第36話 黒い竜旗
空が、俺をひざまずかせようとしていた。
黒い竜旗は雲上から垂れ、空環城の西半分を覆っている。布ではない。無数の黒い鱗片と魔力が、旗の形を保ったまま空を流れていた。先端は見えず、北の雲の向こうへ続いている。
風路が沈黙した。翼を開いても風が入らず、胸の中の空気まで重くなる。
――逃亡王家の未完成個体。血統を返還せよ。
声は耳からではなく骨へ響いた。
外環の見張りが一人、膝をつく。空牙狼は腹を地面へつけ、歯を鳴らしていた。昨日戦った裂空禿鷲の群れは遠くの岩棚で身を伏せ、空へ上がろうともしない。
俺も前脚が震えている。
「返還だと?」
喉が乾き、最初の声は掠れた。俺は咳払いし、胸を張り直す。
「余は物ではない! 龍王家の正統、アルドである! 姿を見せて名乗れ!」
返事の代わりに、黒い圧力が一段強くなった。
石床へ爪が沈む。隣にいたポロが息を吸えず、口を開閉している。俺は翼を伸ばして彼の上へ覆いかぶさった。
「全員、建物の中へ!」
ミーナが叫ぶ。彼女も耳を伏せ、四肢を震わせていたが、配給列の子どもを一人ずつ押して地下通路へ送っている。
グラウは報告板を倒し、裏に描いた三拠点図を開いた。
「接触の目的は観測と住民保護だ。戦うと決めるな。空環城、卵殻城、外部狩場へ物資を分ける。ガンツ、残った風路を止めろ。ポロ、飲用水を封印瓶へ。ミーナ、最後尾を頼む」
「余は?」
「降りろ。あれを鑑定できるか確かめる」
命じられるのは気に入らない。だが、俺は翼の下のポロを地下入口へ渡し、塔の陰へ身を低くした。
黒い旗へ鑑定を向ける。
いつもなら対象の輪郭から情報が流れ込む。今は違う。視界が真っ黒に塗り潰され、頭の奥へ熱い杭を打ち込まれた。
「ぐっ……!」
鼻から血が落ちる。脚が崩れ、石床へ顎を打った。
「切れ!」
グラウの翼が目を覆う。鑑定を止めても、視界の中央に黒い染みが残った。
「見えた?」
ミーナが駆け戻り、俺の鼻血を舐め取るように確認した。
「いや。鑑定が届く前に押し返された」
その事実を口にするだけで、腹の底が冷える。鑑定できない相手は初めてではない。だが今回は距離すら分からない。声の主は、この空に本体を見せてもいないのだ。
「S級以上の本体が遠隔で圧を送っている」
俺は推測と分けて伝えた。
「確定できるのは、ここに本体はいないことだけだ。旗は接続だ。どこかに中継する個体がいる」
セラが北の雲を指した。
「動く影が一つ。ほかの黒旗兵より大きい」
雲が裂けた。
現れたのは、黒鉄色の翼竜だった。頭から尾まで二十歩近い。二対の翼の前側には銀の鎖模様が刻まれ、胸には紫色の結晶核が埋まっている。後ろには小型の黒翼兵が十二。いずれも首へ同じ鎖印を焼きつけられていた。
中継個体が一度羽ばたくと、止まっていた風が逆向きに流れた。外環の旗、屋根、警報糸が一斉に北へ引かれる。
「あれなら見える」
俺は痛む頭を押さえ、距離を詰めすぎないよう鑑定した。
【鑑定結果】
種族:鎖冠翼竜(個体ランクA)
Lv:52
HP:612(ランクA)
MP:748(ランクA)
攻撃:176(ランクC)
防御:181(ランクC)
速度:169(ランクC)
技能:従属刻印投射:ランクC Lv3
技能:風路封鎖:ランクC Lv2
技能:中継指揮:ランクC Lv4
状態:北方の高位個体と遠隔接続中
俺よりすべてが上だ。総合でもA級上位。昨日の指揮禿鷲さえ、この個体の前では小さく見える。
結果を共有すると、防衛班の顔が青ざめた。
「退路確認」
グラウが即座に言った。
「南風路は停止。上昇水路はまだ使える。外橋を三本に分け、住民を卵殻城、狩場拠点、地下仮治療所へ送る」
「待て。あれは余の血統を知っている。話ができる」
俺は中継個体へ向き直った。
「敵が話す気なら、先に旗を下げる」
「余が王族だと示せば、従うかもしれん」
「従わせる話になってるじゃない」
ミーナの声が鋭い。
違う。俺は皆を危険から救いたいだけだ。龍王家同士なら、戦わずに済むかもしれない。だが胸のどこかで、あの巨大な旗に血統を認めさせたいと思っていた。
中継個体が口を開いた。
『未完成王族へ告ぐ。翼を伏せ、血を差し出せ。従属群は保存する』
「我らは従属群ではない!」
俺の怒声が空へ響く。
『ならば選別する』
