身体を得た。
今度は速く飛ぶためではない。皆の声が届く場所へ戻るために、止まり方から覚えるのだ。




