第40話 空を歩く王
転生九十日目。速く飛ぶな、と言われた。
そこで俺は、空中で静止して見せることにした。
空環城外環の訓練台から三歩。翼を開き、風室へほんの少しだけ空気を入れる。身体が浮く。ここまではよい。
「止まれ」
自分へ命じ、補助翼を逆へ立てた。
上昇は止まった。代わりに身体が後ろへ進んだ。
「なぜだ!」
「右の補助翼、逆!」
地上のミーナが叫ぶ。
慌てて右を返す。今度は左へ回る。尾で直す。回転が速くなる。目の前を見張り塔、空、グラウ、空、訓練台、空、ポロが順番に通り過ぎた。
「余を止めろ!」
「速度より停止を練習するって言ったの、あなたでしょ!」
ミーナの風が下から吹き、回転を一瞬遅くする。グラウが反対から小風弾を当てる。二つの風の間へ入り、俺はようやく姿勢を戻した。
着地する。つもりだった。
爪先が訓練台の端へ触れ、勢いを殺しきれず、腹から石床を滑った。置いてあった砂袋を三つ弾き飛ばし、ガンツの仮壁へ頭を突っ込む。
「成功だ」
仮壁の穴から顔を出して宣言した。
「どの部分が?」
ミーナは翼膜へ包帯を巻いたまま、黄色い目を細めた。前線へ出るにはまだ早いが、訓練指導ならできると言い張っている。
「天井は壊していない」
「壁を壊した」
ガンツが淡々と数える。
「砂袋三、板二、杭一本」
「修理する」
「その前に、もう一度だ」
意外にも、厳しかったのはガンツだった。彼は訓練台へ白い円を描く。直径は俺の身体の二倍。
「円の中へ降りろ。外へ出たら失敗。速さは測らん」
「余の進化した速度を測らなくてよいのか?」
「止まれない速さは、敵の罠だ」
黒い竜旗との初戦と再戦二日目、俺は敵を追い、戻れず、落とされた。新しい身体が速くても、同じ判断をすれば同じように負ける。
二度目は、地面から一歩だけ浮いた。補助翼を動かさず、風室から空気を少しずつ抜く。身体が沈む。前脚が円内へ触れた。後脚も。尾だけが外へ出る。
「尾は身体に含むか?」
「含むに決まってるでしょ」
三度目、尾を腹へ巻いた。格好は悪いが、円の中へ降りた。
嬉しさが込み上げ、翼を大きく開く。
「見たか!」
竜圧が漏れ、白い粉が全員の顔へ飛んだ。
「次は喜んでも出力を漏らさない練習ね」
ミーナの毛が真っ白になっていた。
「……善処する」
午前の訓練は、離陸十息、静止三息、円内着地を五回。成功は二回。旋回は半径三十歩より小さくすると補助翼が乱れ、領域知覚は周囲三十歩を越えると輪郭がぼやける。連続飛行は二十分を越えた頃から風室が熱を持ち、息が浅くなった。
「二十分で強制着地」
グラウが訓練板へ書く。
「二十一分なら飛べる」
「二十分だ」
「余の気力を考慮して――」
「墜落して畑を耕す気力か?」
ポロが十二本の苗を植え直しながら、珍しく笑った。
「二十分でお願いします」
味方がいない。
訓練と並行して、空環城の復旧も進んでいた。ガンツの工房班は焼けた風路一系統を交換し、避難民の革職人が正規弁を縫う。ポロの水路班は予備地下水路から主水路へ水を戻すが、最低保障を切らさないため一刻ごとに流量を調整する。ミーナの狩猟班は遠出せず、空牙狼と近場の角兎を二羽だけ狩り、畑を荒らす風鼠を追う。
俺の飛行試験で見張り時間は半分になった。高く上がれば、以前は二塔で別々に見ていた北と西を領域知覚で同時に確認できる。その分の二名を、畑の植え直しと工房の修理へ戻した。
強さが暮らしへ返ったのを見て、胸が熱くなる。今度は竜圧を漏らさないよう、ゆっくり息を吐いた。