胸の結晶核が紫に光った。
「遮蔽物へ!」
グラウの警告と同時に、幾何学模様の光が空環城へ降った。円と鎖を組み合わせた刻印が、見張り塔、配給所、水路の三ヶ所へ広がる。
俺は配給所の上へ飛び、竜圧をぶつけた。光の鎖が一瞬たわむ。押し返せると思った。
二本目の鎖が死角から翼へ巻きついた。
「しまっ――」
身体の中へ冷たい命令が流れ込む。
伏せろ。
俺の左翼が勝手に畳まれた。浮力を失い、配給所の屋根へ落ちる。瓦を突き破り、昨日立てた残量板の横へ肩から叩きつけられた。
『王権序列を確認。下位血統』
「ふざけるな!」
俺は鎖を噛み、魔力を逆流させた。歯の間で紫の火花が散る。一本は切れた。だが切れた端が蛇のように動き、今度は前脚へ巻きつく。
ミーナの風刃が鎖を打つ。一撃目は弾かれ、二撃目で表面に亀裂が入る。グラウの風弾が同じ場所へ重なり、前脚が自由になった。
「アルド、降りろ! 住民を先に出す!」
「この個体を退ければ圧が消える!」
俺は屋根を蹴った。
一度目の上昇は逆風に潰され、元の高さへ落とされる。二度目、工房の噴射具が下から風を送り、俺の翼を持ち上げた。ガンツが残った風袋を繋いでいる。
「三息だけだ!」
その三息で、中継個体の腹下へ潜った。竜圧を一点に絞り、胸核へ爪を振るう。
敵は避けなかった。
爪が黒い鱗へ当たり、甲高い音を立てる。傷は浅い。敵の防御は俺よりはるかに高い。
二対の翼が別々に動いた。前翼が俺の風を奪い、後翼が横から打ちつける。視界が白く弾け、俺は空中で三回転した。
何とか姿勢を戻す。正面に敵はいない。
「後ろ!」
セラの声。
振り向くより早く、爪が背を裂いた。右翼の打撲が開き、熱い血が散る。俺は尾を振って敵の顔を狙うが、届かない。
中継個体は上へ抜け、黒翼兵へ短く鳴いた。十二体が二列に分かれ、逃げ始めた住民の橋へ急降下する。
俺を倒すことより、守る相手を狙っている。
「卑怯者が!」
追おうとすると、中継個体が前へ立つ。俺を住民から切り離す壁だ。
地上ではミーナが最後尾の上を飛び、黒翼兵の初撃を爪で逸らした。一体目の嘴が肩を掠め、二体目が水瓶を掴む。ポロは水瓶を捨てず、荷車の下へ潜った。
「水は置いて逃げて!」
ミーナが叫ぶ。
「各拠点で二日分しかないんです!」
ポロは泣きそうな声で綱を握る。
ガンツが荷車の車軸を外した。水瓶を載せた床板だけが斜面を滑り、黒翼兵の爪を逃れる。残った車輪を盾にして、ガンツは三体目の突進を受けた。
グラウは住民列を一つにせず、三つへ分けた。
「卵殻城組は南橋! 狩場組は下層梯子! 治療所組は水路沿い! 自分の札の色だけ見ろ!」
黒翼兵は長い列の先頭を潰そうとしたが、列が分かれて狙いを失う。一体が南へ、一体が下層へ、残りが水路へ迷う。
内政で作った三つの避難先が、今は敵の攻撃を分けている。
俺は中継個体を倒すのを諦め、住民側へ降りようとした。
『逃走を許可しない』
敵の胸核から二度目の刻印が放たれる。今度は俺ではなく、上昇水路全体へ鎖模様が走った。水が空中で止まり、逆流して管を膨らませる。
ガンツが叫ぶ。
「水路を捨てる! 弁を切れ!」
ポロの顔が歪んだ。
「ここを切ったら、外環の水が全部止まります!」
「破裂すれば地下まで失う!」
ポロは一瞬だけ目を閉じ、切断槌を振り下ろした。一度目は細い腕が震え、楔が半分しか入らない。黒翼兵が背後へ降りる。
ミーナが間へ入り、爪を受けた。銀灰色の毛に赤い線が走る。
「ポロ、もう一度!」
二度目の槌で弁が割れた。外環側の水が滝になって空へ散る。だが地下への逆流は止まり、三拠点へ分けた封印瓶は守られた。
「よくやった!」
俺が叫んだ瞬間、中継個体の尾が左から来た。
避けきれない。左翼の根元へ硬い棘が食い込み、翼膜を縦に裂いた。
声にならない悲鳴が出た。
空が消える。
俺は回転しながら落ちた。外壁が迫る。右翼を開くが、左が開かず身体が傾く。一度壁へぶつかり、爪が石を削り、さらに下へ落ちる。
黒い影が追ってくる。中継個体は落下中の俺へ爪を揃えた。次を受ければ、立てない。
ミーナが下から風を送る。弱い。彼女も傷つき、息が切れている。
グラウの風が横から重なった。二つの風で俺の落下角度が変わり、敵の爪が胸ではなく肩を抉る。