昼過ぎ、南の空路に人影が現れた。
飛行獣に乗った三人と、地上の石橋を進む五人。人間王国の観測隊だ。先頭の女斥候は緑の外套を着て、槍を背へ縛っている。晶殻百足戦と、配給所を守った飛行群戦を遠くから観測していた隊の一部だ。
彼らは城壁から百歩離れた岩棚で止まった。武器を抜かず、白布と青布を並べて掲げる。白は交渉、青は救難情報の交換。以前決めた仮の合図である。
「今すぐ入れるの?」
ミーナが問う。
セラは人間たちの後方と雲を見た。
「追跡なし。けれど、本人たちが何を求めるかは聞くまで分からない」
俺は飛んで迎えに行こうとした。
「二十分の休憩がまだ」
グラウが止める。
「百歩だぞ」
「歩け」
若き天空竜になった俺が、人間を迎えるため石橋を歩いた。尊厳に関わる気がしたが、前を行く人間隊の女斥候も飛行獣から降りて歩いている。
距離十歩で互いに止まった。
「王国観測隊副長、リサ。救難と非侵攻について、暫定の取り決めを求めます」
新しい名だ。彼女は二十代半ばほど。日に焼けた頬に古い切り傷があり、俺の角より、包帯の取れたばかりの左翼を先に見た。
「余はアルド。龍王家の正統にして、この空環城を預かる者だ」
「王を名乗る件は、本国の承認対象ではありません」
いきなり冷たい。
「余が何者かを、お前たちの許可で決めるつもりはない」
「こちらも、名乗りだけで領主と認めるつもりはありません」
互いに睨む。
セラが俺の尾を踏んだ。
「目的を聞いて」
「分かっておる。リサとやら、何を求める」
彼女は地図を広げた。
「黒い竜旗は人間側の北交易路も封鎖しました。こちらの斥候が二名、空環城北東の浮島に孤立しています。救助経路を交換したい。代わりに塩、縫合糸、熱冷ましの薬材を提供できます」
「軍を入れる条件では?」
グラウが問う。
「軍事同盟は求めません。相互救難、領域への無断侵入禁止、救助者の拘束禁止。まず十日間」
条件は悪くない。だが、孤立者を助けた後で人間軍が空路を測り、攻めてくる可能性もある。
「こちらの地図を渡すのは一経路だけだ」
俺が言う。
「通行時刻を知らせ、武器は封印。救助した者へ臣従も情報供与も強要しない。お前たちも、こちらの住民を魔物というだけで捕らえるな」
リサはすぐ頷かなかった。
「武器封印は、黒旗残党がいる空で危険です」
「なら護身用を一本。城内では抜かない。余たちも人間領へ入る時は同じにする」
「救助者の尋問は?」
「本人が答える範囲だけだ」
「本国がアルド殿を領主と認めなくても、協定は守りますか」
腹が立つ質問だ。だが、ここで王と認めろと迫れば、取引と服従を混ぜることになる。
「守る。これは肩書ではなく、救助と非侵攻の約束だ」
リサの表情がわずかに和らいだ。
その時、セラが北を振り向いた。
「飛行群。十一、速い!」
灰色の影が雲から現れた。
裂空禿鷲。以前、市場と水路を同時に襲ったA級飛行群だ。数は減っているが、赤い冠羽の指揮個体もいる。俺の領域知覚へ、さらに低空の四体が別方向から入った。
「十五だ。上に十一、地上線へ四!」
以前ならセラの報告まで見えなかった分隊を、今回は三十歩の境界で捉えられた。
人間隊が武器へ手を伸ばす。
「抜いてよい!」
俺は叫んだ。
「交渉中でも、身を守る権利はある。だが城へ向けるな!」
リサが槍を抜き、部下へ円陣を命じる。
裂空禿鷲の上空隊は、俺を見て一瞬だけ翼を乱した。以前と姿が違う。それでも指揮個体が鳴くと、六体が俺を空へ誘うように上昇し、五体が人間隊へ急降下した。
「アルド、追うな!」
ミーナの声が城壁から届く。
「分かっておる!」
俺は六体を追わず、人間隊の上へ低く浮いた。
最初の禿鷲が落下穿孔で突っ込む。以前は軌道を目で追い、避けるのが遅れた。今は領域知覚に、空気を貫く細い穴として進路が見える。
半歩だけ横へ動く。
爪が鼻先を通過する。俺は敵の背へ前脚を置き、力任せに叩かず、進路を石橋の外へずらした。禿鷲は翼を開いて戻ろうとする。
グラウの風弾が一撃。左翼へ当たる。二撃目を同じ場所へ入れ、敵の旋回を止める。地上の工房射線が接着液を撃ち、片脚を橋へ留めた。
一体目は飛行不能。使った設備は一射だけ。
二体目と三体目が左右から来る。俺は竜圧を広げず、右の一体へ細く当てた。頭が下がる。左の一体は自由なまま、俺の補助翼へ嘴を伸ばす。
ミーナの風刃が嘴を逸らした。彼女は城壁から動かず、傷ついた翼を使いすぎない。
「右は任せた!」
俺は左だけを見る。敵の一撃目を前脚で払い、二撃目の尾を補助翼で風ごと外へ流す。反撃の爪を翼の付け根へ入れるが、浅い。禿鷲が急上昇する。
追わない。
上がった先へ、グラウの小風弾が待っている。敵が下へ避ける。そこへリサの投げ槍が飛び、翼膜を貫いた。
禿鷲は人間隊へ落ちる。リサたちは散り、盾役が爪を受けた。一撃で盾が割れる。二撃目が倒れた男へ向く。
俺は領域知覚で爪の軌道を読み、間へ尾を差し入れた。痛い。だが以前のように身体ごと突っ込まず、爪だけを弾く。
「今だ!」
人間二人が左右から槍の柄で翼を押さえ、グラウの風が頭を石床へ伏せさせる。二体目も無力化。
その間に、低空の四体が城壁下へ回っていた。狙いは戦っている俺ではない。復旧中の水路と、畑へ戻った二名だ。
以前なら上空の敵を追い、地上班を空けた。
領域知覚に、水路弁の振動と畑の足音が映る。
「上の六体は囮だ! ポロ、白弁を閉じろ! ガンツ、畑側の網!」
ポロは俺の姿を見ず、目的を復唱する。
「水路維持、白弁閉鎖!」
ガンツの網が一枚目を外す。禿鷲は網を避け、畑の作業員へ向きを変える。
二枚目は敵ではなく、作業員の退路上へ斜めに開いた。作業員が網の下を潜る。追った禿鷲だけが上面へ絡む。
空牙狼班が左右から脚を引き、高度を落とす。別の一体が仲間を回収しようと降りる。
俺はそちらへ飛びかけ、止まった。
冠羽の指揮個体が上で待っている。俺が地上へ降りた瞬間、背を狙う気だ。
「グラウ、指揮個体を一息!」
「一息だけだ!」
彼の風弾が冠羽へ飛ぶ。指揮個体は一撃目を翼で弾き、二撃目を風路へ流した。だが、その間に俺は地上班へ降り、仲間を回収する禿鷲の進路へ竜圧を置く。
敵は圧を避け、仲間を離した。空牙狼が退き、工房班が網を引く。
冠羽個体が急降下する。
領域知覚に、細い穴。前回より速い。それでも見える。
俺は正面から受けず、補助翼を片方だけ開いた。身体が半歩回る。爪が肩を掠める。敵の速度をそのまま通し、尾で翼端を下へ叩く。
冠羽個体は石橋すれすれで体勢を戻した。さすがA級だ。一撃では落ちない。反転し、今度は風路滑走で横から来る。
グラウが風路を逆向きにしようとする。
「変えるな!」
俺は止めた。
敵は逆流を予測して翼角を立てている。風路をそのまま保てば、立てた翼が余計な抵抗になる。
冠羽個体の速度が一瞬落ちた。
ミーナの風刃が一撃、以前傷つけた前翼へ。グラウの小風弾が二撃目。人間隊の矢が三撃目。俺は四撃目として胸へ体当たりし、すぐ離れる。