俺は下層橋へ激突した。橋板が三枚砕け、身体が半分外へ投げ出される。
起きろ。王が倒れていてどうする。
前脚へ力を入れる。動かない。息を吸うたび肋の奥が痛む。左翼から流れた血が石を濡らしている。
中継個体が橋上へ降りた。大きい。近くで見ると、俺の翼は片方だけでも相手の前翼より短い。
『下位血統。服従を選べ』
「断る」
俺は立てないまま牙を見せた。
『ならば群れを失う』
胸核が光る。
俺は最後の魔力で竜圧を放った。敵の首がわずかに揺れる。止まらない。紫の鎖が俺の額へ迫る。
黒い風が間へ割り込んだ。
グラウが橋へ着地し、蓄えていた風袋二つを同時に破った。暴風が石粉を巻き上げ、敵の視界を塞ぐ。
「撤退だ、アルド」
「まだ……」
「負けたんだ」
その言葉が、敵の爪より深く刺さった。
「住民は三路へ入った。ここで死ねば、次の判断を誰が直す」
俺は敵を見た。胸核へつけた傷は浅く、飛行にも支障がない。こちらは左翼が裂け、立つことすらできない。
「……空環城外環を放棄する。三拠点へ撤退。設備は使えるものだけ止め、壊すために戻るな」
命令を口にすると、何かが胸の中で折れた。
グラウとミーナが俺の左右へ綱を回す。ガンツが後方で橋を一枚落とし、敵の追撃路を狭めた。ポロは泣きながら封印瓶の数を数え続ける。
黒翼兵が追ってくる。下層梯子の上から針を投げ、住民三名が腕と背を傷つけられた。
ミーナが振り返り、風刃を一度。敵は避けて高度を上げる。二度目は撃たず、彼女は最後尾の子どもを背へ載せた。勝つためではなく、追いつかれないために力を残す。
ガンツが事前に作った切替板を倒すと、外環工房の火が落ち、卵殻城の小炉へ魔力が移る。ポロの予備管は地下仮治療所へ細い水を送る。狩場拠点では、昨日休ませた東の狩場から保存肉が運び込まれていた。
一つの城は失った。それでも、水も火も食料も、完全には止まらない。
敵は卵殻城まで追ってこなかった。黒い旗は空環城の上へ残り、中継個体が外壁塔へ爪をかける。占領したのだ。
仮治療所で傷を洗われた時、俺は声を上げそうになった。左翼の裂け目は根元近くまで達し、飛べる状態ではない。住民三名は軽傷。ミーナの肩、ガンツの前腕、グラウの翼端にも傷がある。
「余が対話に固執した」
俺は寝床へ伏せたまま言った。
「血統を示せば、相手も王族として扱うと思った。鑑定できない圧に動揺し、それを隠すために前へ出た。最初の刻印で落とされた後も、倒せば全部終わると考えた」
誰も慰めない。
ミーナは薬布を噛んだまま、目に涙を溜めていた。
「私は、あなたを止めきれなかった。住民を守る役と、あなたを追う役を分けるべきだった」
ポロは水瓶の札を並べる。
「外環の水を失いました。でも、封印瓶は三ヶ所に分けました。各拠点二日分です」
ガンツは折れた切断槌を置いた。
「設備を直す前に、敵の刻印が通る管を調べる。風路と上昇水路を同時に塞がれた。今のまま戻れば同じだ」
グラウは最後に言った。
「敗因はアルド一人ではない。俺は撤退線を作ったが、敵が来る前に三拠点へ物資を十分移せなかった。二日分では避難民まで養えない」
外からざわめきが届いた。
卵殻城の入口に、見知らぬ魔物の群れが立っていた。背に荷を負い、幼い者と負傷者を囲んでいる。黒い竜旗に巣を追われ、行き場を失った者たちだ。
こちらの備蓄は、各拠点二日分。
俺は裂けた翼を見た。空環城へ戻ることも、狩りへ飛ぶこともできない。
それでも、彼らを追い返すという選択だけはなかった。
「話を聞く。水を半杯ずつ用意せよ」
「足りなくなるわよ」
ミーナが涙を拭いながら言う。
「分かっている。だから条件も聞く。滞在か、帰還か、別の場所へ行くのか。余が勝手に臣下へはしない」
黒い旗の下で敗れた俺に、王を名乗る資格があるのかは分からない。
空環城に残したものを数える。風路一系統、主工房、二つの配給槽、修理途中の橋、そして皆で守った空路。数字にするたび、胸の傷がもう一度開くようだった。だが失ったものを曖昧にすれば、取り戻す方法も曖昧になる。
次は血統ではなく、敵の風、刻印、退路を測る。一人で上へ行かず、三拠点が生きたまま戦える形を作る。その約束を、俺は裂けた翼の痛みと一緒に覚えた。
だが今は、目の前で渇いている者へ水を出す。それだけは決められた。