敵は高度を落としたが、仲間二体が左右から支えた。群れ回収だ。
俺は追わない。
「水路と畑を守れ! 退く群れへ道を空けろ!」
裂空禿鷲たちは負傷個体を抱え、北西へ飛び去った。十五体のうち飛行不能四、負傷六。こちらは人間盾役の腕骨折、空牙狼一頭の爪傷、俺の尾に浅傷。水路、畑、工房は稼働。使用した接着液二射、水一桶、網二枚。
前の戦いでは都市全体を動かし、備蓄を三日分失い、風路一系統を焼かれた。同じA級飛行群を、今回は少数編成と地上射線で退けた。新しい力だけではない。敵の二方面攻撃を知り、追撃を切り、各班が自分で動いた結果だ。
喜びで空へ駆け上がりたくなる。
俺は訓練の白い円を思い出し、石橋へゆっくり降りた。前脚、後脚、尾。すべて円の代わりになる橋幅の内側。
「見たか、完璧な着地だ!」
竜圧を漏らさず言えた。
ミーナが笑う。
「今のは王様らしかった」
「今までも常に――」
「それはもう聞いた」
戦後、リサは骨折した部下の腕を固定してから、俺の前へ戻った。
「こちらを救った理由を確認したい」
「交渉相手を目の前で食わせる王がいるか」
「協定前でした。見捨てても責任は問えません」
「責任を問われるから助けたのではない。困っている者がいた。仕方なく助けただけだ」
ミーナが横で吹き出した。
「何だ」
「まだ仕方なくって言うのね」
リサも口元をわずかに緩めた。
十日間の暫定盟約を結んだ。相互救難、無断侵入禁止、救助者の拘束禁止、武器は護身用一本、通行時刻と経路の事前通知。軍事同盟ではない。互いを国家として承認したわけでもない。
それでも、人間側から塩二袋、縫合糸、熱冷ましの薬材が届く。こちらは北東浮島への安全経路と、黒旗残党の時刻情報を渡す。交易は救助成功後に少量から始める。
「アルド殿を、魔物の長としてではなく、交渉可能な領主候補として報告します」
リサが言った。
「候補ではなく王だ」
「本国では候補です」
「頑固な女だな」
「お互い様です」
握手の代わりに、俺は爪先を、彼女は槍の石突きを境界石へ触れた。どちらも頭は下げない。
夕方、空路監視を二交代から一交代へ減らし、余った者を畑と工房へ戻した。塩は保存肉へ、薬材はミーナと負傷者へ、縫合糸は破れた翼膜と風路弁へ分ける。
戦闘で得た裂空禿鷲の羽軸は、新しい停止訓練の風見へ使う。次に飛ぶ時も、速さではなく止まる位置を測るためだ。
夜、俺は外環塔から空環城を見た。
黒い竜旗は北の雲に残る。S級本体へは、まだ連携なしでは近づけない。飛行も二十分が限界。領域知覚の外では、セラの目と各塔の警報が必要だ。
それでも、以前は都市総力で追い払ったA級群を、今日は低い損失で退けた。敗北した空へ戻り、追わず、止まり、守れた。
「空を歩くみたいだった」
隣でミーナが言った。
「飛んでいたぞ」
「前は空に振り回されてた。今日は、足場が見えてるみたいに止まったから」
領域知覚が、風の流れを見えない道として示している。確かに、空を歩く感覚に近い。
「ならば余は、空を歩く王だ」
「まだ王候補だって」
下からリサの声が飛んできた。
「聞いていたのか!」
笑いが塔の下へ広がる。
その笑いを割るように、地の底から低い音が響いた。
空環城の地下。王座区で切り離した劣化端末より、さらに深い場所。領域知覚の端で、巨大な何かが一度、心臓のように脈打つ。
『全住民の状態を確認』
古い声とは違う。感情のない声だった。
『最適化を開始します』
水路、風路、工房の光が、同時に地下へ向かって走った。




